すべてを赦し受け入れていく・終わり2017年01月14日 07時40分36秒

★全てを赦し受け入れいく。それが神=天の意思ならば。

 こんな人間は、車の運転などすべきではないし、これからまた過失であろうと事故を起こすかもと考えると免許は返上するしかないと迷いもした。
 しかし、そうなるともはや山梨の倉庫に行くにも電車とバス及びタクシーを使うしかなく、実際手荷物では行き来は出来たとしても倉庫として機能しない。
 現実の話としては、ならば自家用車が必要だし、しかも誰も代行運転はしてくれる人はいないのだから、我自らが運転するしかない。ともかく今はまだ車がないと何一つできなくなってしまう。
 先に記した、そういう「見えていない」人間が運転しているという危険を自覚して、できるだけ慎重に、丁寧に、ひたすら運転に集中してやっていくしかないと覚悟を決めた。むろんのことできるだけ運転そのものも控えていく。
 ※中古で買ったこの車ももはや10年以上乗って、ボロボロ、がたがたなのだ。新たに買い換えるかどうかはまた熟考するとして、使えるうちはとことん大事に大切にして使うべきであろう。

 何事においても慎重に、丁寧に、確実に、きちんとしていく、というのが、我が人生残りのモットー、自戒であるけれど、まずは他の人命に関わる一番大事なことから必ず守っていきたい。
 心底バカゆえに考えなしで常に迂闊で、失敗とトラブルを繰り返す我だから、一難去ってまた一難は常の事であり、今回もまた同様のことを起こした。
 しかし、どうやら今回は大事に至らず決着つきそうなので、ああ、またしても救われた、赦されたという思いでいる。ただただ有難い。そこに神の存在を強く感じた。
 
 聖書では、イエスはその教えを説くに、多々様々な喩え話を用いている。
 その中に、弟子ペテロに、他者を何度までなら赦すべきかと訊かれて、こうした喩えを語っている。
 
 決算のときが来て、1万タラント(超膨大な額)の負債がある者=しもべが、王=主人のところに連れて来られた。しかし返せなかったので、王はその人自身とその妻子と持ち物を全部売って返すように、と命じた。
 が、この男、ひれ伏して「どうかお待ちください、必ず返しますから」と哀願したので、王は哀れに思い、彼を許し負債を免じてやった。

 その帰り道、男は、100デナリを貸している仲間に会い、彼をつかまえ、首を絞めて「借金を返せ」とすごんだ。そこでこの仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ、返すから」と頼んだが、男は承知せずに、この仲間を引っ張って行って借金を返すまで獄に入れた。※100デナリは当時一日分の労賃程度の額だとされている。

 この様子を見ていた人たちは心を痛め、王にのこらず伝えた。そこでこの主人は、彼を呼びつけこう言った。
 「悪いしもべ、私に願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。私が哀れんでやったように、お前も仲間を哀れむべきではなかったのか」。
 そして王=主人は立腹して、負債全部を返すまでこの男を牢に入れた。

 この話をしたうえでイエスはこう付け加えた。「あなたがためいめいも、もし心から兄弟(=仲間)をゆるさないならば、私の天の父もまたあなた方に対して、そのようになさるであろう」。(マタイ・18・21~35)

 この話は、俗に「ゆるさないしもべ」として知られる喩え話であるが、ペテロの何度までならゆるせるかという問いに対して、イエスは、「私は七度までとは言わない。七たびを七十倍にするまでゆるしなさい」と答えている。

 今回の事故の一件で、この聖書の一節がまず頭に浮かんだ。弱く愚かで罪深い人間は、誰もがそれぞれの負債を負っている。ならば、自らの正義に頼んで、他者を断罪したり裁いたり、「借金」を早く返せとすごんではならないのである。
 まして我のように、またも赦された者こそ、この喩えにあるしもべのようであってはならないはずだ。

 ずっとトラブル続きであった我が父との関係も、もし我に義があろうとも父をまず赦さないとならないのであった。そのことを山梨の深閑とした森の中で考えさせられた。我こそもっともっと寛容にならねばならないのであった。

 そう、すべてを赦していくしかない。そして起こることもすべて受け入れていこう。ただ、それは「アベ政治を許さない」ということと背反対立することではない。
 そこでいう「許す」とは「認める」「肯定する」という意味であろう。何よりも憲法を否定し、沖縄をはじめとした地域住民のことを一切思いやらず徹底的に弾圧していく政治手法は、神の意思にも反している。
 まさにこの安倍晋三こそが、ゆるさないしもべなのである。