異物を拒絶、排除する思想と受容、共生の思想2011年05月05日 22時04分55秒

★イエスは言った。自ら罪なき者はこの女に石を打てと。

 今年の春一番について自ら思うことは一通り書いた。すっきりした。もう何も思い残すことはないし、増坊を捕らえて尋問し悪罵を投げつけた若者たちに対しても何一つ思うことは怒りも含めて何もない。彼らは若く真面目で全力で彼らが信ずる正義に向き合ったのに過ぎないからだ。それは良いことに違いない。

 ただ、気になるのは、春一番自体の変質というか、その主催者側の意識の変容であり、昔読んだ本の中にあった言葉を借りれば、反体制は時と共に体制へと変化し権威となるという言葉そのままに今や自らと異なる考えの者、異物を単に好き嫌いの感覚だけで排除し始めている。一個人の私物だと考えればそれもまた当然許されるだろうし、嫌なら来るなと開き直れる。だが、それを続けていけばその先には誰も後をついてくる者はないことだけは確かで、すべての運動、思想、国家的なものから小規模のグループまで同じ道筋を繰り返している。

 どんな運動でも活動でも人が集まり共に何かを成しえようとするとき、異なる人たちをどう扱うかが問題となる。それは運動や活動の足を引っ張り邪魔になるだけだから来るなとつまみだすこと、除外はたやすい。しかしそれをやっている限りそのグループに発展も拡大もないし、日本の左翼運動が衰退したのはまさにその一点に尽きる。

 これは欧米社会を見ればわかることだが、移民の問題も含めて、国家はその中に抱える異物に頭を抱えてきた。しかし、それでも仕方ないにしろ異物である外国人やマイノリティを受け入れて、共生していく道を選んだ国家のみ栄えていく。それは古代ローマの頃より歴史を見れば確かなことであり、日本のように外国人という異物を常に排斥し、ニッポンジンだけの国を未来永劫続けていこうと考えたことが今日の少子高齢化社会を招いた。このままでは日本という国は世界地図から消えていくかもしれない。

 自分、増坊は常にどんな社会、グループの中でも異物であった。しかし、阿部ちゃんが生きていた頃の春一はこんなヘンな怪しい胡散臭い男でさえもやさしく受け入れてくれた。それが共生ということだ。だからこそ自分は毎年その仲間たちに会うことを楽しみに大阪に足を運んできた。
 自らと異なる者とどう向き合い、認め受け入れ、そして共に生きるのか、大震災後の日本は改めてそのことが試されている。人は弱い。完全な人はいない。ならば自らの非も認め、異なる者を赦すこと、その寛容さこそ今求められていると考えた。

 明日からMズロースの平井君と福島県いわき市の復興音楽イベント「いわきサイコーです!!」に行っている。ブログは休みます。
 戻るのはたぶん日曜日の夜。春一を追い出された自分に出来ることは今はまずそのぐらいしかない。また報告します。

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