沢山の人々の人生が一瞬にして喪われた。2011年03月13日 21時57分45秒

★ずっと本やマンガで想定されていたことが現実になるとは

 大地震から二日半過ぎたのに、被害は収まり全容がはっきりするどころか、事態の全貌がさらに明らかになりつれさらに拡大していくことは間違いない、大袈裟でなく有史以来のとてつもない大惨事だとわかってきた。原発の事故もどうなるか非常に不安である。

 東北現地の惨状はテレビでさんざん報道されているが、ニュースにならなくても東京都心や千葉など近県でもかなりの被害が出ているようだ。友人の住む都内湾岸部のマンションでは人命に異常なくても室内のモノが倒れ落ちガラスなどが割れ散乱し片づけに追われて未だ生活再開のメドが立っていないとのことである。

 自分の家や近所など多摩地区は幸い大したことなかったので事態がもう一つピンと来なかったのだが、近いうちにまた大きな地震が誘発されて起きる可能性もかなり高いとのことで、不安感は今頃になって高まってきている。こんな現実がじっさいに来るとはSFやマンガでさんざん近未来パニックについては想定され描かれ読んではいたが未だ実感がわいてこない。世界の終わりとか破滅という言葉が現実味を帯びてきている。いつかこんな日がこんなことが来ると誰もが薄々と思っていたことがついにやってきたのである。

 憤りに近いような様々な思いがわいてくるが、今ともかく思うのは、東北地方太平洋沿岸部の町々に住む人々の命と暮らし、つまり彼らの人生が巨大地震とそれによってもたらされた津波のためにあっと言う間に失われてしまったことに対する怒りと哀しみである。
 未だ助けを求めている人々も多数いるだろうし、命は助かったが、家族と離ればなれになり今不安と心配の只中にいる人々の心中はいかほどであるか想像しただけでも胸が塞がれる思いがする。

 今はまだ災害救助ボランティアも現地に入れる状況ではないようだし、自分も家族のこともありとても行けないのはわかっているが、テレビでこの被害を見るたび何かできることはないものかと奮い立つ気持ちがある。これは紛れもない天変地異である。しかしそこに政治の責任も間違いなくあるし、被災を逃れた者がすべきこと、できることは必ず何かあると思える。

 人は皆、ささやかな平穏なありふれた日常を生きている。そしてそれこそが実は幸福なのだと気がつく。大地震は一瞬にしてその幸福を人々から奪いどん底に突き落としてしまった。
 しかしそんなときだからこそ人は助け合い共に何かできることがあるのではないか。この数日ずっとそのことを考えている。パンドラの箱は開いた。ならば絶望の中にこそ希望があるのだ。