人生も世界もただ「そこ」にある。2017年04月26日 23時26分47秒

★沖縄で今起こっていることを「ヒトゴト」にしてはならない。

 山梨では申し訳ないが「気分転換」はできた。のんびりしているヒマなどないし、この慌ただしく大変なご時世に、一人隠遁というか、逃亡しているようで誠に申し訳ない。
 しかし、今の我の唯一の息抜きは、そこに一人で行き、温泉につかりぼーとすることだけで、そうした避難所、保養所が我にはあって実に有難いし他の方にはただ申し訳なく、心苦しく思う次第だ。
 早くもっと片付けて手入れして、誰でも来れるよう、使えるようにしていかねばと今さらながら思う。我一人の密かな楽しみ、というのは実にブルジョワ的なもので、何であれ楽しいことこそ共に分かち合わねばと考えている。苦しみは個人で背負うしかないからこそ。
 もし、この息抜きができなかったら、我は父を殴り殺してこの家に火をつけて自殺していたことだろう。

 さておき、この数日、いろいろ考えることあって、それをどう記すべくか定まらずブログも書けないでいた。沖縄、辺野古の海の埋め立てがいよいよ始まったからだ。
 蟷螂の斧という言葉はあるが、けっきょく、国家という強大な権力の成す「暴力」の前には、一つの、小さな県の意思、しかも首都からもっと遠く離れた島に住む人々の思いなどまったく無力でありいささかも「忖度」されないのかという怒りを通りこしての憤り、哀しみに似た憤懣である。
 そして今この我もまた、何か彼らのためにできることがあるとしても何もできない歯がゆさに気持ちは鬱屈してくる。この29日には、都内で沖支援・連帯の集会はあるけれど、残念たが今は参加できない。

 大変な状況にいる人たちに、がんばってください、なんて気楽なことは言えない。それよりもじっさいに現場に行き、座り込みに加わるなり、支援のカンパを出すほうが何より個々は非力ながらでも力になろう。
 しかし、つくづく思うが、これが沖縄でなく他県であれば、例えば、神奈川や山口県であれば、政府はここまで県民の民意を無視して強行はできないであっただろう。一つの県とはいえ本土から最も遠く離れた島でのこと、そもそもその県民を「差別」的に見ていると考えるのは我だけか。
 辺野古に新基地建設はNO!ということは、県民のほぼ総意であり、事実国政選挙や県知事選でも争点となり反対派が勝利して来た。その県民の民意を受けて、翁長知事は、反対派県民と共に辺野古移設に断固として反対してきた。その姿勢は一貫している。が、政府は、圧倒的力の差を見せつけるように、座り込みする人たちを強制排除し運動の象徴的人物は高齢であろうとかまわず逮捕し、リーダーは何日も拘禁し保釈しない。まずその無法、非道に怒りが抑えられない。
 そして沖縄の声に一切耳を傾けず、辺野古への新基地建設工事をやみくもに強行したあげく、ついに美ら海埋立も始めたのだ。
 けっきょく、共謀罪を新たにつくろうという意思の裏には、こうした反対派は全員国家に抗うテロリストとして、現場に集まる以前の段階で、連絡を取り合っただけで即逮捕したいという国家権力による反政府活動弾圧の願いがあるゆえなのである。テロ防止という言葉の裏を読まないとならない。

 今沖縄で起きていることを、内地の人たちの多くは無関心であるし、何で政府と沖縄は争うのかよく理解しようともしていない。市街地にある危険な普天間基地が移設されるなら良いことではないか、何で反対するの?と政府の説明に疑問を持たない。普天間移設と辺野古に新基地建設は本来まったく別の話であり、辺野古移設が唯一の解決策ではないし、沖縄県内で、別の場所にまた新しくさらに強大な米軍基地を新設するであれば、基地のたらい回しであって何の根本解決になっていないではないか。
 豊かで美しい辺野古の海を埋めて破壊するのは環境破壊であるのは当然として、それ以上に、今の政府、自公政権、安倍内閣のやり方こそ、地方自治を無視し、沖縄の民意、人権を無視し、立憲主義を否定し、そもそも憲法を否定しないがしろにしている。
 そして、そのことを、沖縄だけの問題、自らとはカンケイないと「ヒトゴト」としている我ら内地の日本人もまた、やがて国家権力の横暴非道は、「我が事」として体感するときが来るはずだ。

 沖縄の問題は、我にとってヒトゴトではない。我が住む町に隣接する横田基地にもオスプレイが近く配備されるし、その滑走路進入路直下に住む者として、騒音被害と共に墜落の危険性はさらに高まっていく。
 普天間が危険だから移設するのならば、同じく周囲に住宅地がびっしり立ち並ぶ横田基地もまた危険であるはずだし、本来米軍基地はどこも全て危険なのである。何故ならそこには、様々な銃器爆弾が格納されている所以。
 何故に、独立国家日本に、米軍の駐屯する基地が全国いくつもあるのか。思いやり予算もだが、何故日本は、アメリカに多額の金を払ってまで米軍基地を提供するのか。それが日米安保条約、軍事同盟による安全保障であり、そうしないと日本は、すぐさま他国から侵略されてしまうからだと言うが、果たしてそうであろうか。
 日本の防衛とは、アメリカに未来永劫依存し、沖縄には本土の七割もの米軍基地が集中しないとならないのであろうか。

 残念ながら多くの日本人は、そうしたことに思いが及ばない。考えもしない。「当たり前」のこととして疑問に思わない。しかし、それを知り、「ヒトゴト」を「我が事」としてとらえ考えないことには、けっきょく、何もわからないし知らないし、それだけて人生も終わってしまう。

 先にも暴言、失言で騒動を起こした復興相は、「(大震災)は、まだ東北で、あっちで良かった。これがもっと首都圏に近かったら膨大な、甚大な被害があった」と派閥のパーティで講演の中で語り、被災地の人たちのみならず多くの人々から大きな批判を受け大臣を辞任した。
 残念だが、これもまた「本音」であり、そう考えた人がいてもおかしくはない。しかし、そう口にしたのが、復興を担う責にある大臣ご当人なのだから言語道断、無責任きわまりない。
 震災や事故は、ここではない、どこそこで起きればまだマシ、幸いという考え方はあり得る。しかし、それこそ「ヒトゴト」だという考え方であり、自分とはカンケイなかったから良かったと言ってるのと同じなわけで、当事者としては絶対に看過することも容認もできやしない。
 この復興相だった男にとっても大震災は「ヒトゴト」だったのである。

 すべてのことは、ただ「そこ」にある。それをどう知り、どう関わり、どう思い、考えとらえるかで人生も世界も大きく違ってくる。この同時代に生きている限り、本来「ヒトゴト」で済むことなんか一つもないのである。