のみ亭の古時計を頂いて来た2017年08月02日 23時14分35秒

★35年間、のみ亭の時を刻み続けた丸い掛け時計

 今日は、夕方からまた車を出して、西荻に行き、先だって亡くなられたのみ亭マスター、やっちゃんのアパートから、スチールの本棚二つとその他処分するという家電類を頂いて来た。
 冷蔵庫や洗濯機など大きな家電類は回収業者に引き取ってもらったとのことで、アパートはほぼ空になり残りは不燃ゴミとして全部出せるだろう。
 わずか一か月前までここで彼が生きて生活していたことが、すべて跡かたなく消えていく。元々彼はごく簡素に私生活を抑えていて、実際のメインの生活は、のみ亭という店が、彼の本宅のようなものであったから、過ごす時間も店の方が多かったのであろう。
 アパートはあくまでも寝に帰るだけという感じの生活臭のほとんどない部屋であった。それほどまでに彼の人生は、のみ亭という「店」が中心になっていたのだと亡きあと、初めて彼の部屋を訪れて強くそう思った。

 その彼が、若き日、二十代半ばで始めて35年続いてきたその店も、主亡き後は彼の後を追うように閉店へと今撤収作業が進んでいる。
 何度も書いたことだが、誰かが二代目として店を継いでくれたらと願うが、けっきょく誰もそうした人は現れず、今月八月半ばで、店内は完全に空にして、大家に明け渡す予定は変わりない。
 我としては、本や漫画雑誌の大半をウチに運んできた関係上、それが入っていた彼手作りの大きな木製本棚も運び出そうと考えていたのだが、今日はもう車に乗らず断念した。

 代わりに、のみ亭のシンボル的に、店内一番奥の壁にかかかっていた丸い時計、入るとすぐ目に着くところにあったその古い大きな掛け時計を頂いて来た。ゴミとして処分する予定に入っていた。
 いつからその時計がそこに、その壁にかかっていたのか我は知らない。ただ、おそらく開店当初から、その手巻きの精工舎の丸時計はそこにあり、やっちゃんは時折それにネジを巻いていた。常にいつも10分は進んでいたのは、古くて狂ってしまうからではなく、そうして予め少し進めておけば、帰るお客にとって安心だろうという彼の心遣いであったのだと思える。

 近年、平井堅とか多くのシンガーが唄っている童謡的に知られるアメリカのポピュラーソング、「大きな古時計」といううたがある。おそらくどなたでもご存知かと思う。
 それは、100年時を刻んだお爺さんの古時計のことをうたった歌だが、のみ亭の大きな丸い旧い時計を、我が壁から外して、積もりに積もったタバコの脂と油汚れの煤をハタキ落として、その時計をしげしげ見つめた時、不意にその歌のことを思い出した。

 35年間、その場所で、ほぼ年中無休ののみ亭に来るお客さんたちを見続けて来たその古い丸時計。あの歌と同じように亡き店主と共に、店も閉められ、不燃ゴミとして間もなく捨てられる運命であった。
 が、我としては、店にあった本やレコードよりも何よりこの時計に愛着があり、もし誰か引き取り手がないならば、これこそ頂いて保管しなければと先日来考えていた。
 その思いはかない、わが手元に来たわけだが、帰り道、車走らせながら嬉しいよりも何とも名状しがたいふと不思議な気分に襲われた。

 その時計は当然ながら今の電池式ではなく、昔ながらのゼンマイ式機械時計だから、助手席の床にタオルでくるんで置いても、車の振動でときおり針がカチャカチャ動いたり音を立てる。まるで生き物のように。何かを我に訴えるかのように。
 古い時計という物でしか過ぎないもののはずなのに、ああ、この時計はまだ生きているのだと思った。胸が痛いとはこういう気持ちなのであろうか。
 今、深い感慨でその時計を眺めてこう思う。
 おそらく35年間、のみ亭で時を刻み続け、今、店主を喪い店が閉店するに向けて縁あって我の手元に来たこの古時計。
 のみ亭の時間は終わってしまったけれども、この時計は、これからも我の元、無頼庵で、時を刻み生き続けていく。壁から外して時計を抱きかかえた時、不意に幼児を抱いた時のような怖れ多い少し不安な気持ちになったのは、時計の命をも我は受け継ぎ頂いたからだと今気づく。

 この時計には、やっちゃんとのみ亭の35年間が積もっていたのだ。我はその時を受け継いでこれから生きて行かねばならないのだ。ゴミとして捨てられなくて良かったと思う反面、ものすごく大切な、とてつもなく大きなものを我は預かってしまったと身が引き締まる思いだ。
 この大きな丸い古時計、我と共にあと何年時を刻むのだろうか。

遠くから我に語りかける者の声に2017年08月04日 21時55分29秒

★目先のことに悩み心痛める以前に

 この数日、この季節にしては気温が低く涼しい過ごしやすい朝晩が続いている。ホッと一息であり、つい過ごしやすい故昼寝の誘惑に襲われるが、いまはともかく忙しい。とてものんぞりブログすらなかなか書けない状況だ。

 のみ亭のマスターの死後お店の「後片付け」に時間とられて、気がついたら我が企画担当した谷保かけこみ亭での「共謀」コンサートが間近に迫って来ていた。
 タイムスケジュール、出る順番はどうなっているのかと参加者の方々から問い合わせが相次ぎ、大慌てでそれを立てて調整を今はかっている。
 この夏は、明日、のみ亭での岡大介企画の「ラストライブ」はともかくも11日の、その谷保かけこみ亭での「共謀」コンサート、そして26日、井之頭公園駅前での、ハヤシヨシオクラブ主催「最後のサマークリスマス」まで、ともかく日々息つく暇ないほど出かけたり連絡事務、下準備などに追われている。
 つい、のみ亭のことにかまけて、生きている人たちとのことが後回しになっていた。いや、のみ亭の件だって、死者よりもご遺族も含めて、今生きている我々のすべき実際問題なのである。それをしないことには亡くなった人たちに申し訳がない。これもまた生きて残された者の努めであり、亡き人とは生きている間だけの付き合いですむ人はそれはそれで良いのだろうが、我もここまで行き係り上、最後の最後まで撤収に関わるべきだと覚悟した。

 ものすごく忙しい最中でであるが、あと一回、車出して、最後に残ったゴミとして出すしかない引き取り手のないCDやらカセットテープなどガラクタ一式、ともかくウチに運んでしまおうと考えている。
 そこにお宝があるかもしれないからではなく、ともかく後々ゴミとして大急ぎで捨てたことが悔いにならないよう、これもまた「預かり」として、のみ亭遺産として当面保管していくつもりでいる。

 人は死ねばゴミになる。それは真理であろう。しかし、だからこそ、中央線文化として、35年続いた店として、そこに集まり積もったものは、検証が必要ではないのか。大慌てで閉店に向け一切合切貰い手のないものは全てゴミとして処分して良いとは我はどうしても思えない。
 亡き人、やっちゃんは恬淡とした人であったから、死ぬにあたって遺した物に未練などはなかっただろう。だが、彼がいた、彼の店で生きた年月までも彼の死と共に一気に雲散霧消してしまうのはあまりにもったいないし残念だと思う。
 これもまた我の我欲、勝手な思いなのだとも思う。しかし、もしそこに何か一つの文化がいつしか成立していたとしたならば、我はそれをできるだけ記憶と保存にとどめていたいきたいと強く願う。

 かつて、アメリカでは、アラン・ローマックス親子が消え去ろうとしていたアメリカンフォークソング、つまり民謡的なそれを録音し記録保存したことにより、フォークソングリバイバルのムーブメントが起き、そこからピート・シーガーやディランたちが登場し、今日のアメリカのポップミュージックの祖を築いた。
 誰かがそれを保存したり記録しないことには、全てそこに確かにあったものも死んだり閉店したことにより、当初は知る者たちは記憶にとどめてもやがては「なかった」ことになってしまう。
 栄枯盛衰それが無常の世の移り変わりで当然だと言われれば返す言葉はないけれど、ならば、自らをも顧みてそれで良しとできるかだ。

 そんなで慌ただしくあれこれ関わったことの始末に追われているわけたが、今日一日だけでも我と関わった人たちの間で、傷つけ不快な思いにさせた人からお怒りのメールが届いたり、無意識に傷つけたことで泣かせてしまった人もいたりして、もうつくづく我が身の不徳をかみしめている。
 漱石の草枕の中での主人公は、兎角この世は住みにくいと嘆くが、それでもそうしたこの世=社会で生きていく前提で、あれこれ思索している。
 何事にもネガティブかつ悲観的な我は、我が生きて何かをすることで結果として常にそうした他者を傷つけ怒らせ不快にさせるのであらば、もう最初からこの世にいないほうがマシだとも常々よく考えよって自殺すらも夢想して来た。
 が、さすがにもう半世紀以上生きて、そうして我に怒り、憤り、否定し苦々しく思う人も多々いることは知りつつも、それでも我が生きている意味は何かあると信じたいし、そこに反面教師的でさえも何か役割はあるはずと信ずる。
 そうした怒りや告発、ご批判を日々常に受けて、まったく情けなく正直しんどく辛くて泣きたくも死にたいような気持に襲われるけれど、今の我には、遠くから聞こえる我に語りかける声がある。
 それはうんと遠くから静かに我に語りかけ、常に問いかけ、その存在をはっきり教えてくれている。

 我には味方も仲間も恋人も愛し愛してくれて我を助けてくれる人も誰一人いないが、もうそのことで今さら嘆きも哀しみもしない。それが我のデフォルトなのである。
 その方の遠くからかすかに聞こえる声に耳をすませば、今現在の悲惨さは一時のものだと思えて来る。その方の声に耳を澄まし我は応えていく。目先のこと、我を悩まし苦しめる煩わしいことはそれはそれとして今もこれからも確かに存在するが、その遠くからの声とその「存在」が信じられる限りまだまだ大丈夫だと思える。

嗤われるだろう。が、その方は確かに存在している。そして我を見守りときに助けもしてくれる。我は我の成すことがその御心にかなうかどうか日々問い、すぐには返りはしない遠くからのかすかな応えに耳を澄ますだけだ。

まずは、8/11の「共謀」コンサートを無事に成功させて2017年08月05日 22時48分20秒

★あとは、岡君にお任せした。

 日々慌ただしく過ぎていく。幸い我の手のかかる老父は、週末はショートステイにお預けなので、我は夜遅くまで出歩くこともできる。
が、今週はともかく忙しい。

 故高田渡が引き合わせてくれた敬愛する李政美さんを久々にお迎えして、そのコンサートを滞りなく大盛況とすべく、我はその下準備、つまり連絡事務やスタッフの手配に今追われている。
 しかもまた今回も我は、楽団ぶらいあんずの一員として、臆面なく出演もちょこっとだがするので、その練習もしないとならない。で、今日も新宿西口のカラオケ喫茶で、昼過ぎから夕方までたっぷりメンバーたちと練習に励んだ。

 だいぶ手ごたえはあったものの、この楽団、一番のネックは、我のうたとハーモニカの技量であって、必死に練習はしているのだが、果たして本番当日、失敗なくお披露目できるのか、正直今もまだその自信がわかない。
 コトにおいて人は本番に強いとか弱いとかよく口にする。我は、突発性パニック障害という気質を抱えていて、普段はまったく失敗なく100%完全にこなせることでも、ちょっとした瞬間いきなり突然頭の中が真っ白になり、何も出て来なくなる。つまりうたならば、うたの途中で突然歌詞がわからなく停まってしまうのだ。
 自分でも自分の頭の中がどうなっているのか不思議に思う。旧い電気回路のように、肝心なところに、ふとした瞬間に伝達信号が届かなくなる。何百回唄ったうたでも突然基本的サビの歌詞が出て来なくなり、困惑悶絶してしまう。緊張によるものかよくわからないが、そうなればどうすることもできない。

 それは、まだ唄い込んでないからだと先人の歌い手さんたちは我を諭す。その人たちは、歌詞カードなど全く無しで、何一つ見ず、10数分にも及ぶ長いバラッド、つまり物語り歌を詰まることなく、最初から最後まですらすらと思いのままギター弾きながら朗々と歌えるのである。それこそ、そうした人の頭の中を開いて、歌詞を覚えるコツ、その機能を確認してみたいと願う。まあ、オツムの出来がそもそも違うのだと思うしかない。そう、パソコンでいうところのスペックがそもそも違うのだろう。年齢は関係なく元々オツムのOSが、中川五郎と我とでは、ウインドウズ98と10ほど違うのである。

 先にも拙ブログでお伝えしたが、今日はのみ亭で、主なくとも最後のライブが、岡大介の企画で今もやっている。※午後7時から零時頃まで。
 我も今日の新宿でのぶらいあんずの練習が終えたら、遅れても顔出さねばと考えていた。が、練習終えて、確かな成果をサカナに、メンバーと居酒屋で少し飲み食いして、8時頃中央線に乗ったら、それが青梅行きだったこともあり、座ったらもう西荻で降りるのはいいかという気分になった。
 わざわざ我が出向かなくとも、好漢岡大介が今日はすべて最後まできちんとやってくれよう。我マス坊は、自分が出来ることは、ご遺族との関係では、もう十分にやったと思っている。それは亡き人に対しても同様に。我は天国で彼に胸が張れる。
 そして来週水曜に、最後の片付けにもう一度車を出す。閉店に向け片付けしても最後まで残ってしまった、引き取る者もないゴミやがらくたに近しい「のみ亭遺産」を一切合切、車に積めるだけ載せてこようと思っている。

 かつて植草甚一、JJ氏が亡くなったとき、彼の仕事場のものや彼が集めた私物コレクションなどは、一切合切、新宿のアドホックビル内の特設会場で、投げ売りしたことを思い出す。そのとき、彼のレコードコレクションが出なかったのは、あのタモリ氏が、JJ氏のジャズ関連のレコードは散逸するのは惜しいと全部買い取り引き取ったからだと人づてに聞いたことがある。
 その真偽はともかくも、誰かが、そうして誰かの死に臨んで、強権的に「管理」を申し出ないと、その死後の始末は混乱し惨憺な有様になることが多いかと思える。つまり遺品はやみくもに分散し、価値あるものもないものもゴミ同然に扱われ散逸してしまう。それでは故人は浮かばれまい。
 いや、それもまた、それすらも死の正しいあり方なのかもしれないが、我はそれを是とも良しとも絶対にしたくない。何故ならば、その人の生きた証が死と共にまったく無意味かつ無価値に、ゴミ同様に扱われるのだとしたら、いったい人の生きた意味はどこにあるのだろう。人の生とは、対社会の関連性だけではあるまい。
 彼が生きた証はささやかな日常にまずあるのではないのか。つまりそれは彼が慈しみ大事にしてきた日用品や捨てずにとっておいたものにこそあるのではないのか。

 これを書いている今も岡大介は、のみ亭で、おそらく仲間のミュージシャンたちと声張り上げ、やっちゃんの追悼ために唄っているだろう。
 人それぞれ追悼の仕方は違う。我は、死後の後始末として店も自宅アパートも片付けを手伝った。それが我の亡き人を思い偲ぶ仕方なのだと思っている。
 そんなこんなで出かけてばかりで正直もう疲れた。果たして11日まで我一人でもつのだろうか。今回は誰もお手伝いスタッフがみつからないのだ。それもこれも不徳の致すところだから仕方ない。我が一人で全部背負う。

 今日の、のみ亭ラストライブ、まさに最後の最後となろう。その場に立ち会えなくて少し残念にも思うが、今晩行けば、必ず遅くなってきっとまた立川から終電逃してトボトボ歩く羽目になる。今はその時間と体力が惜しい。正直そんな余裕が全然ない。
 ならば、今晩は岡君に全部お任せして、集った皆で、やっちゃんの供養をしてもらいたい。亡きのみ亭主人もにんまりすることだろう。そう、あとは岡君に任せた。安心している。

 我は我のできることとすべきことをこれからもやっていく。まずは11日、滞りなく成功に持って行かねばならない。どうか多くのお客様が訪れてくれることを祈るだけだ。

暑く慌ただしく過ぎゆく今年の夏に2017年08月09日 12時48分59秒

★ともかくこの夏を無事に乗り越え秋を迎えてからだ。

 このところ出かけたりすることも多くともかく慌ただしくやたら忙しくてブログ更新する時間さえない。いろいろご心配おかけしたと思うけれど、何とか無事でやっております。

 父が家にいると目が離せず何もできないことは繰り返し書いて来た。
今朝も早朝から起き出しては騒いで、紙パンツ取り替えてやり着替えさせ食事摂らせて泊りの荷物をまとめて持たせ今さっきショートステイの迎えの車に乗せてやっと一息だ。
 この暑さもあり起きて送り出すだけで疲労困憊、滝のような汗である。
 そう、台風一過、被害あった地方の方々には申し訳ないが、東京多摩地方は、雨もさほど降らず風がやや強かった程度で、ほとんど被害は何もなかった。
 が、その後がものすごく蒸して暑くてまいっている。我は家では、ほぼ全裸で過ごしているのだが、それでも首筋から汗がしたたり落ち、眼鏡も曇ってしまう。仕方なくその都度水風呂に飛び込み、冷水シャワーで汗流してまた作業に戻るわけだが、すぐにまた滝のような汗。そんなことの繰り返し、日々いったい何回水風呂に入っていることか。
 冷房入れてじつとしていられれば良いのだが、拙宅はともかく広く、間取りも大きいので冷房はとろくに効かないだけでなく家全体を冷やすことはできない。
 電気代もクーラー使っていると一月3万を超すので、もう困窮父の年金生活ではとても生活が成り立たない。父が帰って来て、寝る時までは熱中症予防のためにも冷房は必要だが、それ以外は、我一人のときはできるだけ使わないようにするしかない。

 今、明後日11日の「共謀」コンサートに向けて最終的準備に追われている。が、今日はまた西荻のみ亭の最終的後片付けに出向かねばならない。
 そんなことんなで11日が終わっても26日にもクラブ最後のサマークリスマスがあるし、それを終えて少しは秋風が吹けば、我の夏は何とか終わろう。
 自分のことだけでなく、やることはともかく山積し、掃除も家の手入れも何もかももう限界になってしまっている。が、今はあれもこれもと考えても仕方ない。ともかくまず、今を、この夏を何とか無事に乗り切って、全てはこの秋からだ。
 そして我は新しい人生を還暦から再び始めていく。

店と共に生き、死んだ店主と共に店も消えていく2017年08月09日 20時43分04秒

★これこそがやっちゃんが望んだ結末なのだと

 今日の午後、途中急な豪雨に遭いながらもまた車で西荻に出向き、近くへ完全閉店となる「のみ亭」の最後に残った不用品を積み込んで帰って来た。
 先週の水曜行ったときは、この5日の岡大介主催の「ラストライブ」の前だったこともあり、店内は店主生前の頃からまださほど変わっていなかったが、その盛況と訊いた記念ライブも終えた今日は、店内はほとんど片づき椅子やテーブルだけ残して壁も棚も何もかも消えてほとんど何もなくあっけらかんとしていた。

 売れ残ったレコードも引き取らねばと思っていたら、それは中古レコード屋に誰かが持ってたとのことで、けっきょく我は残っていたCDの類、それも市販のではなく手作りでミュージシャンたちが作り、やっちゃんにプレゼントしたようなもの中心に半ばゴミに近しいものだけが残されていてそれを引き取り持ち帰って来た。

 ただ今回の目的は、入り口脇にある手作りの木製本棚で、それは、この店オーブンに際し、丸太張りの内装と一緒に同じ材で拵えたもので、その中身はほぼウチに運んできた手前、やはりそれを入れる、本来あるべき本棚もなければと思っていたので願いがかなった。※店開設に際し、やっちゃんが仲間たちと一緒に作った記念の本棚なのである。
 いつの日になるかわからないが、拙宅無頼庵で、のみ亭のやっちゃん記念文庫として、一角を設けて、のみ亭にあった本はそこに並べて亡き人と店を偲ぼうと考えている。
 それが成ったら光玄招いてライブをしたい。その節はまたお知らせする。

 あと、店の天井近くの棚に置かれていた箱型旧い三菱製スピーカーも苦労して下ろして持ち帰って来た。店のBGMは、彼のノートパソコンから繋いでつい先日までそれで鳴らしていたのだ。
 我としては、先にお知らせした正面奥の壁にかかっていた丸型掛け時計とこの手作りの木製大きな本棚、そして旧いが店でずっと鳴らしてたスピーカーの三点、ゴミとして捨てられるところを「保管」することができたので、もう何も思い残すことはない。
 やっちゃんの妹さんと二人で、ほぼ何もなくなった店内を見回して、深い感慨に襲われた。それは彼がいないという淋しさとはまた別のあっけらかんとした空漠感のようなものだった。

 しかし今はこうも思う。これで良かったのだと。
 店主やっちゃんの早すぎる死と共に1982年から35年も続いたこの店も消えていく。もし、誰かが後を継いでくれて、二代目が継承してのみ亭がこれからも続いていたらどうであったか。
 我ら客としてはそれを歓迎しただろう。変わらずに店がこのまま続いていたらどんなに良いことかと。しかし、店主やっちゃんがいない、新たなマスターを迎えてののみ亭は、同じ名前でもそれはもはや別の店だろう。
 新しい店主がどれほど良い人で、できるだけ以前のままに経営したとしてもやはりそれは同じにできるはずもないし居心地もまた違うはずだ。客が前と同じものを求めてはならないし、求めても応えてくれるはずもない。その二代目としてもやっちゃんと比べられたらやはりやっていき辛いことだろう。

 ましてそれを、亡きやっちゃん自身は望んだだろうか。彼としても全身全霊かけて日々一人で35年間ほぼ生活の場的にすごし何よりも愛した店が知人友人であろうとも後を他人に委ねられるのは嫌だったのではないか。
 客としては店はこれからも続いてほしいと願うのは勝手な思いで、やはりこうした店は店主一世一代の極私的私物なのではないのか。
 その店主が逝き、誰も後を継ぐ者がないとして店も閉店となっていく。でもそれはごく当然の正しいあり方ではないかと今は思える。

 死後一か月、やっちゃんのもの、というよりのみ亭にあったものは、我が預かった分の漫画や雑誌を除いてレコードから貼ってあった写真、ポスター、ガラクタ的置物まで、この間来られたお客さんや彼の友人知人たちに多かれ少なかれ行きわたったかと思う。店もほぼ片付き、何もなくなったので彼も本当にもうこれで安心して成仏できるはずだ。

 思えば、彼とは不思議な縁だと今つくづく思う。店に通っているときは、個人的な話はほとんどしたことがなく、お互いの私生活については何も知らなかった。
 せいぜい音楽の話と店でたまにやる、それも我が知り関わるライブのときだけ顔出すという関係に過ぎなく、本当のところ我はあまり良いお客ではなかったかと思う。
 そして彼が亡くなり、ふとしたきっかけから店内の片付けに関わるようになって、彼の住んでいたアパートまで行き彼の私生活まで少しだけ垣間見る機会さえ得た。本当に彼らしい生活臭皆無のこざっぱりした几帳面な部屋で驚くほど感心した。
 「店」そのものが彼の生活の中心であり人生そのものだったのだと思い知らされた。それほど深く愛した店は、誰かがおいそれと継ぐことはかなわない。

 そして今日、最後の最後の片付けに出向き、最後のガラクタ類を積み込んで帰り道ようやく気がついた。
 店は彼と共に消えていく。残念だが、しかしそれも彼が望んだ姿だったのだと。これで西荻にあった高杉康史、やっちゃんと愛称された男がやっていた「のみ亭」という店は皆の記憶の中で永久に残る。もし、これが新たな店主を迎えて存続してしまえば、以前の店の姿もやっちゃんの記憶も色褪せてしまってゆくことだっただろう。

 そう、ならばこれで良かったのだ。のみ亭はこうして「伝説」となった。店もなくなってしまうけれど、我らの記憶の中でいつまで変わらず彼もあの時のままあの店のあの場所に座って生き続けている。我らが来ればいつものように暖かく迎え入れてくれる。
 あれだけ店を愛した彼は間違いなくあの世でもまた「のみ亭」をやっていることだろう。我が死んだらその後のことをサカナにやっちゃんと語りあかそう。濃い目の焼酎ロックを頼もう。ならば死はちっとも怖くない。その日が来るのが楽しみなほどだ。

 今改めて問う。やっちゃん本当にありがとう。俺はほんの少しは恩返しできただろうか。

明日、護憲と反戦・平和のための共謀コンサート、谷保かけこみ亭にて2017年08月10日 23時22分54秒

★午後4時から8時頃まで、どなたでもお気軽にご参加を

 今日は一日曇り空で、一昨日、昨日とは違ってやや涼しく助かった。このところ出かける用事が続いて、明日のコンサートを前に早くも疲労はピークに達している。昨夜は腹痛でトイレに起きて苦しくてしばらく寝付けなかった。こんなことは近年記憶にない。
 今日は、涼しいこともあって午後は昼食後、夕方までつい長い昼寝してしまった。それでも疲れが癒えた感じはしない。

 明日のコンサート、お客の入りも気にかかるが、毎度のことながら運営進行の裏方スタッフが今回は特に少なく、果たして非力な我が滞りなくうまく最後まで進めて行けるか今やや不安な気持ちでいる。
 が、出演者たちは皆気心知れた人たちばかりだし、始まれば慌ただしいうちにいつしかすぐ終わってしまうものだから、あれこれ今さら心配するより、早く少しでも長く寝て体調整えて明日に臨むしかない。

 安倍独裁政治、一強支配は崩れてきたが、問題はその後の政権、それもより増しな対抗軸が見えてこないことだ。野党共闘も民主党の内紛で腰砕けになりそうだし、都民ファーストだが日本ファーストだか知らないが、新たな保守政党、それも改憲に与する政党ができて自民に代わって躍進するのならば政治は何も変わらない。
 日本をとりまく近隣諸国間の一触即発の危機的状況が高まる中、政治状況が混迷を深めていく今、いったい我々庶民、一般大衆は何ができるのだろうか。

 そうした危機的意識を持った歌い手たちが、集まるこのコンサート、現実状況の厳しさが増す中で、「うた」に何ができるというご批判もあろう。しかし、だからこそ、声に出すこと、思いを唄にして伝えていくことが必要だと信ずるし、求められていると信ずる。
 このコンサート、秋にも開催が早くも決定している。が、まずはこの第一回目、コンサートのタイトルに偽りなきよう、熱い確かな思いを皆それぞれが披露してくれると信ずる。

 どうか今の政治状況に疑問や不信を持たれる方は、どなたでもお気軽にご参加ください。場所は、南武線谷保駅近く、歩3分ほど。かけこみ亭℡042-574-3602 参加費は投げ銭制ですので、懐具合に応じてお願いします。


 と、ここまで書いて、目がしょほしょぼして起きてられない。まだ何の支度もしていないが、ともかく眠い時、眠れる時に少しでも長く寝るしかない。明日のことを憂うなかれだ。

第一回目の「共謀」コンサート、盛況のうち無事終了す。2017年08月11日 23時39分22秒

フィナーレの様子
★しっかり皆で「共謀」できた素晴らしい一夜になりました。

 11時過ぎ、自宅に戻って来た。まだ店では残った皆が吞んでるかと思う。久々かけこみ亭登場の李政美さんをトリに迎えて盛りだくさんかつ長時間のコンサートは無事終えることができた。
 まさにほっと一息、ともかく無事終わった。かなり予定時間をオーバーしてしまったけれど。
 個人的にはいろいろ我の不手際もあり、手放しでは喜べないが、多くの参加者とそれぞれ個性溢れる熱い演奏が繰り広げられ出られた方も含め観客の多くが満足されたかと思う。
 我は我の「役割」が果たせたのか、今も自問している。万事満足、大成功とは言えないが、来られた皆が楽しみ満足されたとするならば今回は良いコンサート、それも最良のレベルのものとなったのではないか。ならば私的失敗はとりあえず良しとしよう。

 かけこみ亭のマスターである、ぼけまる氏と、これこれこういうコンセプトで、また歌い手たちに働きかけてコンサートをやろうと相談(共謀)したのはいつだったのか。まだ春先だったかと思う。まず最初に日時から決めた。この夏、8月中ぐらいにはともかくまずやりたいねと。
 で、こうしたコンサートでは欠かせないシンガーとして地元国立在住の中川五郎氏に連絡したらもう既にスケジュールは何ヵ月先までいっぱいで、それから人選に頭悩ました。
 幸い:敬愛する李政美さんに連絡したらご都合も合い快諾頂き、彼女をトリに据えて他の出演者たちを考えていった。
 ご存知のように、去年まで、ほぼ近しいコンセプトで、我はここかけこみ亭で、「反戦歌、労働歌、生活のうた」コンサートを何回か企画していた。ただそれとほぼ同じメンバーでは新味がないし、となると参加者も限られてしまう。
 我としては、これまでの気心知れた仲間たちに加えて新たな顔ぶれを入れてコンサートそのものの流れを組み立てねばならなかった。

 そして結果、今回のコンサート、セミプロ問わず約10組近くのミュージシャンが出られたわけだが、予定した4時間という枠の中で、それをどう配分するか、毎度のことながらご意見をあれこれ受け頭悩ました。
 出演者が多すぎ、とても時間枠に収まらないだろうというご心配からの苦言忠告から、コンサートの趣旨に相応しくない人がいる、というご批判まで我に届き頭を痛め苦慮するしかなかった。

 我マスダが企画を手掛けるコンサートはいつも常にやたら出る人数が多い。もっと少なく厳選したほうが、ゆっくり落ち着いて出る側も観る側も安心できるというご批判は常に受ける。
 しかし、我の原体験は、70年代の大阪春一番コンサートであって、あんな風に、多種多彩なジャンルを問わない様々な出演者が自由に出る形式こそコンサートのあり方だと確信している。※弁当でいえば、かつ丼や天丼の弁当ではなく、ずばり幕の内弁当である。
 でもそれは、ライブハウスが企画するような何の関係も脈絡もない対バンの羅列とは違って、あくまでも一つのコンセプトに基づき、しかも我が出したい、つまり我が観たい、つまりコンサートに招きたいと思う人たちだけ厳選してアポとっている。

 春一の主催者、福岡風太も昔言ってたが、春一にぜひ出たいと言ってくる奴らは有名無名を問わずいくらでもいる。が、俺のメガネにかなわない奴はどんなに売れてても有名でも絶対に出さない、と。
 我は風太ほど厳格ではないが、自分が良いと思い、ぜひ出てもらってそのコンサートで皆に聴いて頂きたいと思わない人は呼べないし交渉しない。出てもらうからには企画者として責任も伴う。

 そうして選びお願いした方たちの時間の配分にもまた気を使う。出順もまたである。そしてさらに今回も我は性懲りもなくぶらいあんずとして出演者にも名を連ねていた。その掛け持ちの是非についても正直今も問い続けている。まあ、信頼できる仲間たちと出られたので我はずいぶん気が楽でもあったが仲間にはまたも迷惑かけてしまった。毎度のことながら二兎を追うことの難しさを今回も痛感した。何にせよ我の力不足であったことを今つくづく噛みしめてただ反省している。

 トリの李政美さんにアンコールも入れて予定よりたっぷり唄ってもらったこともあって、予定の終演時間をかなり過ぎた。しかし、それは我も観客も皆が望んだことだからそれもまた仕方あるまいと思う。それほど彼女のうたは大きく深く素晴らしかった。その場の誰もが釘付けになり感動していた。
 久々のかけこみ亭登場もちょうどタイミングが合い、すべてがうまく進んで行った。それも我がアポとらねば今回の出演には至らなかったわけで、それだけでも我の役割、使命と言っても良いと思うが、確かに果たせたのではないのか。

 個人的反省としては、今回は撮影など頼むいつものスタッフ要員が皆多忙で誰も不在で、我一人で進行から記録までやらねばならず、不安でよく眠れない夜もあった。そして案の定やはり一部失敗したけれど、コンサート自体はほんとうに全体として良い一つの流れとなり企画の趣旨を具現化できたのではないだろうか。ただそれは観客が判断することで、企画者が勝手に満足し驕りうぬぼれてはなるまい。

 毎度のことだが、我の非力さや役不足を悔やむ。しかし、我がまずぼけまる氏と企画を共謀し、さらに館野さんやじょじょに共謀の輪を転げて行ったからこそ、このコンサートがカタチになり成ったわけで、それこそが我の役割だったと思うしかない。

 我が使命、我が役割はこうした企画の裏方なのだと最近ようやく確信できるようになった。1円にもならないどころか時に自腹切ることもままある役割だが、こうしたコンサートは規模が大きくなるほど、誰かがプロデューサ的に企画から当日の進行、運営まで担当しないとならない。
 ミュージシャンは出る側で、それで手いっぱいだし、場としての店側は、日々の営業もあり出演者との交渉も含め様々な事務的連絡までなかなか手がまわらない。まして当日の進行はできやしない。となると間に立つ誰かがいないとコンサートの企画はうまく進んで行かないわけで、運営進行も含めて誰かが担当し責任を負わねばならない。

 そう、企画段階からいろいろご意見苦言を頂いた盛りだくさんのコンサートは、ともかく無事盛況のうちに終わった。お客もほぼ満席となったし、投げ銭制の収益も来場者数よりはるかに多く頂くことができた。きっとそれはそれだけ良いコンサートだったという証と考えて良いはずだろう。感動のあまり一人で何千円も入れてくれた人がいたと聞く。
 ならばそれだけでも我は役割を果たし終えたと考えても許されるのではないか。

 そして次回、第二回目の「共謀」コンサートの日時は既に決まっている。11月23日の勤労感謝の日だ。出演はいよいよ御大中川五郎の登場である。さらにそこに元ディランⅡのながいようも沖縄から来て加わる。その他、多彩な女性シンガーも参加の予定。我も今から楽しみだ。

 ぜひ、ぜひ次回も皆で熱く共謀したいと今強く願う。多くの方にご参加願いたい。
※次回からは事前の「予約」もとりたいと考えている。今回も来られたものの入口の混雑で混んでいると思い席に着かず帰られたお客が何組もいたと聞く。要は入り口周辺の受付係、会場整理係の不在がいけなかったのだ。事前に席を予約制にしておけばこうしたミスはなくなるかと思う。せっかく「共謀」しに来てくれた新たな仲間を逃した悔いが残る。
 次回こそこうした「失敗」ないよう、スタッフを手配し万全を期すつもりだ。より多くの皆でしっかり共謀いたしたい。乞うご期待!!

共謀コンサート画像・12017年08月12日 19時58分36秒

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共謀コンサート画像・22017年08月12日 20時01分49秒

★ゆき&こういち

共謀コンサート画像・32017年08月12日 20時06分55秒

★ペピータ