残り少なくなった夏に ― 2013年08月23日 22時20分38秒
★遠雷を聞きながら思うこと
異常かつ記録的な猛暑もようやく8月も終わりに近づき、陰りを見せ始めた。このところ曇りがちや雨の日が多く、朝晩はだいぶ涼しくなってきた。日中はまだ30度を超すが一時の耐え難い殺人的熱波は過ぎ去ったと思える。何だかんだ言っても季節はまた秋へと進んでいく。
今はまだほっとするよりも自分にとって夏の恒例イベント、25日のサマークリスマスの支度に追われ疲労気味である。特に何か準備に追われているわけではない。先週も映画塾で人が来たばかりで場所の設営はそのままできている。ただ、猛暑疲れだか家庭内の雑事とかに追われて疲労は蓄積している。足腰がだるく重く青息吐息である。が、ともかく25日を終えればようやく夏も終わり一段落だと心している。
最近よく考えるというか、改めて思ったことなのだが、人とはつくづく自分のこと、自分の都合しか考えないものだということだ。それはある誰それのことではなく自分も含めて人全体を言っている。そうした人たちが集まってこの世の中、社会というものができている。
物事が動いていくときは、そうした「それぞれ各自の自分のこと」がうまく噛み合い、自分のことを考えていながら総体のことになっていったときなのだと気づく。つまりバラバラな個人的思いや考え、志向がうまくマッチすれば社会や世の中、全てのことは大きく動いていくのである。
そして先の箴言にさらに付け加えれば、人はまた、自分のしていることが実はよく分かっていないのである。これは自分も含めての誰にでも当てはまる。つまり、何かをやるとして、それは本来今すべきなのか、すべき価値や必要があるのか、自分のすべきことなのか、度合いや役割、優先順位も含め本当はするべきでないことを人はおうおうにしてしてしまうのである。それは自らが何をしているのか、つまり何をすべきであったかわかっていないからだ。
自らを振り返ってみて実にそう思う。むろん人は経験の動物だから、どんな失敗でさえもそこから学び得ることは多々ある。つまり繰り返さないためにもそれはすべきことだったと教訓や反面教師的に学びの材料にはなる。が、そのような学習効果のないようなことでも、いや大概はそんな「失敗」以前の不要不急なこと、つまりどうでもよい無駄無意味なことをよくわかっていないが故しているのでないか。
翻って自分はずいぶん無駄な無意味なことをあれこれやってきたと気づく。そのときはそれがやりたかったからであり、あるいは場の状況で行き当たりばったり的に何も考えずしていたことも多い。つまり暇で、金が少しはあれば呑みにもギャンブルにも(したことはないが女買いにも)誘われれば付き合うような人間だったのであるから。
今は年老いて、いくぶん多少は経験も積み、そこから少しは学びほんの少しは昔よりは賢くはなってきたからそうした無駄、過ちはだいぶ少なくなってきたと信ずる。が、ときどき、また「自分は何をやっているのかわかっていない」という思いによくとらわれる。一時の感情、怒りや欲望、不安や嫉妬心にかられて心と頭が一杯になってしまい暴発的、破滅的選択を結果としてとってしまうことが多々ある。
また、そうでなくても、考えて始めたことでも実は無意味な、すべきではなかったこともまだまだ多いと思う。何をやっているのか自分でもよくわからず、一時の感情で始めてやがてそのことに気づき唖然としてしまうこともまだある。。
今、毎年恒例のサマークリスマスを今年は拙宅でやることを決めてしまいやや後悔気味でいる。まだ当日どころか前々日であり、やる前からの後悔とはヘンな話だと自分でも思う。終わってそこで「後悔」すべきが筋であろう。
ただ、不安でも面倒だとの倦怠感ではなく、それは自分が率先して拙宅無頼庵ですべきことであったのかという根源的自問だ。別に参加者の多寡を案じての話でもない。支度や準備が面倒で大変だということも特にない。要するにそれが「すべきことであったのか」といういつもの問いである。
自分がしたいかどうかは実はどうでもいい。楽しいかどうとかも。このところ何につけても思うのは、それは自分が関わるべきこと、すべきことなのか、そこに役割があるのかということだけだ。
みんなそれぞれ自分勝手なのである。その自分勝手な思いが一つに結集できるのか。それは自分が小さいながらも要としてすべきことであるのか。その答えは25日に出る。
これが企画したコンサートならそこで企画者の思いは示せるが、このイベントはそうではない。それぞれの思いを呼び合わせ一時でも共通の場に結集できるかなのだ。
ただ、こうも思う。この企画は個人的にはごくごく私的に、これから生涯続けていこうと。つまりキリスト教でも仏教でも信者には様々な特別な日がある。教会や寺院に足を運ぶセレモニーの日や縁日である。自分にとってのその日は、やはり林美雄のバースデー8月25日なのだ。ならばクリスマスに特別ミサがありクリスチャンは教会に集うようにごくごく私的でもそうした集まりはずっと続けていかなくてはならない。
それは日比谷公園ででもかまわない。それぞれの心の中、記憶の中に、彼が生きていて彼の言葉や教えに今も感謝を思うならばやはり何かしらの行動で示すべきだと思う。
クリスチャンにとっては12月のその日、自分にとっては8月の25日、しみじみと亡き偉大なその人のことを偲びたい。
自分はなにをすべきか、何をしているのかわかっているのか。その答えは間もなく出る。
異常かつ記録的な猛暑もようやく8月も終わりに近づき、陰りを見せ始めた。このところ曇りがちや雨の日が多く、朝晩はだいぶ涼しくなってきた。日中はまだ30度を超すが一時の耐え難い殺人的熱波は過ぎ去ったと思える。何だかんだ言っても季節はまた秋へと進んでいく。
今はまだほっとするよりも自分にとって夏の恒例イベント、25日のサマークリスマスの支度に追われ疲労気味である。特に何か準備に追われているわけではない。先週も映画塾で人が来たばかりで場所の設営はそのままできている。ただ、猛暑疲れだか家庭内の雑事とかに追われて疲労は蓄積している。足腰がだるく重く青息吐息である。が、ともかく25日を終えればようやく夏も終わり一段落だと心している。
最近よく考えるというか、改めて思ったことなのだが、人とはつくづく自分のこと、自分の都合しか考えないものだということだ。それはある誰それのことではなく自分も含めて人全体を言っている。そうした人たちが集まってこの世の中、社会というものができている。
物事が動いていくときは、そうした「それぞれ各自の自分のこと」がうまく噛み合い、自分のことを考えていながら総体のことになっていったときなのだと気づく。つまりバラバラな個人的思いや考え、志向がうまくマッチすれば社会や世の中、全てのことは大きく動いていくのである。
そして先の箴言にさらに付け加えれば、人はまた、自分のしていることが実はよく分かっていないのである。これは自分も含めての誰にでも当てはまる。つまり、何かをやるとして、それは本来今すべきなのか、すべき価値や必要があるのか、自分のすべきことなのか、度合いや役割、優先順位も含め本当はするべきでないことを人はおうおうにしてしてしまうのである。それは自らが何をしているのか、つまり何をすべきであったかわかっていないからだ。
自らを振り返ってみて実にそう思う。むろん人は経験の動物だから、どんな失敗でさえもそこから学び得ることは多々ある。つまり繰り返さないためにもそれはすべきことだったと教訓や反面教師的に学びの材料にはなる。が、そのような学習効果のないようなことでも、いや大概はそんな「失敗」以前の不要不急なこと、つまりどうでもよい無駄無意味なことをよくわかっていないが故しているのでないか。
翻って自分はずいぶん無駄な無意味なことをあれこれやってきたと気づく。そのときはそれがやりたかったからであり、あるいは場の状況で行き当たりばったり的に何も考えずしていたことも多い。つまり暇で、金が少しはあれば呑みにもギャンブルにも(したことはないが女買いにも)誘われれば付き合うような人間だったのであるから。
今は年老いて、いくぶん多少は経験も積み、そこから少しは学びほんの少しは昔よりは賢くはなってきたからそうした無駄、過ちはだいぶ少なくなってきたと信ずる。が、ときどき、また「自分は何をやっているのかわかっていない」という思いによくとらわれる。一時の感情、怒りや欲望、不安や嫉妬心にかられて心と頭が一杯になってしまい暴発的、破滅的選択を結果としてとってしまうことが多々ある。
また、そうでなくても、考えて始めたことでも実は無意味な、すべきではなかったこともまだまだ多いと思う。何をやっているのか自分でもよくわからず、一時の感情で始めてやがてそのことに気づき唖然としてしまうこともまだある。。
今、毎年恒例のサマークリスマスを今年は拙宅でやることを決めてしまいやや後悔気味でいる。まだ当日どころか前々日であり、やる前からの後悔とはヘンな話だと自分でも思う。終わってそこで「後悔」すべきが筋であろう。
ただ、不安でも面倒だとの倦怠感ではなく、それは自分が率先して拙宅無頼庵ですべきことであったのかという根源的自問だ。別に参加者の多寡を案じての話でもない。支度や準備が面倒で大変だということも特にない。要するにそれが「すべきことであったのか」といういつもの問いである。
自分がしたいかどうかは実はどうでもいい。楽しいかどうとかも。このところ何につけても思うのは、それは自分が関わるべきこと、すべきことなのか、そこに役割があるのかということだけだ。
みんなそれぞれ自分勝手なのである。その自分勝手な思いが一つに結集できるのか。それは自分が小さいながらも要としてすべきことであるのか。その答えは25日に出る。
これが企画したコンサートならそこで企画者の思いは示せるが、このイベントはそうではない。それぞれの思いを呼び合わせ一時でも共通の場に結集できるかなのだ。
ただ、こうも思う。この企画は個人的にはごくごく私的に、これから生涯続けていこうと。つまりキリスト教でも仏教でも信者には様々な特別な日がある。教会や寺院に足を運ぶセレモニーの日や縁日である。自分にとってのその日は、やはり林美雄のバースデー8月25日なのだ。ならばクリスマスに特別ミサがありクリスチャンは教会に集うようにごくごく私的でもそうした集まりはずっと続けていかなくてはならない。
それは日比谷公園ででもかまわない。それぞれの心の中、記憶の中に、彼が生きていて彼の言葉や教えに今も感謝を思うならばやはり何かしらの行動で示すべきだと思う。
クリスチャンにとっては12月のその日、自分にとっては8月の25日、しみじみと亡き偉大なその人のことを偲びたい。
自分はなにをすべきか、何をしているのかわかっているのか。その答えは間もなく出る。
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