ただ世界の終わりを待つだけでなく2017年04月13日 17時34分40秒

★セルフネグレクトという緩慢な自殺

 この何日かどうにも調子悪くて、このブログ更新できないでいた。
もし心待ちにしていた方がいたならば申し訳なく思う。
 無理して書きだせば書けない事はなかったのだけれど、気持ちが落ち込み、書いても死んだ者たちの思い出や愚痴の類になるばかりで、書かねばと思いつつもどうしても書けなかった。
 ただ、このままだとこのブログも自ら放擲してそのまま、ほったらかしにしてしまいそうで、無理して書き出している。
 どんなことでも始めたからには、終わらすとしたらそのケジメはつけないとならないわけで、「自然消滅」にしてはならないのであった。

 セルフネグレクトという言葉があるそうだ。日本語にすれば、自己放任とされている。が、我はあえて「自己放棄」と意味づけたい。
 長くなるが、ネット上の事典ではこう説明されている。
 
●セルフネグレクト  出典|(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」

 生活していくのに必要な行為を行わない、あるいは行う能力がなく、そのために生活環境や健康状態が悪化しても、周囲に助けを求めない状態のこと。認知症などで判断力が欠けていたり、近親者に先立たれたなどの理由で生活意欲が低下していたりといった意図しないでそのような状態になっている場合と、本人自身の意思で意図的に自分を見放している自己放任の場合とがある。
 セルフネグレクトの具体例としては、自宅にごみを溜め込んでいる人、窓や壁に穴が開いていたり構造が傾いていたりする家にそのまま住み続けている人、汚れた服を着替えなかったり、失禁しても放置していたりする人、認知症などの病気があっても治療や介護を拒否する人などが挙げられる。社会的に孤立しがちな1人暮らしの高齢者に多いとされるが、セルフネグレクトに陥る原因は様々であり、必ずしも高齢者だけにみられるとは限らない。
  認知症やうつ病といった精神的な病気以外の原因は、同居の配偶者や親に先立たれ近隣との付き合いも薄れて孤立したり、なんらかの理由で仕事を失ったり、糖尿病などの慢性的な病気が悪化し身体を動かすのがつらくなったりなど、多岐にわたる。自分の置かれた状況をセルフネグレクトとして自覚している人がほとんどいないため、行政や隣近所に支援を求めることもなく、問題が明るみになっていない事例は多いと推測されている。《以下略》

 自宅もあり、ある程度の資産もあるのに、病気とか失意な事件をきっかけにして、何もかも気力や関心を失い、ネグレクトして自分の人生を「放棄」してしまう。住まいはゴミ屋敷と化し、やがて孤独死しているのを発見されて事態が明らかになる。ある意味ゆるやかな自殺である。
 そうした事例が紹介されている記事を何かで読んで、ああ、これは俺のことだと思った。

 先にも書いたと思うが、今じっさいのところ、もう何もかもが片づかず、家はどこもかしこもしっちゃかめっちゃかになってしまい、すべてが身動きとれなくなっている。
 むろん、晴れた穏やかな快適な日は、気分も晴れて何とかせねばと思い、がんばろうと思う。しかし、一昨日のように終日冷たい雨が降り続いた日は、何もする気が起きないどころか父の世話だけに追われて心身とも疲弊してしまうと、もうこのままダメかもしれない、という気持ちになってくる。
 しかし、老父がまだ生きているし、その世話は我一身が担っているのだから、どれほど辛くとも面倒でもこのまま「放棄」するわけにはしたくてもできやしいない。

 新年度となり、様々な更新手続きやら支払う金はたくさんある。そうしたやるべきこともますます山積している。金を工面して何とかそれを乗り切るだけで精いっぱいというのが正直なところで、もうへとへとである。
 そうしてこれからも我は生きて行かねばならないわけだが、母も愛犬も既に亡く、かつてはそこにあった生きていく「よすが」というのか、生き甲斐とか生きる目的とは違う、何か一本大きな大事なものがそこになくなってしまい困惑している。

 以前は、親たちと犬猫たちに加えて、我には音楽などの「趣味」とその関わりの仲間たちがいた。
 が、今は、音楽活動を再開したくても仲間として参加する者はなく、ライブなどの企画を立てるのも我が状況が安定せず動きがとれない。父の体調を伺いつつ、父がお泊りの土日とかに一泊で、山梨の倉庫に出向くのが唯一の息抜きで、平日は父がデイサービスに行っててもなかなか都心まで足を伸ばすこともできやしない。
 結局、Amazonなどのタイムサービスで、届いてから冷静に考えれば今すぐ必要でもさほど欲しくもないCDや日用雑貨などを、クリックしまくっている。そうして母が死んで少し入って来た保険金などの「遺産」を喰い潰しているのである。

 今、ともかく願うのは、何でもいい、何か熱く夢中になれるものが欲しい。出会いたい。それは恋愛でもいいし、ギャンブルでも宗教でもかまわない。そのことを考えただけでわくわくドキドキするようなモノゴトと出会いたい、それが欲しい。
 が、それは「物」ではない。どれほど欲しかったものでもモノは既に手に入れてしまった時点で、既に意味も価値も失ってしまう。ならばこそ、何か熱中できる、何もかも忘れて集中できる、頭いっぱいになる真剣に向き合える行為に出会いたい。

 今の日本人は皆お気楽だから、気がついていないだろうけれど、間もなく世界大戦となるかはともかく、極東でも戦争が始まる。核弾頭ミサイルの発射ボタンを握った狂人同士が、「あらゆる選択肢を除外せず」突発的に先制攻撃を始めるであろう。
 そのとき、どこが狙われるかと言えば、まず東京、極東にある米軍総司令部のある軍事基地横田であり、そこから僅か数キロにあるのが我家なのだ。誤差の範囲である。
 米軍基地内だけの被害ならともかく、基地周辺も間違いなく戦禍に見舞われて我が家も大きな被害を受けるであろう。たぶん我はそこで死ぬ。
 洪水は我亡きあとに起これ、などとは思わない。もう死ぬ覚悟はできている。が、情けないのは、世界が終わるのをただ待つだけでなく、それに対して抗議や怒りの声を上げることができないことだ。

 今朝がたは、下の部屋から我を呼ぶ死んだ犬の鳴き声がした気がして目覚めた。起きてから、ああ、ブラはもう死んで一週間、彼は冷たい土の下なのだと思い至った。しかし、かつてのように早朝には外に出たいと鳴くキュウキュウ声が浅い夢の中でしているし、夕刻には、外で、夕方の散歩をせがみワンワン吠える声が聞こえた気がする。

 とりとめのないことを記している。しかし、自らネグレクトしないためにも、何か熱くなれるものと出会うためにもともかくブログは何であろうと書き続けていこうと今は思っている。