死に行く者、死んでいった者たちから学び得たこと・序2017年04月04日 22時58分13秒

★長年共に過ごした愛犬を本日看取り送って

 声に出して泣いたのはいったいいつ以来のことか。今もまだ亡骸にすがって大声で号泣、泣き叫んでいる。

 老犬ブラ彦が、今日の午前11時35分に死んだ。もう18歳と半年。人間換算ならば107歳という超長寿なのだから、そこまで生き永らえたことを喜ぶべきだが、あまりに長く常に共に日々暮らして来たので、覚悟はしていてもその「死」に動揺は隠せない。
 今朝がたまで生きて暖かかった体も今は冷たく強張り、魂の抜け殻となっていまもまだそこにいる。明日、庭を片付けて、彼がいつもいた犬小屋の横、柿の木の下に埋めようと思う。彼の骸は、柿の木の栄養となり、毎年柿が実るたび、亡き犬のことを思い出すことだろう。

 たかが犬と嗤われる方もいよう。だが、我にとっては、その親たちの代からずっと青春時代の頃から今日まで共に過ごして来たまさに家族の一員であった。これで、ついに三代続いたブラ家の一族は終えてしまった。彼の祖母の代から数えれば約30年にもなろうか。

 先だって我が母が死んだ時も当然嘆き哀しみ心に大きな痛手を受けたが、そのときは何故かほとんど泣かなかった。あまりに突然だったことと、あれこれその後の事後処理作業が多くて忙しくて、ゆっくりじっくり哀しみにひたる暇もなかった。そのときも思い切りとことん泣けたらどんなに楽かと思った。ただただ泣いて、涙が枯れ果てるまで泣けたらどんなに良かったか。

 今日は、昼前にブラ彦がやっと死んで、その死を見届けてから泣き叫びながら糞尿に汚れたペットシーツを集めて捨てたり、まだ温かい体をウエットティシュで拭いて綺麗にして段ボール箱に収めたり、一人で涙をポタポタ落としながら彼の死んだ部屋、それは我が母が息を引き取った部屋を、声出して泣きながら掃除していた。
 そして今、外に出していた彼の骸を玄関に運び込み、改めて対面して、その死を実感、噛みしめている。我の生きて来た人生の半分が、今日で終わった気がした。それほどこの犬とは、我が人生後半、常にいつも共に過ごして来たのだ。

 冨士山にも御岳山にも一緒に登ったし、家族旅行は当然のこと、三重県のフォークイベントにもその親たちと共に一緒に連れて行った。臨海の赤旗祭りにも電車に乗って行ったし、拙宅のイベントでも二階に上がって来て皆に愛想を振りまいていた。来られたお客が帰られるときは一緒に駅まで見送りに。無頼庵のトレードマーク、アイドルでもあった。ウチに一度でも来られた方は、ああ、あの黒犬だと思い浮かべるだろう。

 もう十二分に生き、長寿を全うできたのだから、何も悔いも思い残す迷いはないのだけれど、それでもやはりすごく悲しい。痩せ衰えもはや冷たく固い亡骸に変わり果ててしまったことがどうにも辛く耐え難い思いがしている。
 ただ、彼は死ぬまで実にしぶとくとことん生きた。もう何も食べなくなって一週間が過ぎ、骨と皮になり、一昨日からは水すらもほとんど口にせず、自ら歩くこともできなくなてからも長くしぶとくしっかり生きた。

 もうだいぶ弱ってきたので昨日のうちに死ぬかと思い、覚悟もして、夜通し傍らに付き添い寝ずに様子をつききりで看ていたら、どっこいそのままいつしか夜が明け、やっと朝になってから苦しそうに吠えたり唸ったり鳴き叫んだり始めた。どこか痛いのか一時間以上も騒いだ挙句、ようやく静かになって、このまま大人しく眠る様に死ぬかと思っていたら、最後はまた一瞬苦しそうに暴れて胃液を吐いて、糞尿も出し尽くして、身体をそらして目をむいてようやく死に赴いた。11時35分。もう昼近くであった。弱ってからも実に長かった。
 我はただ声をかけて励まし感謝し身体をなすることしかできなかった。まさに大往生。そしてつくづく思った。老いて死ぬということはこんなに大変なのかと。これほど苦しむものかと。
 
 たかが犬だが、その死に行く姿に実に多くのことを教わり学び得た。母には申し訳ないが、犬も人もその死に行く姿はまさに瓜二つであった。人も犬もこうして死ぬのか、死とはこういうものかとはっきり理解した。
 
 老犬と老人の世話で一昨日からほとんどろくに我は寝ていない。母やブラ彦たち、死んでいった者たちから教わった、「死」と「生」とはどういうことなのか、を今晩ようやく深く眠って体を休めてから書き記しておきたい。
 母のときにプラスして老犬を通して、ようやく死ぬとは、生きるとはどういうことか、わかってきた。それはとりもなおさず「たべること」の大事さであった。そう、生きるとは「食べること」であった。そして食べるとは、明日もまた生きることに他ならなかった。

 人はパンのみでは生きないとイエスは説く。しかし、まず生きるためにはパンが必要なのだった。