そのとき何があり、どんな状況、どういう時代であったかを。2017年04月28日 23時22分58秒

★関わってきたことを我は全て記録し残していく。

 今月、春四月ももうすぐ終わる。月日のたつのは何とも早いことよ、である。母が死に、後を追うように老犬も死に、後は、92歳の父と還暦間近の息子、我だけが残された。
 体調もあまり良くないこともあるが、日々雑事に追われ、父の介護と家事だけで一日が明け暮れていく。腰据えて、我が身のことだけに向きあえるのはいつのことか。

 が、まずは明後日今月30日に、先月中止してしまった「レコードコンサート」を拙宅無頼庵でともかく開催する予定でいる。実はまだ相変わらず、片付けも含めてその準備もろくにできていない。
 しかし、まだあと一日あるし、何とかなるだろうと思っている。幸い明日は父は朝からデイサービスでお泊りで、土日月と不在となるので、ようやく父抜きで、我は我のことだけに専念できる。彼が家にいると朝から晩まで気の休まるときはない。音楽もかけられない。

 施設に送り出すだけでも朝起こして着替えさせ朝飯食べさせ、荷物まとめて迎えの車に乗せるまで一時間半は付ききりで世話して時間奪われる。夜もベッドに寝かせるまで同様に一時間以上時間がとられる。
 共に住む親子だから仕方ないと思う反面、全くの無償で父の垂らした糞便を拭いたり後始末せねばならないのは、憤りはしないが、何ともやるせない気持ちだというしかない。まあ、子として我も赤子の頃は親に下の世話してもらってたはずだから、これもその恩返しなのだと思うしかない。

 さておき、昨日、三重県から来られた友人と御茶ノ水駅前で会い、近況も含めてお互い今後のこと等をあれこれ話し相談でき、ようやくこれからの指針、方向が見えて来た。一言でいえば、我の成すべきことに確信が持てた。何をまずやっていくか気持ちが定まった。
 今までは、親の介護など、当面のこと、目先の現実事だけに気持ちが囚われ家事だけに束縛されてどうにも身動きとれないでいた。状況はさほど変わりはしなくとも、目先のことを超えた先に視点を置き、この辛い現実とは別に、成すべきこと、目的に向けて進めていこう、それはできると思えてきた。
 そしたら今日は、これから自分がやりたいこと、やるべきことを考えていたらワクワクするような「思いつき」が久々に湧いてきて、何としてもそれを現実のものに、カタチにしていきたいと今強く決意している。そう、それこそが自分がすべき、自分だけしかできない「ワークス」だと、はっきり見えて来た。
 ただ今はそれをここで文字にはすべきではないと思う。モノゴトは公にしてしまうと、それで終わってしまうこともある。あくまでも不言実行で、一つ一つ物としてカタチに、完成させて現実のものにしていかねばならない。

 昔から思い気づいていたが、我は非常に中途半端な、どこにも属せぬ世代に生まれて来た。戦後生まれであるが、団塊の世代には遅れて、その後の新人類とかのまた新たな世代でもない。
 戦争は知らないが、戦後の影も色濃く残す幼児期、幼少期を過ごし、「三丁目の夕日」的貧しい「戦後」光景も記憶しているし、高度経済成長や三無主義、シラケ世代も体験している。
 学生運動には遅れても、その残り香はリアルに知っているし、その60年代の熱き動乱から70年代の新たな熱気、そして80年代の醒めた空虚さ、90年代の無意味な高騰と破綻、そしてその後の長引く鬱屈した時代までもずっと生きて見続けてきた。

 じっさい我の青春は、70年代から始まったのだが、それ以降だけでも早や半世紀近く、そのときどきどんな時代であったか何があったかはっきり体験して知っている。
 むろん我の少し前の世代は戦後、終戦直後の混乱~50年代の記憶から持っているはずだが、そうした人たちはもう70代、80代となってしまい、早晩いなくなってしまう。
 そして我らの後の世代、70年代、80年代生まれは、まだ若いけれど、そのいちばん熱かった時代を実体験していない。じっさいを知らない。
 我はその中間世代であったから、すべてのムーブメントに遅れては来たけれど、あるいは乗り遅れたけれどもその全てをはっきり見てきてはっきり知っている。
 ならばそうしたことを、書き残すこと、記録に残すことこそ我の、我らの使命、役割だと思うし、記しておかねばならないはずだ。

 俗に、歴史とは何かと問われて、歴史書に書かれてあることだという答えがある。つまり、書かれていないことは、あったとしても歴史にはなかったということであり、その当時生きていた人は知っていても彼らが死ねば「なかった」こととして消えてしまうのである。
 ならばこそ、歴史書や教科書にないような庶民のこと、民衆の出来事を誰かが書いたり写真や映像に撮ったりして記録していかねばならないはずだ。
 それはどんなことで何があって、その頃はどんな時代であったのか、我は常に知りたいし関心がある。でないと、一部の記された資料だけからしかそのことは窺い知れず、それが間違いであっても確定して歴史として残され後世に伝えられてしまう。
 しかし、歴史資料はいくら多くても構わないはずならば、正確を後世に伝え期すためにも、我は出来る限り文字に残し文書にしていきたいと今改めて思う。

 特に我が好きで関わって来た日本のフォークソングについてはその思いがなおさら強い。
 70年代より我が録りためた音源、写真、書き記したものなどもきちんと後世に残すべくデジタル化、アーカイブス化して行かねばならないと思うし、これまで我が録ったもの、録音、映像、写真、書いて来たレビューなどもきちんとカタチにして、誰でもそれが確認、アクセスできるようにしていきたい。
 センエツだと嗤う方もいようがそれこそが我の仕事、役割なんだと昨日、友人と語らい強く思い直すことができた。

 何であれ、体験してきたことの記録と保存、そしてそれを後世に伝え残していくこと。それをしない限り、歴史は官製のものしかなく、そのときどき民衆、庶民は何を求め考え何に関心がありどう動き、何をしたのか後世になるほど誰もわからなくなってしまう。
 けっきょく、我らが過去の時代やその当時の人たちのことを知り想像もできるのは、かろうじて残された文学作品の中に書かれた当時の世相、町や人々の様子だけなのである。いくら古くても古事記や日本書紀には、天皇家のことは書かれていても庶民の暮らしについてはほとんど何もわからない。

 我が体験してきたこと、それがどんな時代で、どんな人たちがいて、何をしてどんな様子であったのか、それを書き残していきたい。それこそが我にとって一番関心があり、また知りたいことなのである。特にサブカルチャー、カウンターカルチャーと呼ばれた若者文化についてこそ、それを知る、渦中にいた人たちが書き残していかねばならないはずだ。でないと、それは何も記録がない故、なかったこと、になってしまう。
 また、ぜひ昔のことなど、体験している方は、自らは書き残せなくてもお話頂ければ我はそれを聴き、書き残していくつもりでいる。

 あのローマックス親子がいたから、アメリカのフォークソングはリバイバルムーブメントが起き、ガスリーやピート・シーガーが注目され、ボブ・ディランが生まれそのフォロワーたちにより今日の隆盛がある。ならば、我も彼らに倣い、せめて我が知ること、関わりを持ったことだけでもきちんと記録に残して後の人たちに伝えていきたい。