雨に祟られた大型連休も終わる2012年05月06日 22時42分41秒

福島から来られた避難住民がマイクを握って訴える
★今月中に足元を固め残りの半年計画立ててやっていく。

 今日も朝から曇り空。時折晴れ間も覗いたものの、急に雲が立ち込めて雷が鳴り出し突風が吹き、ザーと強い雨が降り出す。上がったと思うとまた雲ってしまい雷が鳴り雨となる。
 大気の具合なのか、天候は不安定で茨城県では竜巻も起こり家々がなぎ倒され吹き飛ばされるものすごい惨事が報じられていた。幸い多摩地方には竜巻はなかったものの今日は一日天気に降りまわされた。丸々一日晴れたのは5月は昨日一日だけだったのだ。目に青葉の爽やかな季節のはずなのに、これもまた異常気象なのか。今夏はどうなるのだろう。

 今日はさすがに疲れが出て昼食後、倒れるように眠ってしまい長い夢を観てなかなか起きられなかった。気がついたらもう6時であった。体の節々が鉛のように重く痛く、まさに足腰立たない。夜は友人のロックバンドのライブに誘われ行く予定であったが、起きれず歩けないのでは行くに行かれない。申し訳ないがまた次回必ずと自分に言い聞かせて断念した。

 だが、気分は悪くない。迷いや悩み、そして哀しみは昨日のウォーキングで吹っ切れた。もうグズグスしていられない。今年も気がつけば冬が過ぎ春が来て早や5月、ということはもうすぐに6月。今年も残すは半年となる。何もしないで、大したこともできないで半年が過ぎたという気持ちもあるが、一応拙宅のオープニングライブは3月末に無事盛況のうちに終わったし、これからは新たな次の活動へと移行していかねばならない。
 さて、これから何をどう計画立ててやっていくか。

 ただ、その前に母の抗癌剤投与の治療が今月で半年間6回の予定数終了となるので、終わったらその結果を精査して今後の治療のあり方も決めるべく精密検査がある。自分としてはその「結果」が出てみないと自らもまた勝手には動けないし何も決められないという気持ちでいる。また新たな抗癌治療が始まるならばそれを加味して自分の活動範囲を定めないとならないし、その「判決」が出ないうちは予定も立てられない。

 昨日東京タワーの周りをデモ行進しながら考え気がついたことがある。音楽や文学、芸術はとても価値ある大切なものであるが、自分にとってそれは最上位に置かれるものではない。むろんそれで飯が食えるほどの才能や需要があるならともかくも、そのカケラもない者としてはそれはあくまでも趣味の範疇に収めるべきことであろう。そしてまずはそれよりも最優先事項としての「生活」、自らの人生をもっときちんと確定させてその枠の中に音楽や文学などを入れていくしかない。それができていないのに、ずいぶん自分は考え無しに無謀なことをやってきたと今頃になって気づく。すべては実生活がだいいちであり、芸術はそれに従うべきだと。
 そして、3.11の大震災後、今最も大切かつ重要なことは安全な暮らしを求め取り戻していくことであり、これ以上大地と大気、地球上の生物の健康を脅かすような悪政を許してはならないというとだ。

 栃木県にかつては谷中村という村落があった。今は渡良瀬遊水地となっているそこは、日本公害闘争の原点として知られるごとく、銅山古河鉱業の垂れ流した汚染水によって住民は生活できなくなり立ち退き、廃村を余儀なくされたのだ。偉人田中正造という人をリーダーにその明治の闘いは続いたが、けっきょく住民は散り散りとなり今ではそこは葦が茂る一面の水路である。
 谷中村のできごとは今またフクシマの原発周辺の住民とそっくりそのまま重なるのではないか。いつの時代も国策に翻弄され引き起こされた人災公害によって地元民たちは住むところを失っていく。

 増坊の母方の祖母は、その谷中村の最後の生き残りで、幼児の時に村は廃村となり追われた身の上であった。そして死ぬまで田中正造の思い出を慕いつつ語っていた。ならば自分もまたその谷中村の末裔として原発と言う21世紀最大の公害と残りの人生をかけて闘っていかねばならない。それは一緒にデモ行進した福島県双葉郡から来られたおばさんが都民に語りかけた訴えで強く衝撃的に感じたことだ。

 そう、全ては当たり前のことをやっていく。人が人として当たり前の暮らしが取り戻せるように、安全に安心して故郷で暮らせるように、そしてもう二度とこうした悲劇を繰り返さないですむように。ノーモア広島、ノーモア長崎、ノーモア福島、そして自分にとってはノーモア谷中村なのだった。

 その原点に返って自分のすべきことをやっていく。そのためにはまずは自分の足元を固めたい。申し訳ないが今の自分にとっては「春一番」よりまず何よりも「命一番」という気持ちなのだ。うたや音楽はその先にある。