すべてを赦し受け入れていく・32017年01月12日 13時14分41秒

★新たな年に新たな試練を得て

 それから軽く何かを食べ一休みしてから、さて、どうしようかと考えた。
とりあえず、「事故」については手配は終えた。今日は父もショートステイで明日の夕方まで帰らない。当初の予定通りに山梨へ行くか。
 しかし、これは、今日は出かけるべきではないというメッセージではないのか。出しなに交通事故をしでかしたのだ。あれこれ考え迷った。
 が、一人でこの家にじっとしているとまた余計なことを考えたり心配がつのって頭がおかしくなりそうに思えて、気分転換のためにも向うに行くことにした。幸い事故についてはひとまず「決着」したのだ。ウチにいてもすぐ今何かできることもすべきこともない。
 そして午後3時になってしまったが、犬たちを乗せて、留守番の猫たちの餌を置いて、車を出した。

 交通事故は、これが初めてではない。我ブログの旧くからの読者の方はご存知のように、もう10年近くも経つかと思うが、ごく近所で、当小学三年生だったかと思うが、女児をはねた。危うく殺すとこだった。
 それは夏の夕刻時、我が親たちを後部座席に乗せて、家から走り出したときのことだった。突然、左手の塀の陰から、斜め向かいの家の女児が、その兄たちと追いかけっこをしていて、急に飛び出して来て我が車のボンネットにぶつかった。その子は追う兄たちを振り返りながら前を見ず狭い車道にいきなり飛び出してきたのだ。
 あっと思い慌ててブレーキを踏んだが、ぶつかり、頭を打ったのか、その場に倒れて意識を失った。こちらもさほどスピードは出していなかったが車のボディは少し凹んでいた。

 すぐ警察に電話して救急車や警察も来て、大騒ぎとなったものの意識も戻ったかと思う。しかし当初は大したことはないと思われたが、その晩から容体が急変して、女児は何日も運ばれた病院の集中治療室で、意識不明のまま頭蓋を切開して腫れた脳を冷やす処置を受けていた。無事生還できるか危ぶまれた。
 我はただひたすら奇跡を神に祈るしかなかった。夜も眠れず何日か、真夜中もその病院に通い、付き添っているご家族たちに様子を伺った。

 いったい何日そんな危険な状況が続いたのだろうか。数日後、幸い女児の容体は快方へと向かい、我は「人殺し」とならずにすんだ。
 むろん事故の保険には入ってはいたが、もし死なせてしまえば賠償金として何億も支払わねばならず、ごく近所ということもあり、この家を売ってその金を作り我が家族はどこかの公営住宅に移るしかなかったかと思う。まさに神のご加護があった。
 その子は今はもう高校生になったか、この春進学する頃か、すっかり成長し見かけても誰だかわからない。ケガ自体は無事癒えたわけだが、その後も相手方は我を赦さず、事故の示談交渉は長引いた。今でもその家の人たちはウチとは挨拶もしないし口も利かない。
 保険会社の担当が、何度もその家に出向いたが、成長期の子どもの脳のケガであり、やがてまた何か障害がでることを怖れて、安易な示談とか和解にはなかなか応じなかったのだ。
 けつきょく、保険会社は自らの交渉は諦めて、弁護士に仲介を依頼し、ようやく昨年の春、それが成り「決着」がついた。実に長く、こちらも普段は忘れるときのことが多いほど歳月が過ぎた。
 しかし、当初は、お詫びに行って土下座しても相手方からは罵られ、ごく近所でもあり日々顔を合わせるのも辛くてまさに針の筵の感がしていた。
 親たちはまだ元気だったから、我は出かけることが多くなった。そうした辛い日々の最中、我は音楽、日本のフォークソングに熱中するようになる。岡大介やバロン、みほこんら新進気鋭の才能ある若手シンガーと出会い、ベテランでは中川五郎御大を筆頭に、得難い知己を得て、音楽やうたによって苦境を忘れその危機から脱することができたのだった。
 そう、その子を事故で殺していたらば、我もまた自らを責めて間違いなく自殺していたかと今も思う。死なせはしなかったが、その後も煉獄の火に焼かれるような日々が続いた。
 我を救ってくれたのは、「うた」の友と聖書であった。その二つに出会わなければおそらく今の我はここにいない。そして家族の支え、特に母の存在が大きかった。
 その母は、ようやく事故の決着を報告したことで昨年九月、安心して旅立ったのかと今思える。

 そしてその母を喪い新たな年が来て、新年早々またもや交通事故を起こしたのだった。我が業を今さらながら見つめている。