夢か現か、2013年05月05日 23時05分49秒

★覚めない夢を見ているような

 落語の噺に、「芝浜」というのがある。たぶんご存知か。呑兵衛の魚屋と良くできたら世話女房との人情話である。
 
 酔っぱらってばかりの魚屋が大金の入った財布を拾い大宴会を繰り広げる。女房はこのままこの金があるともっとダメになると気を利かせて、翌朝、財布の件は夢の中の話だと信じ込ませる。やがて魚屋も酒をやめ真正直に働くようになり、ようやく3年後、女房は泣きながら財布を出して真相を告白、許しを請い大団円となるわけだが、自分もときおり、この噺の魚屋のごとくどこまでが夢だったのか現実のことなのかよくわからなくなることがままある。

 人は誰もが夢を見るわけだが、常にうんとシュールなバカバカしい、夢の中でも夢だとわかるような夢を見ている人もいるかもしれない。だが、自分の場合は、ほぼ日常とほとんど変わらない、登場人物も状況も現実の延長でしかない夢ばかりで、時々、夢と現実がごっちゃになり、その判別も含め現実世界との齟齬というか辻褄を合わすのに苦労することがある。
 誰それに既に話したと記憶していても実はそれは夢の中の出来事だったと、気がつけばよいほうで、もしかしたら自分が考えているこの現実もそうとう夢の中のことが入り交じり混濁してしまっているのかもと不安になる。

 それはアル中の症状の一つだとも言えよう。ただ、このところ基本的には始終日々呑むこともないし、呑んだとしても泥酔状態までなることはまずないから酒のせいだとは言えない。ただ、落語の魚屋のように酔っぱらいは現実のことでも周囲から夢だと否定されれば合点がいかなくともやはり信じてしまう。ある意味、それは夢か現か、というのはすごくあやふやで不安なことなのである。まあ、さすがに 幻までは観ることはまだないけれど。

 実は個人的にとても大きな良いことがあった。大げさに言えば、残りの人生の一つの転機になるようなことだ。ただ、それはまだはっきり「確定」したことではなく、自分でも半信半疑というか手放しで喜ぶべきではないと思うし、まだちっとも喜べない。話が結果として流れてもまた仕方ない、当然だという気持ちもある。
 だからまだここに何も書けないし、話が確実にまとまったらお知らせもできようが、今は残念ながら発表はできない。ただ、とても嬉しいわくわくするようなことであり、だからこそ、「芝浜」ではないが、これは夢なのかもしれないとさえ思うほどだ。

 じっさい、だまされているのかもしれないと考えたり、いや、これは現実のことなんだと思ったり、あれこれ考えている。今はまだ「待ち」の段階であるから、向うから次の連絡があるまでどうすることもできない。
 もしかしたらこれは夢で、やがて起こされて、ああ、やはり夢だったのか、でも素晴らしい楽しい夢だったと思うのかもしれない。そんな気さえしている。

 誤解されるとイヤなので、恋愛とか色恋沙汰の話ではないとだけ書いておく。ただ、それが現実に、つまり実現したら自分だけではなく多くの人たちにとっても良い楽しいこととなるのは間違いない。

 この数日。そうしてずっと覚めない夢を見ているような感じがしている。まあ、夢であっても現実でも今はもうどうでも良いような気持ちにもなっている。すべては神の意志、計らいなのだから。

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