辺野古阻止と横田オスプレイ配備阻止を2015年05月19日 22時02分56秒

★黙っているのは悔しい            アクセスランキング:124位

 物言わぬは腹膨るる思い、という言葉がある。田中正造本人と子供の頃面識があった谷中村出身の祖母がよく口にしていた。

 いつの時代でも、大きな強い絶対的なものとの闘いがあり、それはつまるところ「国家権力」に対しての個人、人民の異議申し立てということになるわけだが、今の人は実に大人しいというべきか、唯々諾々素直に従うものだと感心を通り過ぎて呆れ果てもする。

 政治というのは、常に中央集権であり、一方に「地方」があっても、その声は中央の中枢にある権力者たちには届かない。地方切り捨てどころか、いくら地方が抗議の声を上げても、一切無視し聞く耳持たずに地元の理解が得られるように、丁寧に説明を重ねて、粛々と進めていく、を繰り返すだけで、理解得られる努力以前に、問答無用の一方的抑圧的姿勢は変わることがない。
 どれほど地元住民が抗議し撤回の申し入れしようと、話し合いを持つどころか、一度決定したことは「唯一の解決策」だと繰り返すばかりで、絶対にダメだ、NO!と叫んでも、理解を求めていくと歩み寄る姿勢は全くない。

 人民の闘いとは常に権力の抑圧に対して抵抗し、結局は強行的に押し切られ敗北の歴史の積み重ねだと言ってもいい。フランス革命のように、人民が権力者を追いつめて勝利したなんてことは世界史においてごく稀なことだ。
 どの闘争であれ人民の声を無視した国家権力の意志に対し人民の願い、その抗議行動、闘いは常に権力によって押しつぶされてきた。
 

 子供の頃から不思議でならないのは、どこそこの国のように権力者は世襲やクーデータにより民意とかけ離れて権力を手中にしているのではないはずなのに、何故かこの国では人民の願いとはかけ離れた政治が戦後からでもずっと続いている。
 人民が政治家を民主的に選んでいるのに、どうして自らの願いと違う政治が行われてしまうのか。
 消費税だってそれを望み求めた国民などいないと思う。秘密保護法や様々な改悪ばかり進むのに、国民はみんな諦め顔で、お上が決めたことだ仕方ないと声も上げない。
 今の政治に満足などせず様々な不満は誰もが抱えているはずなのに、皆モノを言わずに腹膨らまないのであろうか。

 今は幸い、民主党と交代後の自公政権では、株価も戻り景気も回復してきたようだから、何となく前よりは世の中が明るく良くなってきたような感じはしている。ゆえにこれからも自公政権を支持し政権を任せてもよいかというのが民意なのかと思える。
 が、彼らがやっている安全保障の政策は、平和憲法を改憲を念頭に、積極的平和主義の名の下に、海外派兵へと再び戦前のような事態へこの国を戻すことでしかない。戦争国家の先に待つのは戦死と国家の破滅でしかない。
 安全保障のために、沖縄に新たな恒久的米軍基地をつくるべく、沖縄県民の圧倒的反対の意志を無視して、粛々と辺野古移転を進め、さらに首都東京の郊外・横田基地に、もっとも危険な戦闘機オスプレイも配備受け入れると米軍の言うがまま、まるでアメリカの子分のような政治を邁進している。

 地元住民の反対や講義の声を無視しこうした無法、一方的強行がまかり通るのは「地元」以外の国民の無理解と無関心が強いからだ。
 いつの時代も、近くは福島原発事故をみてもわかるように、その地元の人たちの苦労は報じられたとしてもあくまでも他人事でしかない。
 その地の人たちが困っていると知っていてもわざわざかけつける人は少ないしときに募金とかは出したとしてもそうした関係だけですぐ終わってしまう。

 同様に沖縄の人たちの苦しみや悩み、複雑な思いさえも横目で見るように、それは一地方「沖縄の問題」として何も考えない。安保や基地の問題は日本という国家全体の問題であるはずなのに。

 人とは他者に対して多少の関心や同情は寄せる。が、同じ日本国民だとしてもやはり他の地域はその地元でないがゆえ他人事なのである。
 今までも国家権力に対してのすべての闘い、運動がことごとく敗北してきたのは、運動当事者の思想信条の細かな違いとかセクトの問題以前に、他の地域の人々との連帯を欠いてきたからだと考える。
 ある国策に対して、その当事者にあたる地元があり、それを受け入れたくない地元住民がいる。かつて原発誘致とダム建設、圏横道など様々な反対運動があった。同時に「反対者」に対して批判的視点も常にあった。
 それができることで利便性も増し多くの人々が喜び結果として地元も国益にもなることも実際のところあるとは思う。反対するのは一部の地元住民のエゴだと冷ややかに言い放つ人も多かった。

 そして今も沖縄の人たちに対して、安保条約があるのだから本土防衛のための要石として文句は言うな、それだけの金はもらっているだろうと頭ごなしに基地を強いる日本人もいることは知っている。
 その流れで言えば、横田にオスプレイ配備も「歓迎」すべきかもしれない。
 が、またハワイでの事故の報があったばかりの危険極まりないオスプレイを住宅密集地の首都圏に配備することは、普天間が住宅街にあり危険極まりないから辺野古へ移設するという表向きの理由と明らかに矛盾する。
 そしてここでも地元自治体と住民はとんでもない、と大反対している。だのに、官邸サイドはまたしてもそんな地元の声などどこ吹く風、とすまして粛々と米軍の決定事項だからというスタンスを変えていない。

 確かに東京都でも基地周辺以外の人たちにとってはどこ吹く風なのであろう。が、この問題は米軍基地を抱える日本全国のどこの自治体とその近隣住民にとっては起こり得る「我がこと」であり、他人事ではない。
 同様に、安全保障政策の根幹に米軍基地とアメリが存在している限り、沖縄や横田だけでなく、日本人全員、日本国家の問題なのである。
 そのために、誰にとってもヒトゴトでなく実は身近な、我がことの問題だと考えてもらうべく、今こそ改めて「連帯」を呼びかけたい。
 
 かつて「万国の労働者」に連帯を呼びかけるうたがいくつもあった。労働者に限らず、まずは全国の日本人全員、日本に住むガイジンも含めて、こうした一地元の問題こそが、実は日本全土、全国の問題であることを伝え理解求めて連帯を呼びかけていきたい。
 願わくば、「うた」を通してそれができないものかとこのところずっと考えている。