犬を埋める ― 2012年05月01日 09時46分47秒
犬を埋める
狭い庭に大きな穴を掘り
犬を埋める
17歳で死んだ犬を埋める
犬と一緒に17年の歳月も埋める
天国でまた一緒に散歩しよう
好きだったお決まりのコースを歩こう
その日までその日まで
待っていておくれ
忘れないでおくれ
きみのことは忘れない
クリーム色のつまった毛並みの
レトリバーのハーフ
ピンク色の鼻先
とても利口でおとなしく
誰からも愛され気立てがよかった
犬と一緒にいろんなところへ行った
海にも山にも夏も冬もいつも一緒だった
大きな病気もしたけれどがんばって治った
でも歳月を重ね少しづつ衰えてゆき
目はかすみ耳も遠く歩けなくなって
最後は眠るように死んだ
犬を埋める
17年の年月も一緒に土に埋める
でもいつかまたきっと会える
その日までさようなら
犬を埋める
狭い庭に大きな穴を掘り
犬を埋める
17歳で死んだ犬を埋める
犬と一緒に17年の歳月も埋める
天国でまた一緒に散歩しよう
好きだったお決まりのコースを歩こう
その日までその日まで
待っていておくれ
忘れないでおくれ
きみのことは忘れない
クリーム色のつまった毛並みの
レトリバーのハーフ
ピンク色の鼻先
とても利口でおとなしく
誰からも愛され気立てがよかった
犬と一緒にいろんなところへ行った
海にも山にも夏も冬もいつも一緒だった
大きな病気もしたけれどがんばって治った
でも歳月を重ね少しづつ衰えてゆき
目はかすみ耳も遠く歩けなくなって
最後は眠るように死んだ
犬を埋める
17年の年月も一緒に土に埋める
でもいつかまたきっと会える
その日までさようなら
犬を埋める
虚脱感に苛まれて ― 2012年05月01日 22時08分12秒
★全てが終わった今
新潟から帰って一夜明けた。昨日は、仮眠もとらず夕方から国分寺へ車を走らせて女友だちの個展の搬出を手伝った。まあ、睡眠不足でも疲労困憊、心労心痛であろうとも全ては無事に終わり、5月初日、今朝はまたいつも通り朝早くから起きた。明け方小雨がぱらつき外は濡れていた。
朝食後、雨が本格的に降る前に犬を埋めてからは、どっと疲れが出て泣き疲れるという言葉どおり自分のベッドで昼過ぎまで深く眠った。夢もみなかった。
虚脱感という言葉がある。昂揚、興奮、そして緊張していた感情が通り過ぎて今は急に虚しいというか淋しいようなすっからかんの気持ちである。祭りの後の淋しさなのか。気がつくと、さてこれからどうしようかと日に何度となく呟いている。
むろん、次は一月後また新潟へ行き、今回の熊坂ライブを企画した同じ仲間たちと京都の詩人有馬敲を新潟に招いて詩と朗読のコンサートに関わらねばならない。疲れが出てきたせいか今はちょっとしんどい気分でいる。そう、全てが終わったわけでは決してない。
ただ、あとは残った犬、猫たちを見送って、そして老親を看取ればもうそれで全て終わりでいいと思えてきた。その残された日々を彼らと一日一日ていねいに生きていけばそれだけで良い。
人から求められたらできることは何でもしよう。けれど、もう自ら何か仕掛けて何かをやろうなんて考えないでよいのではないか。今までの自分は常に先走りすぎた。できないのに愚かにもあれこれやりすぎた。気力が萎えてきたのかわからないが、自分の「使命」が見えない、わからなくなった。突然欝病に襲われたのか。死ぬまでの人生、あと何をしてどう生きていくか。
やるべきことは山ほどある。もっと働いて真剣に稼がないとならない。でもオレはいったい本当は何がやりたいのか。自分が人に認められ必要とされることはいったい何なのか。自分に何の価値があるのか。
この連休中はできるだけ出かけずにゆっくり考え直してみたい。「使徒行伝」の中での迫害者サウロに神が語りかけたように、なすべきことを示す、その声が聞きたいと切に思う。
新潟から帰って一夜明けた。昨日は、仮眠もとらず夕方から国分寺へ車を走らせて女友だちの個展の搬出を手伝った。まあ、睡眠不足でも疲労困憊、心労心痛であろうとも全ては無事に終わり、5月初日、今朝はまたいつも通り朝早くから起きた。明け方小雨がぱらつき外は濡れていた。
朝食後、雨が本格的に降る前に犬を埋めてからは、どっと疲れが出て泣き疲れるという言葉どおり自分のベッドで昼過ぎまで深く眠った。夢もみなかった。
虚脱感という言葉がある。昂揚、興奮、そして緊張していた感情が通り過ぎて今は急に虚しいというか淋しいようなすっからかんの気持ちである。祭りの後の淋しさなのか。気がつくと、さてこれからどうしようかと日に何度となく呟いている。
むろん、次は一月後また新潟へ行き、今回の熊坂ライブを企画した同じ仲間たちと京都の詩人有馬敲を新潟に招いて詩と朗読のコンサートに関わらねばならない。疲れが出てきたせいか今はちょっとしんどい気分でいる。そう、全てが終わったわけでは決してない。
ただ、あとは残った犬、猫たちを見送って、そして老親を看取ればもうそれで全て終わりでいいと思えてきた。その残された日々を彼らと一日一日ていねいに生きていけばそれだけで良い。
人から求められたらできることは何でもしよう。けれど、もう自ら何か仕掛けて何かをやろうなんて考えないでよいのではないか。今までの自分は常に先走りすぎた。できないのに愚かにもあれこれやりすぎた。気力が萎えてきたのかわからないが、自分の「使命」が見えない、わからなくなった。突然欝病に襲われたのか。死ぬまでの人生、あと何をしてどう生きていくか。
やるべきことは山ほどある。もっと働いて真剣に稼がないとならない。でもオレはいったい本当は何がやりたいのか。自分が人に認められ必要とされることはいったい何なのか。自分に何の価値があるのか。
この連休中はできるだけ出かけずにゆっくり考え直してみたい。「使徒行伝」の中での迫害者サウロに神が語りかけたように、なすべきことを示す、その声が聞きたいと切に思う。
6月2日~3日の新潟での有馬敲を囲んで詩朗読ツアー参加者募集 ― 2012年05月02日 04時55分50秒
★東京から車出す予定なので同行者募集します。
雨交じりの暖かい朝である。また外が白み始める頃に起きてしまった。老犬の面倒に日々追われていて気がつけば5月に入っていた。
もう、あれこれかまえず考えずに自分ができること、やるべきできることだけをやっていこうと決意した。
魂のアコーディオン弾き・熊坂路得子さんの今年の新潟公演ツアーの報告は少しつづ今日から別ブログのほうでアップさせていく予定として、今ちょっと迷いどうしたものか思案していることがある。それは来月2日新潟での詩人・有馬敲を迎えて詩の朗読コンサートへどうやって行くかだ。で、相談したい。
その熊坂ルッちゃんとの新潟行きは、東京から前回のときと同じく、彼女の親衛隊の大将、K氏がご自分の車を運転されて彼女を送るのに増坊も同情した。むろんガソリン代など交通費は割り勘であっても実質は全行程彼が運転しての勤労奉仕であり、毎度の事ながら有り難く大いに助かった。この場であるが改めて感謝したい。6月のその詩朗読コンサートは彼は参加しないので、こうした楽ちんはできないのである。
自分の気持ちとしてはKさんのお車には及ぶはずもないが、ウチの車を出そうかと考えている。でもそれは確定ではなく、東京から同乗者が他に3人いることが前提となる。もし、自分ひとりで行くならば運転などしたくないし、ガソリン代もバカ高いので別な方法を考えなくてはならない。たぶん危険だが格安の夜行バスとなるか。今の自分の収入では新幹線など夢のまた夢、まさに夢の新幹線なのだ。
車で行くとしたら東京を朝早めに2日土曜日の朝に出る予定。そして向こうで一泊して、まあ泊まるところは何とかなるとして、日曜の昼前頃出発して夕刻東京に戻る予定となろう。
車で行くかはまだ確定していない。東京からの参加同行される方がいるかどうかだ。運転は大変でも自分としては皆でわいわい騒ぎつつ行けたら楽しいなあと思っている。関心ある方はまず詳しいことは問い合わせからご連絡ください。なにはともあれまずどうやって新潟に行くかだけは早く決めないとならないので。 どなたでもどーぞお気軽に、一緒に行きましょう! 090-8175-8479 マスダ
雨交じりの暖かい朝である。また外が白み始める頃に起きてしまった。老犬の面倒に日々追われていて気がつけば5月に入っていた。
もう、あれこれかまえず考えずに自分ができること、やるべきできることだけをやっていこうと決意した。
魂のアコーディオン弾き・熊坂路得子さんの今年の新潟公演ツアーの報告は少しつづ今日から別ブログのほうでアップさせていく予定として、今ちょっと迷いどうしたものか思案していることがある。それは来月2日新潟での詩人・有馬敲を迎えて詩の朗読コンサートへどうやって行くかだ。で、相談したい。
その熊坂ルッちゃんとの新潟行きは、東京から前回のときと同じく、彼女の親衛隊の大将、K氏がご自分の車を運転されて彼女を送るのに増坊も同情した。むろんガソリン代など交通費は割り勘であっても実質は全行程彼が運転しての勤労奉仕であり、毎度の事ながら有り難く大いに助かった。この場であるが改めて感謝したい。6月のその詩朗読コンサートは彼は参加しないので、こうした楽ちんはできないのである。
自分の気持ちとしてはKさんのお車には及ぶはずもないが、ウチの車を出そうかと考えている。でもそれは確定ではなく、東京から同乗者が他に3人いることが前提となる。もし、自分ひとりで行くならば運転などしたくないし、ガソリン代もバカ高いので別な方法を考えなくてはならない。たぶん危険だが格安の夜行バスとなるか。今の自分の収入では新幹線など夢のまた夢、まさに夢の新幹線なのだ。
車で行くとしたら東京を朝早めに2日土曜日の朝に出る予定。そして向こうで一泊して、まあ泊まるところは何とかなるとして、日曜の昼前頃出発して夕刻東京に戻る予定となろう。
車で行くかはまだ確定していない。東京からの参加同行される方がいるかどうかだ。運転は大変でも自分としては皆でわいわい騒ぎつつ行けたら楽しいなあと思っている。関心ある方はまず詳しいことは問い合わせからご連絡ください。なにはともあれまずどうやって新潟に行くかだけは早く決めないとならないので。 どなたでもどーぞお気軽に、一緒に行きましょう! 090-8175-8479 マスダ
長い夢から覚めたような・・・ ― 2012年05月02日 17時22分37秒
★すべては夢か現か幻か
外は強い雨が音を立てて一日中降り続いている。風薫る爽やかな五月晴れの月に入ったのにどうしたことか。予報では明日もこんな雨模様である。
今日、2日は、昼食後、どうしても起きていられず寝床に入り昼寝してしまった。久しぶりにたっぷりと深く眠り気がついたらもう夕方5時近く。よく覚えていないがいろんなな夢をたくさん見た。もっと寝ていたかった。それだけ睡眠不足が溜まっていたのだと気がつく。
十分に睡眠は戻り頭はスッキリした気がしているけれど、この数日間、いや、老犬が衰弱して介護に時間がとられるようになってから新潟旅行までのことが全てが夢の中のこと、長い夢を観ていた気がしている。そしてこう考えた。
もしかしたら自分は脳梗塞か何かで倒れて、あるいは交通事故で意識を失ってベッドに縛り付けられてこうした長い夢を見ていたのかもしれない。起きてぼんやりた頭ですぐ思ったのは、どこまでが現実に起きたことなのか、だった。すべては自分が意識を失くしベッドの中で眠りの中で夢見たことなのかもしれない。それが証拠にこのところメールも電話もコメントも何一つ誰からも連絡がない。外の世界から閉ざされて、ただ雨の音だけがしている。聴こえるのは雨の音だけ。静かである。
けれど、、借りている倉庫の家賃の支払いを月末に払いに行くのをうっかり忘れていたことや、注文本の発送をこの雨の中どうするか思い出してはたと現実に引き戻された。そして一階に降りて老犬が眠っていた玄関の場所がぼっかり空いていることを確認して昨日骸を埋めたことを思い出し、一連の出来事がすべて現実だったのだと悟った。少しだけ涙と鼻水が出た。ようやく哀しみが現実感としてどっと押し寄せてきた。
でもまたこうも考える。これもまた夢、まだ長い夢の中の出来事なのではないだろうかと。人生なんて覚めない長い夢のようなもので、死んだときになって初めて、ああ全ては夢だったのかと気づくのかもしれない。なかなか覚めない夢ならばもうどうにだって生きたってかまわないではないか。そして何が起きたって。素晴らしく楽しかった新潟でのことも、愛犬との辛い別れも、楽しいことも悲しいことも良いことも悪いことも全ては夢、夢の中での出来ごとなのだ、と。この夢から覚めればきっと死んでしまった人たちとももう一度会えるのだ。
まだ外から帰って玄関を開けると、死んでしまった犬の匂いがしている。それは嫌な死臭ではなく、干草のような春の陽射しのような彼女独特の懐かしい体臭だ。体は土にうめてしまったけれど、魂はまだそこにいるのだと気がつく。
このところちょっと自分のことばかり書きすぎた。昔ならこうしたときしばらくブログは休止して平常心に戻るまでいったん「終わり」にするところだが、まだいろいろあってそうもできない。書き続けていく。ならばもう自分のことはできるだけ書かないようにするつもりでいる。どうかもし読んでくれている方がいたらもう少しだけお付き合いください。自分はどうかしていた。まだ頭はぼーとして少しだけ鈍く痛い。
老親の世話も残っている。まだ夢の世界に行くわけにはいかない。
外は強い雨が音を立てて一日中降り続いている。風薫る爽やかな五月晴れの月に入ったのにどうしたことか。予報では明日もこんな雨模様である。
今日、2日は、昼食後、どうしても起きていられず寝床に入り昼寝してしまった。久しぶりにたっぷりと深く眠り気がついたらもう夕方5時近く。よく覚えていないがいろんなな夢をたくさん見た。もっと寝ていたかった。それだけ睡眠不足が溜まっていたのだと気がつく。
十分に睡眠は戻り頭はスッキリした気がしているけれど、この数日間、いや、老犬が衰弱して介護に時間がとられるようになってから新潟旅行までのことが全てが夢の中のこと、長い夢を観ていた気がしている。そしてこう考えた。
もしかしたら自分は脳梗塞か何かで倒れて、あるいは交通事故で意識を失ってベッドに縛り付けられてこうした長い夢を見ていたのかもしれない。起きてぼんやりた頭ですぐ思ったのは、どこまでが現実に起きたことなのか、だった。すべては自分が意識を失くしベッドの中で眠りの中で夢見たことなのかもしれない。それが証拠にこのところメールも電話もコメントも何一つ誰からも連絡がない。外の世界から閉ざされて、ただ雨の音だけがしている。聴こえるのは雨の音だけ。静かである。
けれど、、借りている倉庫の家賃の支払いを月末に払いに行くのをうっかり忘れていたことや、注文本の発送をこの雨の中どうするか思い出してはたと現実に引き戻された。そして一階に降りて老犬が眠っていた玄関の場所がぼっかり空いていることを確認して昨日骸を埋めたことを思い出し、一連の出来事がすべて現実だったのだと悟った。少しだけ涙と鼻水が出た。ようやく哀しみが現実感としてどっと押し寄せてきた。
でもまたこうも考える。これもまた夢、まだ長い夢の中の出来事なのではないだろうかと。人生なんて覚めない長い夢のようなもので、死んだときになって初めて、ああ全ては夢だったのかと気づくのかもしれない。なかなか覚めない夢ならばもうどうにだって生きたってかまわないではないか。そして何が起きたって。素晴らしく楽しかった新潟でのことも、愛犬との辛い別れも、楽しいことも悲しいことも良いことも悪いことも全ては夢、夢の中での出来ごとなのだ、と。この夢から覚めればきっと死んでしまった人たちとももう一度会えるのだ。
まだ外から帰って玄関を開けると、死んでしまった犬の匂いがしている。それは嫌な死臭ではなく、干草のような春の陽射しのような彼女独特の懐かしい体臭だ。体は土にうめてしまったけれど、魂はまだそこにいるのだと気がつく。
このところちょっと自分のことばかり書きすぎた。昔ならこうしたときしばらくブログは休止して平常心に戻るまでいったん「終わり」にするところだが、まだいろいろあってそうもできない。書き続けていく。ならばもう自分のことはできるだけ書かないようにするつもりでいる。どうかもし読んでくれている方がいたらもう少しだけお付き合いください。自分はどうかしていた。まだ頭はぼーとして少しだけ鈍く痛い。
老親の世話も残っている。まだ夢の世界に行くわけにはいかない。
居ながらにしての時代・1 ― 2012年05月03日 23時32分54秒
★夢の21世紀に生きてみて
気がつけば21世紀もゼロ年代から10年代へ、既に10年以上経っている。子供の頃、さんざん科学雑誌やマンガ、SFで憧れ夢見た、あのイストレーター真鍋博描くところの世紀に入っているわけだが、世紀の変わり目にはそれなりに感慨もあった気がするものの気持ちとしては何一つ前世紀との差は特にない。
生活も自分の場合、パソコンは所有し、薄型液晶大型テレビも居間になくはないが、携帯電話は旧型でメールだって送れないし、洗濯機も二層式でほぼ20世紀の暮らしを続けている。車もハイブリッド車ではもちろんない。どこが夢の21世紀なのか。
が、世相、社会を見回すと近年大きく様変わりしていることがいくつもあることに気がつく。それは、インターネットの普及により情報の流通量が飛躍的に増えて、しかもそれは小型化モバイル化したので、どにいても電気さえあれば情報にアクセスすることも自ら情報を発信することもできるのだ。それは交通網などのインフラ整備よりも素晴らしく画期的なまさに夢の発明だと思える。むろんコンピュータとネットワークシステムは20世紀の発明だが、それがようやく各家庭、あまねく個人にまで普及したことこそが21世紀的ということなのだと思える。
じっさい、1990年代の本や雑誌などを見ると、携帯電話が一般化してもまだ文化人の多くが不要だとか面倒だとか文句言っていて当時はまだあまり普及していない。しかし今日、老人でも携帯は日常的に持ち歩いてメールでやりとりしている人も多々いるし、携帯そのものを持たない人のほうがいまやごく少数派となってしまった。
そして公衆電話や宅電、配達される新聞、書店で売っている本や雑誌、CD、DVDソフトなど前世紀からあるものが今や絶滅の危機にある。それらは情報メディアとして、必要かつ不可欠なものであったが、今日では携帯端末、インターネットの普及により代用代行、いや情報だけ得られればモノは不要という時代においては価値を失いつつある。おそらく21世紀中葉にはそうしたモノ文化は新たに流通しない、つまり全て消えてしまっているかと案ずる。
21世紀はどんな時代なのかと問われれば一言でいえば、どこにいても居ながらにして全てが可能になっていく時代なのだと答える。それはとてもつもなく便利で楽な良いことなのだが、反面とてつもなく大きな問題を内包している。何回かにわたりその「問題」を考えてみたい。
気がつけば21世紀もゼロ年代から10年代へ、既に10年以上経っている。子供の頃、さんざん科学雑誌やマンガ、SFで憧れ夢見た、あのイストレーター真鍋博描くところの世紀に入っているわけだが、世紀の変わり目にはそれなりに感慨もあった気がするものの気持ちとしては何一つ前世紀との差は特にない。
生活も自分の場合、パソコンは所有し、薄型液晶大型テレビも居間になくはないが、携帯電話は旧型でメールだって送れないし、洗濯機も二層式でほぼ20世紀の暮らしを続けている。車もハイブリッド車ではもちろんない。どこが夢の21世紀なのか。
が、世相、社会を見回すと近年大きく様変わりしていることがいくつもあることに気がつく。それは、インターネットの普及により情報の流通量が飛躍的に増えて、しかもそれは小型化モバイル化したので、どにいても電気さえあれば情報にアクセスすることも自ら情報を発信することもできるのだ。それは交通網などのインフラ整備よりも素晴らしく画期的なまさに夢の発明だと思える。むろんコンピュータとネットワークシステムは20世紀の発明だが、それがようやく各家庭、あまねく個人にまで普及したことこそが21世紀的ということなのだと思える。
じっさい、1990年代の本や雑誌などを見ると、携帯電話が一般化してもまだ文化人の多くが不要だとか面倒だとか文句言っていて当時はまだあまり普及していない。しかし今日、老人でも携帯は日常的に持ち歩いてメールでやりとりしている人も多々いるし、携帯そのものを持たない人のほうがいまやごく少数派となってしまった。
そして公衆電話や宅電、配達される新聞、書店で売っている本や雑誌、CD、DVDソフトなど前世紀からあるものが今や絶滅の危機にある。それらは情報メディアとして、必要かつ不可欠なものであったが、今日では携帯端末、インターネットの普及により代用代行、いや情報だけ得られればモノは不要という時代においては価値を失いつつある。おそらく21世紀中葉にはそうしたモノ文化は新たに流通しない、つまり全て消えてしまっているかと案ずる。
21世紀はどんな時代なのかと問われれば一言でいえば、どこにいても居ながらにして全てが可能になっていく時代なのだと答える。それはとてもつもなく便利で楽な良いことなのだが、反面とてつもなく大きな問題を内包している。何回かにわたりその「問題」を考えてみたい。
居ながらにしての時代・2 ― 2012年05月04日 22時19分18秒
★今やレンタルCD、DVDだって人は利用しない
今の人は信じられないかと思うが、昔は、増坊が子供の頃は、貸本屋という商売があった。それは昭和40年代の頃で記憶では、うちの町にも駄菓子屋と並んで一軒はあって、そこでマンガ本を借りた記憶がある。むろん、今だってレンタルCDショップでコミックスを貸すそうしたサービスをやっている店もある。が、その店は、小説本などもあったのか記憶は定かではないが、書き下ろしのマンガ本も置いてあって、もうその頃は少年サンデー、少年マガジンなどの週刊マンガ雑誌も出ていたのに「貸本マンガ」もまだかろうじて流通していたのだ。
※話はそれるが、水木しげるなどもそうした貸本マンガから出た人で、知る限り貸本で書き下ろしをやった経験があるのは山上たつひこ氏世代までだろうか。貸本マンガ文化については稿を改め書き記しておきたい。
立川には、自分が学生時代になっても一般書籍を扱う貸本屋が残っていて、たぶんそれは80年代になってたかと思うが未だに!とびっくりした記憶がある。貸本マンガは一冊たしか5円ぐらいから、その立川の店は一冊50円~100円程度は貸し出し料とっていたかと思える。
そうした商売は、80年代になるとレンタルレコード店としてひところ一大ブームを迎えることになる。レコードのような傷がつきやすいものを貸して商売とするのだから今思うとかなり無理有る気がするが、当時はレコードそのものが高く、LPは一枚3000円近くはしていたので、数百円で利用できるそうした店は貧乏な若者達にとっては大いに助かった。むろんラジカセやミニコンポの普及などハード面の伸びにソフトの価格がついていかなかったこともある。
そしてそのレコードは、すぐにCD、コンパクトディスクと映画のビデオにとって代わり、レンタル業界は、著作権で一時はもめたが、ツタヤなどの大規模レンタルチェーンも誕生し、個々に営業していた町のレンタルビデオショップは淘汰され、皆どこもホカホカ弁当の店になってしまった。それはともかく・・・
そして今、そのツタヤなどかつて一世を風靡したレンタルショップが今かなり苦境にあると人伝てに聞いた。今では旧作はどこも一枚100円だし、入会金無料をうたって利用者拡大にけんめいの努力をしている。なぜ経営が大変か、理由は簡単で、今の人は店に借りに行き、また返すという手間が面倒だからなのである。そう、今では家に居ながら金さえ払えば音楽も映像もダウンロードできるし、契約さえ結べば貴重な古い映画でも何でも見放題の時代なのである。
貸本でもCDでもDVDでも借りたらば返さなくてはならない。これは忙しい現代人にとってはかなり苦痛を伴う面倒なことで、図書館を利用することも多い自分もすぐ返却日を過ぎてしまう。公共図書館の良い点は、あまり返却を強くやかましく言ってこないことで、何より無料なので多少の手間はガマンも許容もできる。が、レンタルショップだと遅れればすぐ延滞金はつくし、その返す日までに観たり聴いたり録音したりと気ぜわしい。だから返さないで済む方法のほうを人は必然的に選ぶ。
じっさい、返さねばならないという気苦労と今や各種契約も安いから個々のダウンロード代なども含めトータルに考えれれば、レンタル業界にまず勝ち目はない。21世紀の今、いちいち外へ出てレコードショップを回ったり、レンタルショップに足を運ばなくても金さえ出せば、それもカード決済で、何でも手に入れられる。パソコンなどインターネット環境にあればの話であるが。
居ながらにして何でも手に入り何でも見聞きでき、知ることすら可能である。そして何でも取り寄せることもできる。とてもつもなく便利で楽である。この便利さこそがまさに夢の21世紀であろう。だが、本当にそれは良いことか。オレはいまインターネットでこれを発信しつつ甚だ懐疑的である。
今の人は信じられないかと思うが、昔は、増坊が子供の頃は、貸本屋という商売があった。それは昭和40年代の頃で記憶では、うちの町にも駄菓子屋と並んで一軒はあって、そこでマンガ本を借りた記憶がある。むろん、今だってレンタルCDショップでコミックスを貸すそうしたサービスをやっている店もある。が、その店は、小説本などもあったのか記憶は定かではないが、書き下ろしのマンガ本も置いてあって、もうその頃は少年サンデー、少年マガジンなどの週刊マンガ雑誌も出ていたのに「貸本マンガ」もまだかろうじて流通していたのだ。
※話はそれるが、水木しげるなどもそうした貸本マンガから出た人で、知る限り貸本で書き下ろしをやった経験があるのは山上たつひこ氏世代までだろうか。貸本マンガ文化については稿を改め書き記しておきたい。
立川には、自分が学生時代になっても一般書籍を扱う貸本屋が残っていて、たぶんそれは80年代になってたかと思うが未だに!とびっくりした記憶がある。貸本マンガは一冊たしか5円ぐらいから、その立川の店は一冊50円~100円程度は貸し出し料とっていたかと思える。
そうした商売は、80年代になるとレンタルレコード店としてひところ一大ブームを迎えることになる。レコードのような傷がつきやすいものを貸して商売とするのだから今思うとかなり無理有る気がするが、当時はレコードそのものが高く、LPは一枚3000円近くはしていたので、数百円で利用できるそうした店は貧乏な若者達にとっては大いに助かった。むろんラジカセやミニコンポの普及などハード面の伸びにソフトの価格がついていかなかったこともある。
そしてそのレコードは、すぐにCD、コンパクトディスクと映画のビデオにとって代わり、レンタル業界は、著作権で一時はもめたが、ツタヤなどの大規模レンタルチェーンも誕生し、個々に営業していた町のレンタルビデオショップは淘汰され、皆どこもホカホカ弁当の店になってしまった。それはともかく・・・
そして今、そのツタヤなどかつて一世を風靡したレンタルショップが今かなり苦境にあると人伝てに聞いた。今では旧作はどこも一枚100円だし、入会金無料をうたって利用者拡大にけんめいの努力をしている。なぜ経営が大変か、理由は簡単で、今の人は店に借りに行き、また返すという手間が面倒だからなのである。そう、今では家に居ながら金さえ払えば音楽も映像もダウンロードできるし、契約さえ結べば貴重な古い映画でも何でも見放題の時代なのである。
貸本でもCDでもDVDでも借りたらば返さなくてはならない。これは忙しい現代人にとってはかなり苦痛を伴う面倒なことで、図書館を利用することも多い自分もすぐ返却日を過ぎてしまう。公共図書館の良い点は、あまり返却を強くやかましく言ってこないことで、何より無料なので多少の手間はガマンも許容もできる。が、レンタルショップだと遅れればすぐ延滞金はつくし、その返す日までに観たり聴いたり録音したりと気ぜわしい。だから返さないで済む方法のほうを人は必然的に選ぶ。
じっさい、返さねばならないという気苦労と今や各種契約も安いから個々のダウンロード代なども含めトータルに考えれれば、レンタル業界にまず勝ち目はない。21世紀の今、いちいち外へ出てレコードショップを回ったり、レンタルショップに足を運ばなくても金さえ出せば、それもカード決済で、何でも手に入れられる。パソコンなどインターネット環境にあればの話であるが。
居ながらにして何でも手に入り何でも見聞きでき、知ることすら可能である。そして何でも取り寄せることもできる。とてもつもなく便利で楽である。この便利さこそがまさに夢の21世紀であろう。だが、本当にそれは良いことか。オレはいまインターネットでこれを発信しつつ甚だ懐疑的である。
爽やかな子供の日に ― 2012年05月05日 11時21分57秒
★ようやく気持ちが戻りました。
今朝は朝から明るく晴れて、久々の五月晴れ快晴である。外にいると汗ばむほどだ。この大型連休、前半は出かけていたから東京はどうだったか知らないが、5月は雨ばかりの鬱陶しい日が続いていた。ようやく今日になり初めてカラッと晴れてようやく陽射しを満喫している。大阪では先に天気は回復していたようだけれど。※3日、春一番初日に、会場から知人が電話してくれた。
ご心配おかけした。旅の疲れが出たのか、ペットロス症候群に陥ったのか、気持ちはダウンしてどうしてもブログも書けなかった。書き始めても気が乗らずアップできなかった。新潟ツアーの報告も怠っている。
哀しいとか辛いとかいう感情ではなく、ただ鬱々として気持ちは凹み全てが無意味に思えて何もする気が起きず自分でも困惑するばかりであった。
今朝はいつも通り明け方、日の出頃に起きてしまったけれど、あまりに早いので日記などつけてから6時頃から少しだけ寝直したらもう9時近くで久々の寝坊した。でも二度寝は快楽との言葉通り、楽しい夢を見て、起きたら節々が痛いほどたっぷり眠ったこともあり快晴のこどもの日、よし、また頑張ろうと気持ちは回復した。
もとより自分に確固たる自信があるわけではない。常に不安で気弱で曖昧で、虚勢をはり人と渡り合ってきた。そんなカラ元気ならぬ、カラ自信はふとしたことでもすぐに揺らいでしまう。
調子のよいときはそれでも何とかやっていけてても疲れたりトラブルやショックなことがあるとすぐ落ち込んでしまう。今回もいろいろあれこれあって、溜まった疲れも一気に出てそうした「心」をうまく処理できなくなってしまっていた。道を見失う、という言葉の通りに、これからの先行きがまったく見えなくなってしまった。今は好きなギターさえ鳴らしても良い音が出ない、ちっとも良い音だと思えない気分なのだ。
が、何はともかく生きていかねばならない。やるべきこともある。自分にもまだ何かの役割があると信じてやっていこうと思う。これから出かける。戻ったら続きを書きたい。書けなかった日の分のブログもアップさせたい。
今朝は朝から明るく晴れて、久々の五月晴れ快晴である。外にいると汗ばむほどだ。この大型連休、前半は出かけていたから東京はどうだったか知らないが、5月は雨ばかりの鬱陶しい日が続いていた。ようやく今日になり初めてカラッと晴れてようやく陽射しを満喫している。大阪では先に天気は回復していたようだけれど。※3日、春一番初日に、会場から知人が電話してくれた。
ご心配おかけした。旅の疲れが出たのか、ペットロス症候群に陥ったのか、気持ちはダウンしてどうしてもブログも書けなかった。書き始めても気が乗らずアップできなかった。新潟ツアーの報告も怠っている。
哀しいとか辛いとかいう感情ではなく、ただ鬱々として気持ちは凹み全てが無意味に思えて何もする気が起きず自分でも困惑するばかりであった。
今朝はいつも通り明け方、日の出頃に起きてしまったけれど、あまりに早いので日記などつけてから6時頃から少しだけ寝直したらもう9時近くで久々の寝坊した。でも二度寝は快楽との言葉通り、楽しい夢を見て、起きたら節々が痛いほどたっぷり眠ったこともあり快晴のこどもの日、よし、また頑張ろうと気持ちは回復した。
もとより自分に確固たる自信があるわけではない。常に不安で気弱で曖昧で、虚勢をはり人と渡り合ってきた。そんなカラ元気ならぬ、カラ自信はふとしたことでもすぐに揺らいでしまう。
調子のよいときはそれでも何とかやっていけてても疲れたりトラブルやショックなことがあるとすぐ落ち込んでしまう。今回もいろいろあれこれあって、溜まった疲れも一気に出てそうした「心」をうまく処理できなくなってしまっていた。道を見失う、という言葉の通りに、これからの先行きがまったく見えなくなってしまった。今は好きなギターさえ鳴らしても良い音が出ない、ちっとも良い音だと思えない気分なのだ。
が、何はともかく生きていかねばならない。やるべきこともある。自分にもまだ何かの役割があると信じてやっていこうと思う。これから出かける。戻ったら続きを書きたい。書けなかった日の分のブログもアップさせたい。
まずは気軽にアクションを起こしていくことから ― 2012年05月05日 19時12分49秒
★デモ行進参加の勧め~原発ゼロの日 さようなら原発5・5集会
今日5月5日は子供の日、その子供たちに相応しいプレゼントが、全国の原発稼動ゼロであろう。今晩、北電泊原発が点検のために停止すればこの国で動いている原発は全てなくなる。まずは原発停止を求めて来た者たちにとって記念すぺき日であると同時に、これからはもう再稼動させないこと、つまりまず停めることから原発そのものをなくしていくことに運動は移っていく。もう再稼動はぜったいになさせないということと同時に今ある原発を一つ一つ廃炉へとしていく長い長い戦いの初日でもある。
増坊は今日、この催しがあるのを前から知って行くつもりではいたが、迷うところもあった。実は基本的にノンポリ人生を長年過ごしてきたので(いや、ウソウソ、何度も別件でパクラレてはいるが)、自分からはこうした集会に率先して参加する気もなかった。いつもは大学時代の女友達に誘われて付き合いとして行っていたのだ。が、今回はその人から連絡もなく、連絡すれば行くことになりそうなので様子見していたのである。
で、久々に朝から晴れて、午前中に洗濯など家事や庭仕事を済ませて、さて、どうしようかと考えた。例年なら今頃は大阪にいて春一番の会場でフォーク三昧である。でも今年はこうして東京にいる。このままずっと連休の間家にこもっているのも気が滅入るだけだと自分に言い聞かせて、陽気にも誘われ思い切って午後から都心に出ることにした。
会場は東京タワー近くの芝公園。浜松町から歩いていく。ウチからはもっとも遠い場所だ。前回の3.11集会、5万人もの日比谷公園のときに比べればかなり参加者も少なかったが、そのぶん熱い人たちが全国からありとあらゆる組織と団体、個人、外国人も多く詰めかけた。主催者発表だと5500人とのことだったが、それは集会中途の発表で、デモの参加者を見る限り、私感ではもっと多く一万人近かったかと思える。
13時開始だったが、自分が着いたのは2時近くで、わりとさくさく賛同者やゲストの発言は進み、最後は落合恵子さんが主催者のまとめを熱く語って集いを締めてすぐにパレード、つまりデモ行進となった。
自分は、反原発のスローガンを掲げた在日仏人のグループと太鼓や楽器などの鳴り物入りで参加した若者集団の列に加わり3時頃から約2時間、東京タワーの周囲をぐるっと周って最後は浜松町駅前の小さな公園で流れ解散となった。
ウチに帰ってきたのは6時半頃で、久々に都心を休みなしに何時間も汗かきながら歩いたので、くたくたであったが、気分は爽快かつ昂揚した。行って良かったと今心から思える。意外に思うだろうが、デモは楽しい、すごく面白い。リズムに合わせて声を張り上げ都心を歩くだけのことだが、見知らぬ仲間たちと一体になって叫びただ歩くだけの行為がやがて意味を持ち始める。
おそらく誰もがみんな今の時代、3.11後のこの国のあり方について何とかしたい、原発をなくして安全に安心して暮らしていきたいと願っているはずだ。だが、個人としていったい何ができるか、何をすべきか迷い躊躇っているかもしれない。ブログで発言したり署名もするかと思う。でもたぶん多くの人たちが今すぐにでなくても原発はやがては全廃したほうがこの国にとって良いことだと考えていると思う。拙速な再稼動には大きな不安を抱えている。その思いをどう表現していくか。外に出すにはどうしたら良いか。
もしそうした思いがあるならば一番簡単にできることはこうした集い、集会に気軽に参加して共に皆で街をデモ行進することだ。そこに理屈はいらない。ただ、リズムに乗せて声を出し街を歩くこと。そんな単純なことが意思表示となり個々の思いを外に示せる。そしてそうした仲間たちがしだいに増えていけば、いつの日かきっとこの国のありかた、社会自体も変わる。
古本屋が言うのもおかしいが頭を痛めて資本論を読んだって世界は変わらない。理論ではなくまずは行動。一人一人ができる気軽なアクションから全てが始まる。今日は参加できてとても良かった。憂鬱な気分はすっかりふっとんだ。おまけに、何人かの名前も知らない顔見知りに会えただけではなく、拙宅でのコンサートなどにいつも来てくれる友とも全く偶然に行進のさなかに出くわしてびっくりした。彼も気軽にふらっと来たのだという。別に何かの組織に入っていて動員かけられたわけでもない。気軽にできることとして参加したのだろう。
こうした気軽なアクションこそが日本を世界を動かしていく。そして自らも変わっていく。
『さようなら原発 1000万人アクション 脱原発・持続可能で平和な社会をめざして』の運動、次回は「7.16さようなら原発10万人集会」として代々木公園で催される。自分も必ず参加する。自分のできることはまずそこからなのだ。
あなたもその10万人の一人になりませんか。一緒に行きませんか。デモ行進はとても楽しく面白い。こんな楽しいことやらないのはもったいない。
今日5月5日は子供の日、その子供たちに相応しいプレゼントが、全国の原発稼動ゼロであろう。今晩、北電泊原発が点検のために停止すればこの国で動いている原発は全てなくなる。まずは原発停止を求めて来た者たちにとって記念すぺき日であると同時に、これからはもう再稼動させないこと、つまりまず停めることから原発そのものをなくしていくことに運動は移っていく。もう再稼動はぜったいになさせないということと同時に今ある原発を一つ一つ廃炉へとしていく長い長い戦いの初日でもある。
増坊は今日、この催しがあるのを前から知って行くつもりではいたが、迷うところもあった。実は基本的にノンポリ人生を長年過ごしてきたので(いや、ウソウソ、何度も別件でパクラレてはいるが)、自分からはこうした集会に率先して参加する気もなかった。いつもは大学時代の女友達に誘われて付き合いとして行っていたのだ。が、今回はその人から連絡もなく、連絡すれば行くことになりそうなので様子見していたのである。
で、久々に朝から晴れて、午前中に洗濯など家事や庭仕事を済ませて、さて、どうしようかと考えた。例年なら今頃は大阪にいて春一番の会場でフォーク三昧である。でも今年はこうして東京にいる。このままずっと連休の間家にこもっているのも気が滅入るだけだと自分に言い聞かせて、陽気にも誘われ思い切って午後から都心に出ることにした。
会場は東京タワー近くの芝公園。浜松町から歩いていく。ウチからはもっとも遠い場所だ。前回の3.11集会、5万人もの日比谷公園のときに比べればかなり参加者も少なかったが、そのぶん熱い人たちが全国からありとあらゆる組織と団体、個人、外国人も多く詰めかけた。主催者発表だと5500人とのことだったが、それは集会中途の発表で、デモの参加者を見る限り、私感ではもっと多く一万人近かったかと思える。
13時開始だったが、自分が着いたのは2時近くで、わりとさくさく賛同者やゲストの発言は進み、最後は落合恵子さんが主催者のまとめを熱く語って集いを締めてすぐにパレード、つまりデモ行進となった。
自分は、反原発のスローガンを掲げた在日仏人のグループと太鼓や楽器などの鳴り物入りで参加した若者集団の列に加わり3時頃から約2時間、東京タワーの周囲をぐるっと周って最後は浜松町駅前の小さな公園で流れ解散となった。
ウチに帰ってきたのは6時半頃で、久々に都心を休みなしに何時間も汗かきながら歩いたので、くたくたであったが、気分は爽快かつ昂揚した。行って良かったと今心から思える。意外に思うだろうが、デモは楽しい、すごく面白い。リズムに合わせて声を張り上げ都心を歩くだけのことだが、見知らぬ仲間たちと一体になって叫びただ歩くだけの行為がやがて意味を持ち始める。
おそらく誰もがみんな今の時代、3.11後のこの国のあり方について何とかしたい、原発をなくして安全に安心して暮らしていきたいと願っているはずだ。だが、個人としていったい何ができるか、何をすべきか迷い躊躇っているかもしれない。ブログで発言したり署名もするかと思う。でもたぶん多くの人たちが今すぐにでなくても原発はやがては全廃したほうがこの国にとって良いことだと考えていると思う。拙速な再稼動には大きな不安を抱えている。その思いをどう表現していくか。外に出すにはどうしたら良いか。
もしそうした思いがあるならば一番簡単にできることはこうした集い、集会に気軽に参加して共に皆で街をデモ行進することだ。そこに理屈はいらない。ただ、リズムに乗せて声を出し街を歩くこと。そんな単純なことが意思表示となり個々の思いを外に示せる。そしてそうした仲間たちがしだいに増えていけば、いつの日かきっとこの国のありかた、社会自体も変わる。
古本屋が言うのもおかしいが頭を痛めて資本論を読んだって世界は変わらない。理論ではなくまずは行動。一人一人ができる気軽なアクションから全てが始まる。今日は参加できてとても良かった。憂鬱な気分はすっかりふっとんだ。おまけに、何人かの名前も知らない顔見知りに会えただけではなく、拙宅でのコンサートなどにいつも来てくれる友とも全く偶然に行進のさなかに出くわしてびっくりした。彼も気軽にふらっと来たのだという。別に何かの組織に入っていて動員かけられたわけでもない。気軽にできることとして参加したのだろう。
こうした気軽なアクションこそが日本を世界を動かしていく。そして自らも変わっていく。
『さようなら原発 1000万人アクション 脱原発・持続可能で平和な社会をめざして』の運動、次回は「7.16さようなら原発10万人集会」として代々木公園で催される。自分も必ず参加する。自分のできることはまずそこからなのだ。
あなたもその10万人の一人になりませんか。一緒に行きませんか。デモ行進はとても楽しく面白い。こんな楽しいことやらないのはもったいない。
雨に祟られた大型連休も終わる ― 2012年05月06日 22時42分41秒
★今月中に足元を固め残りの半年計画立ててやっていく。
今日も朝から曇り空。時折晴れ間も覗いたものの、急に雲が立ち込めて雷が鳴り出し突風が吹き、ザーと強い雨が降り出す。上がったと思うとまた雲ってしまい雷が鳴り雨となる。
大気の具合なのか、天候は不安定で茨城県では竜巻も起こり家々がなぎ倒され吹き飛ばされるものすごい惨事が報じられていた。幸い多摩地方には竜巻はなかったものの今日は一日天気に降りまわされた。丸々一日晴れたのは5月は昨日一日だけだったのだ。目に青葉の爽やかな季節のはずなのに、これもまた異常気象なのか。今夏はどうなるのだろう。
今日はさすがに疲れが出て昼食後、倒れるように眠ってしまい長い夢を観てなかなか起きられなかった。気がついたらもう6時であった。体の節々が鉛のように重く痛く、まさに足腰立たない。夜は友人のロックバンドのライブに誘われ行く予定であったが、起きれず歩けないのでは行くに行かれない。申し訳ないがまた次回必ずと自分に言い聞かせて断念した。
だが、気分は悪くない。迷いや悩み、そして哀しみは昨日のウォーキングで吹っ切れた。もうグズグスしていられない。今年も気がつけば冬が過ぎ春が来て早や5月、ということはもうすぐに6月。今年も残すは半年となる。何もしないで、大したこともできないで半年が過ぎたという気持ちもあるが、一応拙宅のオープニングライブは3月末に無事盛況のうちに終わったし、これからは新たな次の活動へと移行していかねばならない。
さて、これから何をどう計画立ててやっていくか。
ただ、その前に母の抗癌剤投与の治療が今月で半年間6回の予定数終了となるので、終わったらその結果を精査して今後の治療のあり方も決めるべく精密検査がある。自分としてはその「結果」が出てみないと自らもまた勝手には動けないし何も決められないという気持ちでいる。また新たな抗癌治療が始まるならばそれを加味して自分の活動範囲を定めないとならないし、その「判決」が出ないうちは予定も立てられない。
昨日東京タワーの周りをデモ行進しながら考え気がついたことがある。音楽や文学、芸術はとても価値ある大切なものであるが、自分にとってそれは最上位に置かれるものではない。むろんそれで飯が食えるほどの才能や需要があるならともかくも、そのカケラもない者としてはそれはあくまでも趣味の範疇に収めるべきことであろう。そしてまずはそれよりも最優先事項としての「生活」、自らの人生をもっときちんと確定させてその枠の中に音楽や文学などを入れていくしかない。それができていないのに、ずいぶん自分は考え無しに無謀なことをやってきたと今頃になって気づく。すべては実生活がだいいちであり、芸術はそれに従うべきだと。
そして、3.11の大震災後、今最も大切かつ重要なことは安全な暮らしを求め取り戻していくことであり、これ以上大地と大気、地球上の生物の健康を脅かすような悪政を許してはならないというとだ。
栃木県にかつては谷中村という村落があった。今は渡良瀬遊水地となっているそこは、日本公害闘争の原点として知られるごとく、銅山古河鉱業の垂れ流した汚染水によって住民は生活できなくなり立ち退き、廃村を余儀なくされたのだ。偉人田中正造という人をリーダーにその明治の闘いは続いたが、けっきょく住民は散り散りとなり今ではそこは葦が茂る一面の水路である。
谷中村のできごとは今またフクシマの原発周辺の住民とそっくりそのまま重なるのではないか。いつの時代も国策に翻弄され引き起こされた人災公害によって地元民たちは住むところを失っていく。
増坊の母方の祖母は、その谷中村の最後の生き残りで、幼児の時に村は廃村となり追われた身の上であった。そして死ぬまで田中正造の思い出を慕いつつ語っていた。ならば自分もまたその谷中村の末裔として原発と言う21世紀最大の公害と残りの人生をかけて闘っていかねばならない。それは一緒にデモ行進した福島県双葉郡から来られたおばさんが都民に語りかけた訴えで強く衝撃的に感じたことだ。
そう、全ては当たり前のことをやっていく。人が人として当たり前の暮らしが取り戻せるように、安全に安心して故郷で暮らせるように、そしてもう二度とこうした悲劇を繰り返さないですむように。ノーモア広島、ノーモア長崎、ノーモア福島、そして自分にとってはノーモア谷中村なのだった。
その原点に返って自分のすべきことをやっていく。そのためにはまずは自分の足元を固めたい。申し訳ないが今の自分にとっては「春一番」よりまず何よりも「命一番」という気持ちなのだ。うたや音楽はその先にある。
今日も朝から曇り空。時折晴れ間も覗いたものの、急に雲が立ち込めて雷が鳴り出し突風が吹き、ザーと強い雨が降り出す。上がったと思うとまた雲ってしまい雷が鳴り雨となる。
大気の具合なのか、天候は不安定で茨城県では竜巻も起こり家々がなぎ倒され吹き飛ばされるものすごい惨事が報じられていた。幸い多摩地方には竜巻はなかったものの今日は一日天気に降りまわされた。丸々一日晴れたのは5月は昨日一日だけだったのだ。目に青葉の爽やかな季節のはずなのに、これもまた異常気象なのか。今夏はどうなるのだろう。
今日はさすがに疲れが出て昼食後、倒れるように眠ってしまい長い夢を観てなかなか起きられなかった。気がついたらもう6時であった。体の節々が鉛のように重く痛く、まさに足腰立たない。夜は友人のロックバンドのライブに誘われ行く予定であったが、起きれず歩けないのでは行くに行かれない。申し訳ないがまた次回必ずと自分に言い聞かせて断念した。
だが、気分は悪くない。迷いや悩み、そして哀しみは昨日のウォーキングで吹っ切れた。もうグズグスしていられない。今年も気がつけば冬が過ぎ春が来て早や5月、ということはもうすぐに6月。今年も残すは半年となる。何もしないで、大したこともできないで半年が過ぎたという気持ちもあるが、一応拙宅のオープニングライブは3月末に無事盛況のうちに終わったし、これからは新たな次の活動へと移行していかねばならない。
さて、これから何をどう計画立ててやっていくか。
ただ、その前に母の抗癌剤投与の治療が今月で半年間6回の予定数終了となるので、終わったらその結果を精査して今後の治療のあり方も決めるべく精密検査がある。自分としてはその「結果」が出てみないと自らもまた勝手には動けないし何も決められないという気持ちでいる。また新たな抗癌治療が始まるならばそれを加味して自分の活動範囲を定めないとならないし、その「判決」が出ないうちは予定も立てられない。
昨日東京タワーの周りをデモ行進しながら考え気がついたことがある。音楽や文学、芸術はとても価値ある大切なものであるが、自分にとってそれは最上位に置かれるものではない。むろんそれで飯が食えるほどの才能や需要があるならともかくも、そのカケラもない者としてはそれはあくまでも趣味の範疇に収めるべきことであろう。そしてまずはそれよりも最優先事項としての「生活」、自らの人生をもっときちんと確定させてその枠の中に音楽や文学などを入れていくしかない。それができていないのに、ずいぶん自分は考え無しに無謀なことをやってきたと今頃になって気づく。すべては実生活がだいいちであり、芸術はそれに従うべきだと。
そして、3.11の大震災後、今最も大切かつ重要なことは安全な暮らしを求め取り戻していくことであり、これ以上大地と大気、地球上の生物の健康を脅かすような悪政を許してはならないというとだ。
栃木県にかつては谷中村という村落があった。今は渡良瀬遊水地となっているそこは、日本公害闘争の原点として知られるごとく、銅山古河鉱業の垂れ流した汚染水によって住民は生活できなくなり立ち退き、廃村を余儀なくされたのだ。偉人田中正造という人をリーダーにその明治の闘いは続いたが、けっきょく住民は散り散りとなり今ではそこは葦が茂る一面の水路である。
谷中村のできごとは今またフクシマの原発周辺の住民とそっくりそのまま重なるのではないか。いつの時代も国策に翻弄され引き起こされた人災公害によって地元民たちは住むところを失っていく。
増坊の母方の祖母は、その谷中村の最後の生き残りで、幼児の時に村は廃村となり追われた身の上であった。そして死ぬまで田中正造の思い出を慕いつつ語っていた。ならば自分もまたその谷中村の末裔として原発と言う21世紀最大の公害と残りの人生をかけて闘っていかねばならない。それは一緒にデモ行進した福島県双葉郡から来られたおばさんが都民に語りかけた訴えで強く衝撃的に感じたことだ。
そう、全ては当たり前のことをやっていく。人が人として当たり前の暮らしが取り戻せるように、安全に安心して故郷で暮らせるように、そしてもう二度とこうした悲劇を繰り返さないですむように。ノーモア広島、ノーモア長崎、ノーモア福島、そして自分にとってはノーモア谷中村なのだった。
その原点に返って自分のすべきことをやっていく。そのためにはまずは自分の足元を固めたい。申し訳ないが今の自分にとっては「春一番」よりまず何よりも「命一番」という気持ちなのだ。うたや音楽はその先にある。
新潟での有馬敲の詩とうたライブのチラシが届いた。 ― 2012年05月07日 22時35分47秒
★ぜひ多くの方々のご参加を願って
かねてよりお知らせした、京都の詩人・有馬敲氏を招いて新潟で、詩朗読と地元フォークシンガーたちによる「詩とうたのライブ」が6月2日土曜日に催される。時間は午後6時開場、6時半開演。場所は岩室温泉・伝統文化継承館。料金は1500円。そのチラシが本日届いた。
増坊も東京から車出して参加する計画で、まだ同乗される方の席は空いているので、どなたでも関心ある方はお気軽にまずお問い合わせの連絡ください。
予定では、2日の朝、待ち合わせして東京を発ち、関越道で新潟に昼過ぎ着く。時間があれば温泉に入って、夕方からその有馬さんと地元フォークシンガーたちとのライブ観覧。そして打ち上げ。一泊後、翌日昼前に向こうを発ち、夕方早めに東京に戻ってくる。現地宿泊先は、雑魚寝ならおそらく宿泊費はかからないかと思う。車での交通費(ガソリン代など割り勘で負担)とライブの入場料+飲食費程度で何とか足りるかと考えている。
京都の生んだ国際派詩人・有馬敲は日本のフォークソングの父とも呼ばれる方で、高田渡の「値上げ」他、数多くの彼の詩に曲がつけられている。また自作詩を自ら朗読する「生活語詩運動」のリーダーでもある。そして今回は関西フォークの流れを汲む新潟フォークシーンの素晴らしいシンガーたちとの初めて新潟での夢のコラボである。
有馬さんは御年八十歳、今も元気溌剌に全国を詩朗読で行脚されているが、おそらく新潟でのライブ公演はこれが最初で最後となろう。そんな一期一会の貴重な機会である、ぜひぜひお見逃しなく。
どうか一人でも多くの詩とフォークソングの愛好家のご参加を心より期待しております。会場も木をふんだんに使った音の良い空間で今から全てが楽しみだ。
かねてよりお知らせした、京都の詩人・有馬敲氏を招いて新潟で、詩朗読と地元フォークシンガーたちによる「詩とうたのライブ」が6月2日土曜日に催される。時間は午後6時開場、6時半開演。場所は岩室温泉・伝統文化継承館。料金は1500円。そのチラシが本日届いた。
増坊も東京から車出して参加する計画で、まだ同乗される方の席は空いているので、どなたでも関心ある方はお気軽にまずお問い合わせの連絡ください。
予定では、2日の朝、待ち合わせして東京を発ち、関越道で新潟に昼過ぎ着く。時間があれば温泉に入って、夕方からその有馬さんと地元フォークシンガーたちとのライブ観覧。そして打ち上げ。一泊後、翌日昼前に向こうを発ち、夕方早めに東京に戻ってくる。現地宿泊先は、雑魚寝ならおそらく宿泊費はかからないかと思う。車での交通費(ガソリン代など割り勘で負担)とライブの入場料+飲食費程度で何とか足りるかと考えている。
京都の生んだ国際派詩人・有馬敲は日本のフォークソングの父とも呼ばれる方で、高田渡の「値上げ」他、数多くの彼の詩に曲がつけられている。また自作詩を自ら朗読する「生活語詩運動」のリーダーでもある。そして今回は関西フォークの流れを汲む新潟フォークシーンの素晴らしいシンガーたちとの初めて新潟での夢のコラボである。
有馬さんは御年八十歳、今も元気溌剌に全国を詩朗読で行脚されているが、おそらく新潟でのライブ公演はこれが最初で最後となろう。そんな一期一会の貴重な機会である、ぜひぜひお見逃しなく。
どうか一人でも多くの詩とフォークソングの愛好家のご参加を心より期待しております。会場も木をふんだんに使った音の良い空間で今から全てが楽しみだ。
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