死に行く者、死んでいった者たちから学び得たこと・12017年04月08日 21時57分59秒

★死んでいくのも実に大変なのだ、と知る。

 4月8日、土曜日の夜である。
 約20年、共に過ごした老犬ブラ彦は、5日の午後、彼が暮らしていた犬小屋をどかした跡地、柿の木の根元近くに深い穴を掘って埋めた。
 この秋、柿の木にたくさん実がつけば、それはブラ彦が姿を変えて我らの元に還って来たと思いたい。淋しくないよう、我は伸ばしていた髪をほぼ全部その場で切って、彼の遺骸の上に撒いて入れた。
 先に母を喪い、愛犬を今また送り、あと残すは父だけとなって、我が心の中、ぽっかりと空いた穴はますます大きくなっていく気がしている。その穴をどうやって埋めたらよいのだろう? 我はまたAmazonで、タイムセールで安くなった、しょうもない買い物に精を出している。

 母のときは、死なせた後、痛恨、悔恨の思いしか残らず、それは今も我をずっと苦しめているが、ブラ彦の場合は、死んだ哀しみ、いなくなってしまった淋しさはひしひしと感じはしているものの、悔やむ気持ちは幸い何もない。
 人間でいえば百歳を超すまで生きたということもあるけれど、最後の最後までできるだけのことはやって、死を看取ったという思いからか、もはやいない「不在」の淋しさ、空虚感はあっても、悔恨の苦しみはそこにない。

 死の前々日、ブラは何も食べなくなって何日も経ち、水さえもほとんど飲めなくなった日は、日曜だったこともあるが、その日、米軍機も飛ばず外も心も静かに平穏な一日を迎えられた。
 充足感とか、満ち足りたという心境とは違うが、久々に落ち着いた何も心騒がない、揺らがない静謐な心持になれた。そんな心境はいつ以来のことだか思い出せない程だ。
 今思うに、それは「死」を受け入れたゆえであろうか。母のときは一度もなかった気持ちであった。

 繰り返し書くが、母のときといい、犬のブラ彦の場合も、その死に行く姿は種族は違えど全く同じであった。
 母のときは癌という進行性の病が根源にあって、それが肥大し、母の栄養、体力をじょじょに奪って、痩せ衰えしだいに食事もとれなくなった。痩せ衰え家に入れた介護ベッドに寝たきりとなった挙句、栄養失調で浮腫みも出、最後は、まさに骨と皮、精根尽き果て、何も食べられず下痢も止まらず水を少し飲ませたら苦しがり我が抱きかかえたまま死んだ。救急車が駆けつけた段階で心肺停止と宣言されたのだ。

 犬のブラの場合は、特に病気は何もなかったが、あまりに長生きしたので年明けから少しづつ食べる量が減って、飼い主としては、あらゆる高齢犬用食材を手を尽くして買い求め、何ならば食べてくれるかと工夫して与えたけれど、最後は何をやっても食べなくなった。無理して食べさせても後で吐いて戻したり下痢したりするので、もう彼の身体自体が受け付けず消化できなくなったのだとわかってついに諦めた。
 そして母のときと同じように、骨と皮、触ればゴツゴツとした干物のようになって、何も食べなくなってから一週間生きて死んだ。水すらもほとんど飲まなくなってからも三日生きた。

 水も飲まなくなってきて、抱きかかえて小便に連れ出しても後ろ足が麻痺して歩くこともできなくなったので、もう長くないと覚悟したのが3日の火曜。その晩のうちに死ぬかと思って、彼が寝ている四畳半の板の間に、我もシュラフ敷いて寄り添って寝たが、日付が変わっても時々苦しそうに騒いでもまた収まってなかなかそのときを迎えない。
 何度か胃液を吐いたり、軟便やオシッコを横になりながら垂れ流しはしても荒い息しつつまだ生き永らえている。一晩中、苦しそうな彼に声をかけ、撫でてさすってやって、ときおりこちらもうつらうつらして朝を迎えた。8時頃から苦しがって吠えたり唸ったり時に身体を起こして暴れ出し、一時間以上もそうした状態が続いた。どうしたらよいものか困惑し、我もさすがに、天国の母に、どうか早く安らかに、ブラを迎えに来て来てくださいと祈るしかなかった。

 それから苦しさは過ぎ去ったのか、しばらく静かな寝息を立てて眠り続け、このまま安らかに死ぬのかと思っていたらば、一たびまた胃液を絞り出すように吐いて糞便を出し尽くし、苦しげに身体をのけぞらして白目をむいて叫んでついに静かになった。もはや昼前であった。
 我はただ痩せた体を抱きしめてやさしく撫でて、長い間、ご苦労さん、ずいぶん生きた、ほんとうにありがとう、またこの家に生まれ変わって会いに来て、と慰撫することしかできなかった。
 まさに大往生であったかと思う。晩年の彼は白内障で、目も白く濁ってしょぼしょぽになっていたが、死んだ横顔の目は、不思議にぱっちり綺麗に澄んでいた。精悍であった。我は何より死ぬまでのがんばり、しぶとさ、この生命力の強さに感心、感嘆させられた。
 そして思った。死ぬとはこれほどに大変なことなのかと。死ぬまでがまさに一苦労であった。