二匹の子猫たちがいた2017年の夏・三か月間2017年09月01日 00時03分33秒

我家にやってきた頃の黒ちん
★神はすべてを与え、すべてを奪う

 今年の春、5月末に我が家で生まれた二匹の子猫が、行方不明となって一週間たとうとしている。
 今日、31日午前、まず警察署に「遺失物」として届け出て、日野にある動物愛護センターにも連絡して事情を伝えておいた。どちらも詳しく特徴を伝えておいた。
 ご近所の猫仲間おばさんたちにも相談したので、もし見かけたりしたら知らせてくれるはずだ。これでこちらにできることはすべてやったと思う。後は、もし届けがあればこちらに連絡来るはずだし、もしかしたらひょっこり自分たちで帰って来るかもしれない。ただ待つしかない。
 母猫は、今もずっと自らの食事もろくにとらずに、鳴きながら子猫たちを呼びながらこの界隈を探し回っている。が、まったくその気配すらない。

 しかし、生後三か月とはいえ兄妹二匹そろって忽然と姿を消したのはまったく理由がわからない。一匹、迷子になってどこかの猫好きの人に拾われることはままあろう。が、二匹同時に捕獲することは難しいはずだし、何で二匹一緒に消えてしまったのか。いったい何が彼らに起きたのか。いくら考えても想像もつかない。

 そのいなくなった子猫たちのことを記していく前に、彼らの母親猫、黒ちんのことから書かねばならない。
 確かもう一昨年の秋口のことだと記憶するが、ウチで飼っていたキャラコという名の雌猫が近所で車にはねられ?て急死した。
 その猫はとても人なつっこい、物怖じしない猫で、元地域猫だったのを近所人が連れて来て、我家で飼うことになったのであった。
 拙宅に来た方は、無頼庵に人が集まっていると、自らトコトコ階段を上がって来て愛想ふりまく姿を覚えているかもしれない。音楽の好きな良い猫だった。

 その突然の死のショックで、我が鬱々していたら、ほどなく突然庭先を黒い子猫がうろつき出し、我も手なづけようと餌など置いたが、野良猫の子らしく逃げ回って絶対に捕まらない。
 諦めかけていたところ、その猫はいつの間にか家の中に入り込み、台所の土間に仕掛けてあったネズミ捕りシートにひっかかり泣き叫び騒いでいるのを発見した。それが一去年の晩秋の頃か。まだ母も元気で生きていた頃だ。
 子猫はそのままシートごと奥の父母たちが寝ていた部屋に運んで、シートから引き離し、そこに閉じ込めて飼うことにしたのだ。そのぐらいまだ小さい猫だった。生後三か月にもなっていなかっただろう。
 当初は、物陰に隠れて全く姿も見せず、餌だけは食べてその裏の部屋でシーツや衣類の積み重なった隙間でじっとこちらの様子をうかがうだけだった。
 しかし、いつしかまず父や母、人間にも慣れて来て、やがては部屋から出してもこの家に戻ってくるようになり、我家の一員となった。それがこの黒ちん、今は黒母さんと呼ばれている猫だ。
 
 その金目の黒猫、当初はオスかメスかもわからなかったが、雌と判明、いつの間にか妊娠して昨年の秋には一度大きなお腹していた。
 が、まだ母体が幼かったのか、そのときは流産してしまい、しばらくの間当人も悲しそうに嘆き悲しんでいた。
 そして今年の春また妊娠したらしくしだいにお腹も大きくなってきて、二階の広間のソファーの上に置いた箱の中で、まずキジ模様の男の子を産んだ。5月27日の夕刻のことだった。
 その後、もっと生まれてくるかと待っていてもそれきりで、初産でもあり一匹だけかと思いわれ、我もその晩はすぐに寝た。翌朝、箱の中をのぞいてみると、白地に黒い模様が背中からかかった猫が新たにおっぱい吸っていてびっくりした。
 それが女の子で、母となった黒ちん、=黒母さんは、誰にも教わることないのに一人で生んだ二匹の子をしっかり面倒を見ていて感心させられた。
 当初の数日は、箱の中で子猫共々大人しく誕生の至福のときを満喫していたものの、元々が野良猫で警戒心が強い黒母さんは、子猫を守ろう、隠そうという気持ちが出て来て、目を離した隙に一匹づつ咥えてこのモノが溢れて倉庫化している家のどこかに子供たちを隠してしまうことが何度もあった。
 母猫の後を追いかけて子猫をすぐ「発見」できたときもあったが、ときに黒母さん自体が子猫をどこに隠したか忘れてしまったようで、一日以上子猫は放擲されてしまい我も不眠不休で耳をすませて、わずかな鳴き声を頼りにガラクタ置き場の底の底に落ちてしまい、親猫も入れなくなってしまったところから二匹を救出したこともあった。
 父がやたら子猫たちを見たがり触ったりするので、それが嫌で父任せにしていると、黒母さんはまた子猫を咥えてどこかに隠してしまう。
 結局、玄関わきの母が最期まで過ごした小部屋に鍵をつけて、父が勝手に入れぬようにして子猫たちはその部屋の中の段ボール箱で、目が開き、自らも箱から出られるぐらいまでに育つことができた。

二匹の子猫たちがいた2017年の夏・三か月間・続き2017年09月01日 03時33分14秒

生後一か月過ぎた頃の二匹
★イサクの奉献のごとくに

 子猫たちは日々母猫のおっぱいを飲みすくすく育った。
 やがて箱から自力で抜け出し、狭い室内を自由に駆け回るようになる。二匹でじゃれ合い、取っ組み合いし、窓辺のカーテンにまでぶら下がる元気さ。
 結局、その部屋の中だけでは収まらず、戸は開け放たれ家の中を子猫たちは自由に走り回るようになった。その都度、母猫は心配して鳴きながら叱って追いかけたが、頑是ない子供たちは聴く耳など持たず二匹で好奇心のおもむくまま、ときに二階にまで駆け上がって植木鉢を倒したりイタズラし放題であった。
 餌も母の食べるているのに興味を示しだし、やがては母以上にがつがつと時に吐くほど大量に食べるようになった。しかし、いちばんは最愛の母のおっぱいで、二人は腹いっぱいでも最後は母の腹に顔をつっこみ、まだ出てるのかわからないが、乳首を咥えてご満悦であった。
 体の大きさも最期は小柄な黒母さんとさほど変わらないほどに大きくなってきた。

 生まれてから二か月は、それでも家の中だけで彼らの行動は満足していた。
 が、8月の頭になると、ついに台所にある親猫たちが出入りしている猫ドアの存在に気がつき、まず縞のオス猫が、外に出始めた。真似て警戒心の強い白黒のメスも外に出て、当初は母猫が心配しニャーニャー鳴いて呼べばすぐ戻って来たが、そのうち家の中よりも外の方が日陰や土があるので涼しいからか、外出が多くなってきた。
 それでも遊び飽きると自らその猫ドアから帰って来たし、長時間戻らないときはいつも母猫が一緒で、黒母さんは常に子猫たちのことを心配し目を離さずにいてくれたから我も任せて安心できた。

ではいったいいつから子猫たちはいなくなったのか。
 
 我の小銭入れ紛失騒動は先に書いた。の土曜日26日の朝、彼らがいたのか今は思い出せない。だが、たぶんいたことは間違いない。
 サマークリスマスから戻ってきて猫の餌が入ってる皿をみたらほぼ空になっていたという記憶はある。ただ彼らの姿はなかった。それは間違いない。猫だからこそ夜は出かけることが多い。
 それから我はパニック状態で、コーフンして頭に血が上り、正直、猫たちのことはまったく失念していた。
 
 翌朝27日、早朝からあちこちに出向いたり電話かけた挙句、女友達と電話で話したら、その小銭入れは会場となった吉祥寺のスタジオに置き忘れた可能性が高いとわかってきて、スタジオに来ていた友人に連絡したら何のことはないそこにあったのである。
 そして、迷ったが、当初の予定通りに山梨へ行くことにして、留守の間用に、猫たちにたっぷり餌を出しておいた。本当は出かけるまで子猫たちが帰って来るのを待っていたが、彼らの姿はどこにも見えなかったのだ。母猫はいたのかわからない。

 そして、向うに一泊して、28日の夕方早めにウチに戻った。出しておいた猫の餌を見たら、少しは減っているけれど、かなり残されている。
 そこで初めて不安がわいてきた。子猫たちが食べればもっとキレイに残さず食べ尽くしてあるはずなのだ。彼らは育ち盛りでものすごくお腹を空かせているはずだから。
 それがかなり残っているということは、子猫は昨日からこの家には戻って来ていないと。

 それからただひたすら子猫が戻るのを待っていた。母猫の姿はあり、彼女も子猫がいないことを心配してひたすらあちこち探しまわっているようだった。夜通し遠くの方からでも彼女が子猫を呼ぶ鳴き声が聞こえていた。
 そしてまた週末が来近づき月末ともなった。

 一晩か一日中、二日にわたって帰ってこないこともこのところあった。一匹だけ姿が見えないで心配しこともあった。が、たいがい不在の時は母猫もいないので一緒だとわかっていたし、黒母さんだけ戻ってきていて子猫がいなければ彼女は必ず探して連れ戻して来ていた。
 今回も黒母さんは今も必死に探し続け、飼い主の顔を見ては何か言いたげに訴えるように鳴いている。要するに子猫たちがみつからないので困っているのだ。
 二匹はかなりサイズはまだ大きいけれど市販の小鈴のついた市販の首輪をつけている。前は、姿が見えなくてもその鈴の音が隣近所から聞こえていたので、近くにいることがわかった。
 ただ二匹とも一度はどこかで首を失くして帰ってきたりして、その都度、我はまた新たに首輪を百円ショップで買ってきて外れないようつけ直した。

 子猫たちがこの近所にいるのならばその鈴の音がするはずだし、何よりあれだけ黒母さんが、必死にどこにいるの?と鳴きながら呼んで探しているのだ。
 いったい二匹一緒に、神隠しにあったようで不思議でならない。
 だいぶ大きくなってきてはいたが、まだ子猫だと一目でわかるし、親に比べれば人懐こく警戒心もあまりない猫たちだから、どこかで迷子になっていればカワイイと思い拾う人もいるだろう。しかしならばどうして同時に二匹とも消えてしまうのか。
 ウチで二匹とも飼うつもりは実のところなく、猫を偏愛する父は一匹でも残したいとずっと言っていた。知り合いの猫好きの友人たちにもあたっていたところで、誰かに飼われて育ててもらっているなら諦めもつくし願っていたことだから良しとしよう。
 しかし、突然我が「発狂」している間に、二匹は忽然と姿を消してしまった。いったい何でこんなことが起きるのだろう。何がいけなかったのか。

 子猫たちのそれぞれの性格やどれほど可愛く賢いか書こうと思えばいくらでも書ける。が、この三か月間のことを思い出せば思い出すほど涙が出てきて、メガネがかすんで書くことが辛い。苦しい。よって書き残すことはできない。

 夢の中でも何度でも子猫たちが戻る夢を見ているし、探してみつける夢も繰り返し見ている。
 しかしこれもまた神の計らいなのだと思うしかない。
 小銭入れ騒動が決着し、子猫のことで今度は心配で心囚われていたとき、手元の聖書を開いたら偶然旧約のほぼ冒頭の部分、いわゆるイサクの燔祭される場面が目に入った。

 聖書を読んだことがある人はご存知かと思うが、ユダヤ民族の祖先というより、キリスト教信仰の祖である義人アブラハムの章がある。
 アブラハムは、神に約束されたカナンの地へ家族を引き連れ向かった。そして、年老いてからほぼ晩年になって、後継ぎとなる男の子を授かる。それがイサクで、それは不可能を可能とする神ヤハウェが彼ら老夫婦に与えたものであった。
 ところが、神はアブラハムを試みて、その息子イサクを燔祭の羊として捧げるように命ずるのである。
 当然のこと、彼は悩み迷い、苦しみ激しい葛藤があったはずだが、聖書にはそう命じられた父アブラハムの内心は何一つ記されていない。彼はただ命じられたまま、息子を連れて山に登り、父自ら息子を神に捧げる生贄として刀をとって殺そうとするのである。
 しかし、その刹那、神の使いが彼に呼びかけて中止とされ、イサクは殺されずにすむのである。神は、いかにアブラハムが神に従い畏れる者であるかをただ知りたかったのである。
 やっと授かった大切なひとり子さえも惜しまずに命じられたままアブラハムは止められなければ間違いなく捧げていたのだ。
 我は思う。おそらく彼の心中は、神から与えられた息子なのだから神がまたそれを奪い取り去られても仕方ないと覚悟していたのであろうと。与えるのも奪うのも全ては神の思いのまま、ときに気まぐれとも思えるのもまた窺い知れない計らいなのである。

 思えば、一昨年母がまだ元気で生きていた頃、まずキャラコが事故死し、その後に入れ替わる様に嘆き悲しむ我に新たな子猫が現れた。
 そしてその黒猫は成長し、一度の流産を経て、ようやく元気で賢い子猫を二匹授かった。子猫たちのおかげで、我は母の死をずいぶん癒されたし父も良い刺激となって呆け抑制に一定の効果はあったのではないのか。
 そして生まれてからちょうど三か月目となる頃、その雄雌二匹の兄妹たちは忽然と旅立ってしまった。昔話や童話に出てくるヘンゼルとグレーテル、チルチルとミチルたちのように。
 全ては神が計らい、与えてくれたものだ。ならばそれを奪うのもまた神の計らいであり、我はアブラハムのように畏れ従うしかない。

 今でもふらっと二匹で帰ってくることを望むが、二匹がどこかの家で飼われて大きくなって幸せに暮らしていくことをただ夢想する。
 猫には猫の人生があり、猫の幸せというものもある。今泣きながら思うのは、そういう運命だったんだなあということだ。
 そう仕方ないことだったんだ。どうしようもないことだったのだ。

季節の歩みが変わらぬように2017年09月01日 18時47分47秒

★今日から九月。突然季節は秋に変わった。

 今はまた雨が降り始めたが、今朝は朝からカラッと晴れて、ひんやりとした秋風が吹き、空は高く、まさに今日から秋となったことを強く感じた。月が新たになり、たった一日で、季節は夏から秋へ移ったのだ。
 新しい爽やかな季節に、憂鬱気分は少しだけ癒された。

 子猫たちがいなくなり今も、何でこんなことが!と憤るような気持ちと深い哀しみは続いている。ただただ情けなく泣きたい気持ちでいる。
 しかし、これが現実――生きていくということ。この情けなさとどうしようもなさを抱えて生きて行かねばならない。
 ならば問われるのは、いかに愛したか、誠実であったかだけであり、猫たちに対してもどうであったか自問している。悔やむのはもっと写真やビデオにその姿を残しておくべきであった。

 どんな夏であろうと必ず毎年夏は来て過ぎ去りそしてまた新たな秋が来る。そして秋もまた冬へと移り変わり、冬はまた春へと続いている。
 季節の歩みだけは絶対に変わらない。そして時は過ぎていく。人も街も変わり、去年の今ここにいた人が、あった店がもうそこには消えてしまっている。
 それが時が過ぎていくということ。やがて我も我の家も何もかも消え、そこにそんな人がいたことすら誰一人知らない時がやってくる。

 季節だけは変わらず繰り返していく。年年歳歳。その中で人はそれぞれの短い人生を生きて行かねばならない。
 ならば季節の歩みだけは変わらぬように、我もまたどんな季節が来ようともどんな時であろうともしっかり最期のときまで生きて行かねばならない。嬉しいことも哀しいことも辛いことも全てを受け容れて。

 それこそが人生、生きていくということ。この情けなさとどうしようもなさを抱えながらしっかりそれと向き合い生きていく。
 ああ、今は溜息しか出てこないが。涙も止まらないが。

もう何も怖れないと言いたいけれども2017年09月02日 23時26分11秒

★危機を乗り越え新たなステージへ進みたい

 9月に入った昨日から突然季節は秋へと変わり、いきなり涼しくなった。過ごしやすいどころか、今日など寒いぐらいで、父は無事ショートステイに行かせたが、今朝は着ていくものに戸惑うばかりであった。これで体調崩さなければ良いのだが。

 昨日まで記した今回の我の「発狂」的事態、精神的危機は、すべて自らの愚かさが招いたというしかないのだが、そのことで我は何を得たのか学んだのか。
 もうこれで何が起きようと怖れない、動じないとか、何を突然失おうと奪われようとも平気な覚悟が出来たと言えればよいのだが、何かを失う恐怖はますますもって大きくなってきている。

 しかしそれが当然起きることだと予め想定して、デフォルト値に設定しておけば、晴れの日の後に曇りや雨の日が来るように、それはそれで当然起こるべき仕方ない事態だと受けとめることは可能だろう。
 基本が知恵足らずのバカなのだから、これからもまた性懲りなくバカなことを考えなしゆえ繰り返すことであろう。
 それをその都度悩み騒いでパニック起こしてもしょうがあるまい。そもそもあれもこれも完全にうまくやろうとか失敗なくやろうと考えるほうがおこがましいのである。

 つまるところ人生とはこれから失っていくしかないわけで、最後の最後は自らの命もゼロとなって、抱えていたものすべてを放棄して死んでいくのだと気がつく。
 昨今話題の言葉で、よく耳にする断捨離という仏教用語は、要するに死んだ後、周りの人たちに迷惑をかけないように、生前から抱えているものをどんどん捨てて減らしていくということでしかなく、それを意識し自ら率先するかしないかの違いでしかない。
 そう、人は嫌だって失っていくのだから何でそんなことにわざわざ時間かけるのか理解に苦しむ。そこまで死後も良く思われたいと願うとしたら何という見栄っ張りか。
 そんなことよりも今を、人生をもっと楽しみ、災害ボランティアでもいい、障害ある人へのヘルパーでもいい、自分ではない誰かのために尽くすべきではないのか。
 この世に生を受け生まれて来た者は人であれ動物であれ、必ずそこに意味と役割がある。
 愚かな我のように自ら混乱の極みに陥るようなバカであってもほんの少しは誰かのために役立っているのもしれない。そう、どれほど非道な人間でもその人がいることで、何かが変わり、社会は互いに少しづつでも影響しあって動いているのに違いない。
 人の行為に全く無駄なことはないし、すべてこの世にあるものはそこに存在の意義と価値がある。

 嗤われたことだろうが、我が今回の一連の騒動、誰かに伝えようと思ったわけではないが、書き記したことで気がずいぶん楽になった。ようやく正気に戻り、今回の危機を乗り越えた気がしている。また鬱病にかかり、すべてが停滞するところだった。あるいは自暴自棄になって誰か他者を傷つけたり事故をしでかしていたかもしれない。

 季節は爽やかな過ごしやすい秋へと移り変わった。さあ、これからまた辛く厳しい寒さの冬が来るまで、計画立てて、精力的に歩を進めていこう。幸い父はまた持ち直してくれている。有難いことだ。
 ならばできるときにすべきことを少しでも少しづつでもやっていく。また新たな猫がやってくるかもしれない。全ては神の計らい、御心のままなのだ。ネグレクトしても抗っても仕方ない。

 晩年の漱石先生が好んで揮毫していた言葉、則天去私。我もまたようやくその意味がわかってきた。そのうえで、天、=神と語らい問いかけていこう。どうかもうこれ以上我から奪わないでくださいと。失う哀しみ、辛さにこの弱き心はもう耐えられませんと。

ただ溜息つくだけしか2017年09月05日 22時58分26秒

★まさに内憂外患、家の中も外も

 間もなく母の命日が来る。早いもので母があっけなく死んでもう一年たとうとしている。
 ほんとうはお寺に出向いて一周忌の法要をすべきところなのだが、父の体調と、情けないが金がなくて正式に親族を招いてそれをする余裕が全くなく、今回は命日に墓参りだけでも行けたらと願う次第だ。
 また母もそうしたことに対してはドライかつ無関心な人だったし、あの世からこちらの状況も見ていてくれていると思うので、きっと赦してくれると信ずる。

 そう、このところ出費がかさんで、父が通っているデイサービス二か所の利用代だけで、毎月8万円を超すようになってしまい、それは父のとぼしい年金の半額を超してしまい、もうどうにも首が回らなくなった。
 我がどこかバイトに行き、いくらかでも稼いで補填するしかないのだが、現状ではこちらの都合にあうような調整のきく仕事があるのかどうか。今はなけなしの貯金を取り崩して補填している。
 何しろ父の体調も安定せず、日々彼の調子を見ながらショートステイに行かせているのだ。熱が出たり血圧が高くなって不調を訴えれば、我にすぐ連絡があり、迎えに行かねばならない。
 ならばつまるところ家で待機的にできる仕事、ネットでの古本稼業しかないわけで、それも父が家にいる時は目が離せないので、あくまでも介護施設に行っている間だけしか作業はできない。
 もっと商売に励まねば。

 先日来の騒動の顛末は記した。さあ、これから気持ちを切り替えて、と誓ったものの、今もまだやる気は戻らず、ただただ溜め息つくことしかできないような状況が続いている。
 しかし、まだ幸い本当のお終い、破滅的状況には至っていないわけで、何とか父がまだ生きて意識ある間に、彼の意思も含めて確認できることや事前に準備できることはきちんとさせ少しでも果たしておきたいと願う。

 今の気分はただただ情けなく泣きたいような気持ちだが、まだ本当の終わりでないならば頑張るしかないし、日々何とかやっていくしかない。
 そう泣いて、あるいは法要で母が生き返るならば我は有り金はたいてどんなことでもしよう。我が命を分け与えてもいい。
 しかしもう全ては返らない。失ったものは失ったものとして全て受け容れていかねばならない。そして生きている者はそれでも最後の日まで精いっぱい生きていかねばならない。

 ただそれは辛く苦しいことだ。虚しいことでもある。ただ日々何とかやり過ごし取り繕うだけで仕方ないのかもしれない。そう、我は一人で父を、犬猫たちを背負っているのだから。すへてが中途半端でも致し方ないと思う。

我をこれ以上こころみにあわすことなかれ2017年09月07日 22時28分11秒

★いったい何が起きているのか

 この数日、頭と心痛めることがあってどうにもまたブログ書けなかった。書き出しても頭痛がして、最後までまとめられずよって送信できずにいた。

 失踪した子猫たちのことで、父も体調おかしくしていたこともあったが、それとは別に、子猫に関し情報があって、それに振り回されていた。どうにも気持ちが定まらず我が心ながら制御できないでいた。


 先に記したように、先月26日頃、我が不始末からパニック障害を起こしていたら、うちでこの春生まれた二匹の生後三か月の子猫たちが行方不明となってしまった。
 当初は二匹揃ってのことだから自分たちでやがて戻ってくると考えていたし、利口な母猫がきっと探して連れ戻すと信じていた。
 が、母猫も必死に鳴きながら近所を何日も探したものの彼らの姿はなく、ご近所の猫好きおばさん連にも訊き、いちおう警察とか関連施設にも届けはしたが、何の情報もないまま10日も過ぎた。
 まさに忽然と姿を消してしまったわけで、神隠しにあったように二匹揃って!?誰かに拾われ連れて行かれたのかもと、あれこれ考えても何もわからずどうすることもできないでいた。
 母の代から親しくして頂いている近くに住む猫好きの老婦人とも会う都度、気をつけて探しているけど子猫たちはまったく見かけない、それにしても二匹揃って突然消えるのは実に不思議だと互いに首をひねるばかりであった。
 先のブログに書いた通り、できるだけのことはしたわけで、後は連絡を待ちつつ、この事態を受け容れるしかなく、残念だが、彼らはそういう運命やったんかなあ、と泣きたいような気持で諦観するしかなかった。

 ところが、その老夫人から、5日の朝、犬の散歩のときに声かけられ、子猫たちは夜、お宅の左隣の家の庭で遊んでいると、その家の人が夜ごと見たと言ってるという情報がもたらされた。
 そのウチの左隣の家は、かなり敷地も広く、左隣といっても玄関は、その老婦人の家と道を挟んで向き合っている。ウチとはブロック塀で左裏側が隣接しているだけで、隣といっても直の隣家ではないので普段はあまり交渉はなかった。それでも庭も広いからウチの猫たちはそこで確かによくうろついてはいた。
 老婦人が、その家、Jさんの奥さんに子猫のことを尋ねてみたら、その家の幼児のための滑り台の玩具に上って子猫たちは二匹で遊んでいると言う。昨晩は来なかったが一昨日の晩は見たと。子猫たちは昼間は、その家の物置の床下で眠っているとも。

 その情報を聞いて、我はまず嬉しいより複雑な気持ちになった。それはいろいろ疑念がわいてきたからだ。
 子猫たちはその家の庭に入り遊んでいたこともあったからありえない話ではない。しかし、ならば何故我が家に戻ってこないのか。それに餌はいったいどうしているのか。かれこれ10日もウチに戻ってきていないのだ。誰かがどこかで餌を与えているとしか考えられない。
 その家の人に老婦人が確認したところ、居つくと困るから餌などはやっていないとのこと。ならばこの近所のどこで誰がやってるのだろう。しかし、界隈の猫好きのおばさん連中には子猫たちが不明のことは伝えたが、誰も餌をやったどころか姿さえも見ていないと言っているのだ。
 だいいち、隣にいるのなら我も見かけもしたはずだし、親猫だって気づかないわけがない。そもそも何でウチに帰ってこないのか。母猫は帰ってきているのに。

 父にこの件を話し子猫は近くにいたらしい、とぬか喜びさせると、また夜中でも隣家に入り込んでひと騒動起こす。父には秘密にして、我はまずその左隣のJさん宅へ、さっそく昼前に手土産抱えて話を訊きに行った。
 老婦人が話してくれたのと同様のことをお聞きし、また夜中でも子猫たちが庭に来ているのがわかったら、迎えに行くので何時でもかまわないから、私の携帯に電話してくださいと伝えて、番号を伝えてお願いした。
 それから三日が過ぎた。が、子猫たちは来ていないらしく、連絡はないし、我も家にいる時は始終注意して隣家の庭の様子を窺っているが、まったくその気配はない。
 実は子猫たちの首輪には小さな鈴がついていて、動けば小さい音だがその音がするはずだ。我も彼らがいなくなってから音楽など一切鳴らさず、どこか外から鈴の音がしないか常に寝ながらも耳を澄ませている。Jさんのお話では子猫たちは首輪をしていたとのこと。訊いた模様も間違いなく二匹ともウチの子猫であった。

 子猫たちは隣家に来ていると聞いて、二人して元気で生きてることがわかって安心もした。が、ともかく一度この目で確認しないことには半信半疑でもあった。
 この間の経緯をあれこれ考え、あれだけ母猫のクロちんが懸命にあちこち探しまわってもみつからなかったのだから、おそらく当初はかなり遠くまで迷子になっていて、最近になってこの近くまで戻って来たのかもと想像した。
 ならば母猫が彼らを連れて皆でウチに戻ってくるかもしれないと。じっさい一昨日の晩は、母猫も一晩戻らず、これは子猫たちと出会い一緒にいるのかもと期待した。やがて子猫を引き連れ帰って来るかもと。
 しかし、子猫の姿はその後もないまま、母猫は昨日から天気も悪いこともあるが、終日家でのんびり眠ってばかりいる。子猫のところに行くどころか気にかけたり探している気配すらない。

 我は隣家の庭にいつ子猫たちが現れるか気が気でなく、このところ携帯がいつ鳴るかとおちおち枕高くして眠れなかった。今も常に外の様子に耳を澄ませている。
 自分でもどうかしているとも思う。たかが猫なのである。猫には猫の考えがあるのかもしれないし、帰ってくるときは自ら帰って来るだろう。ならばあれこれ心配したり、気に病むなんてバカらしい。もっともっと大事なやるべきことが山積しているではないか。

 それにしてもいったい何が起きているのだろうか。辛いのはこうした何もわからない状況で、待つこと以外どうすることもできないのが本当に困る。
 どれほど大変でも自分で動いて打開策がみつかるならどんなに救いか。北朝の拉致問題の事件のご家族の方々の心中、拙宅の猫に比べれば非常に失礼だが、皆さんの苦しみはどれほどのものかと今さらながら思う。
 何もわからない、何も見えない、何もできないことこそが一番苦しい。ただ待つしかないことがこんなに辛いとは。そう、猫のことだからではない。いったい何が起きたのか、何が今起きているのか、先のことも含めて何もわからない、よって何もできないということこそが一番辛く苦しい。

 今さらながら神に祈る。この弱き心の我を、これ以上試みにあわせたもうことなかれと。
 まあ、そもそもすべては我の自業自得、因果応報だと思うしかないのだけれど。
 それにつけてもいったい子猫たちはどこにいるのか。何が彼らに起きているのか。何でこんなことが起こるのか。明日で、子猫たちがいつの間にか消えて二週間となろう。
 
 そして明日は母の命日だ。

母が死んで早や一年、やっと一年2017年09月08日 23時41分07秒

★父を連れて今日は町田へ墓参りだけは行ってきた。

 今日9月8日は、我が母の命日であった。
 母は、昨年の9月8日未明、末期癌で自宅で病臥していたところ容態が急変し我の手の中で息をひきとった。
 86歳という享年に文句は言えないが、母の母は百歳近くまで生きていたし、若い時から何の病気もせず八十過ぎても元気に日々動きまわっていた人だったので、癌にさえ侵されなければ九十過ぎまで生きていたはずだと今も思う。
 焼かれた骨はしっかり形も残っていてずっしり重くこんなに頑健な人だったのにとその重さがただ哀しかった。

 そしてそれから今日で一年。早やもう一年かと思う気もするが、それよりもやっと一年、何とか過ぎ終えたという感慨のほうが強い。それは父をこの一年どうにか死なさずにこれたという意味でだ。
 母、つまり彼にとって妻亡きあとその後を追うようにして死ぬ夫はかなりいると訊く。まして父は母より五つも年上で、この秋93歳となる。このところ体調崩すことも多く、この一年だけでも何度も急患扱いでかかりつけの立川の病院に連れて行ってあれこれ詳しく検査もされた。
 我としては母が先に逝き、残された我と父の親子二人だけの生活となったからこそ、何としてもまずこの母の命日までの一年、いわゆる一周忌まではまず父を死なさず生かしていくと目標を定めていたからその思いは成ったわけで、今はほっとしてやれやれという感慨がわいている。そう、何とかこの一年間、父を生かしておくことができた。この一年本当に辛く大変だったが亡き母にその報告が出来た。

 ただ一方、では来年の今日まではどうかと考えると、希望的観測は捨てて冷静に見れば、今の父の様子ではかなり難しいと断言せざる得ない。
 この一年、呆けもだが、全身の衰弱が進み、ほとんど歩けなく、そして食べられなく、さらには眠ってばかりとなってしまったからもう墓参りはまず無理だというだけでなく、存命してても介護病院施設でほとんど意識もなく死期を待つだけの身となっている可能性が高い。
 父本人も我もこの自宅で母のときと同じくその最期のときを迎えさせたいと願い考えるが、意識もなく寝たきりとなった大男を、息子が一人で看護できるはずもなく、このまま衰弱が進めば早晩、そういう人専用の病院施設に入れるしか手はなくなろう。
 それはこれ以上老衰が進めばの話であり、今のままならばさらにまた一年歳とれば、そのぶん衰弱は確実に進んでいく。

 我としては今さら父が筋トレなどしてくれるデイケア的施設に通うことはかなわないのだから、ショートステイに行ってる日以外、家にいるときはできるだけ家の中でも手すりバーに掴まって自力で歩くトレーニングなどさせようと思っている。
 ともかくこれ以上動けなくなってしまえば、寝たきりとなってしまうこと間違いない。いずれにせよ介護施設内で転倒したりしてそのまま寝たきりとなる可能性もすごく高い。
 今はその瀬戸際というか、我と父にとって正念場が来たという思いでいる。今ならまだギリギリで何とか少しは戻せるかもしれない。
 
 あと一年、来年の9月8日まで父を無事に生かせておけるか。それはものすごく難しい課題だとはっきり認識している。が、このままなし崩し的に、老化が進むのをみすみす放擲してしまえば、まず苦労するのは我であり、その先に来る父の死が早まるだけでしかない。

 お騒がせしたが、子猫たちのことはもう諦めもついた。賢くて飛び切り可愛い子猫たちに何があったのか、結局誰にもわからないままだろう。
 我にできることはとりあえず精いっぱいやったと思いたいし、彼らはそういう「運命」だったのだと思うしかない。それは痛恨というほどに残念だがそこにも人智が及ばぬ理由がまたあるのであろう。
 もっと大人になって野良猫的にまた戻ってくるかもしれないし、先のことはわからないからこそ、悲観的でなく楽観して希望は持ち続けたい。
 
 そう、気持ちを今日から切り替えて、ともかく今はまず父のことを最優先に、またこの先一年間、来年の母の命日まで、父をこの家で生かしておくべく我が人生を定めたい。今日母の墓前に泣きながら誓ってきた。

 今日の墓参りのことは、後ほど書き記しておきたい。

母のいないこの一年をふり返って2017年09月09日 07時08分51秒

★生涯でいちばん辛く苦しかったこの一年。

 昨日も書いたが、昨日8日の命日で母の死から一年、何の法要もしなかったが一周忌が過ぎた。ようやくこれで母を亡き人として「過去」へと気持ちを移行することができるような気がしている。
 そう、何とかこの一年、母不在でも我も父も生き延びることができた。今、振り返ってみて、自分の人生で最大の危機、苦しく大変な一年であったと思える。それが過ぎ去り終えた節目としての昨日の命日であった。

 昨年、2016年の年明けから肥大し始めた腹部の癌のため母の体調はしだいに異変が出て来たのだが、春先に応急的手術もし、以後急激に痩せて衰弱も進み二度の救急搬送後、寝たきり状態と化して初夏から我家での在宅看護となった。一人息子である我がほぼ付きりで介護していた。その間のことはこのブログに記してある。
 何とか再び少しでも元気に回復する奇跡を願ったが、けっきょくそれから僅か二か月足らずで骨と皮の姿となって(腹部や手足には浮腫みも出ていたが)、昨年の昨日の早暁に母は逝ったのだ。まさに精根尽き果てた感があった。
 我が付ききりで24時間体制で介護していた期間は長く感じ、不眠不休ですごく辛く大変だったとそのときは思っていたが、今振り返ればその辛さは何も思い出せない。真の地獄、苦しさは、病み弱っていく母を介護していたときではなく、母の死後の半年であったと思い知った。

 母は死ぬ二か月前からほとんど寝たきりで自力ではほぼ何もできないような状態となってしまったが、頭だけは常にはっきりしていて、ほんとの最後の頃は声出すのも辛そうだったが、常に話しかけ返事もあった。
 家事も含めすべてのことは我がやっていたが、じっさいの司令塔、我家の管理担当は相変わらず母であり、病臥しても我にわからない不明なことは母に訊き、何でも相談し指示を仰いでいた。
 母は我にとって唯一のパートナーであり、身体の一部のような存在であった。何しろ半世紀以上も記憶にある限り傍らに常にいた人だったのだから。
 その人が昨年の9月8日を境に突然消えてしまい、冷たい骸に、焼かれて骨と化してしまった。もういくら語りかけても何も返事は返ってこない。
 介護に疲れへとへとだった当初は、今思うと母が死んでほっとしたような気持ちもあった。しかし、どんなに大変であろうと生きているのと死んだのとは天と地、海と空程にも違う解離したものであって、どんな状態であろうとももう少し生きていて傍らにいてほしかったと今でも望む。
 死が辛いのは、もう死者には何もできないということにほかならず、困ったとき迷うとき、日々遺影に語りかけても写真の母は柔和に微笑むばかりで何一つ我に返事はない。夢の中でももう現れない。
 頑固で身勝手で偏狭なうえに呆けて動けずともかく手のかかる父と二人だけの生活となって、当初は本当にまいった。父を殺して我もこの家に火をつけて死のうと真剣に何度も考えもした。母がいないのなら全ては無意味ですべてを終わらそうかと考えもした。
 これこそが真の地獄とようやく気がついた。

 母の死んで年内数か月は、僅かな資産の継承のための煩雑な手続きや四十九日、納骨時に配布する追悼文の作成に追われてともかく慌ただしく母の死の実感はあまりなかった。淋しさもそれほどではなかった。
 が、年もあけて、父と二人だけの正月を過ぎた頃からその「淋しさ」、母はもうこの世のどこにもいないという「現実」がじわじわ効いてきて、我はPTSD 的鬱状態に陥ってしまった。もう何もやる気が起きなく、全ては色と意味を失い無価値に思え何もかもどうでもよくなってしまった。

 死後半年が過ぎ、今年の春先頃から老犬ブラ彦の天寿を全うできた老衰死と子猫たち新たな命の誕生もあり、一度は枯れ果てたと思えた我の気持ちもやっと戻ってきた。そして音楽に関わる活動も再開し始めた。
 そして今、その死から一年が過ぎて、ようやくその母の死を過去のものへと、過ぎたこととして気持ちの中でも処理できるような気がしている。

 それでも今年の大型連休の後の頃は、精神的にかなり落ち込んでいた。去年のその時期、我は母と一泊ながら父祖の地、谷中村へと出かけていたのだ。
 母も既に入退院を繰り返していたが、そのときは今思うと奇跡的に体調も良く、迎えてくれた親戚たちも一様に驚き安堵していた。緑鮮やかな渡良瀬川の蘆原を誰の助けも借りず自力で元気に歩いていたのだ。
 今年もその季節が再び来て、去年は元気に小旅行にも行けた人がもう死んでどこにもいないという事実に、ただ打ちのめされた。共に同行した愛犬ブラ彦ももう死んでしまったのだ。

 この一年はそんな風にして、その一年前はまだ母が生きてこの世にいたことを思い出しては新たな哀しみに襲われるということを繰り返していた。
 そして一年が過ぎ、また季節は繰り返すが、母の死と母の生きていた頃はどんどん後ろへと、過去のこととして遠ざかっていくように思える。
 しかし、哀しみや淋しさは癒えて消えたかというとそれは全然変わらない。今も母のことをこうして書き記すときは涙がいつも溢れ出てきてしまうし、母のいない現実にどれほど慣れたとしてもこの悲しみは不変である。

 先日も近くのスーパーで、母に似た後姿の老婦人を見かけ、突然涙が出てきてしまい困り果てた。背格好も違うが、髪型と被っている帽子が母のそれによく似ていたのだ。
 当然母であるはずはないのだから前に回ってお顔を確認などはしなかった。が、母が今も元気に生きていたならばこうして買い物にも来れたはずだと思い、突然母を思い出したことで涙が止まらなかった。
 スーパーで買い物しながら顔をくしゃくしゃにして涙を堪えているそんな中年男を見たら人は嗤い不審に思うであろう。しかしどうしようもなかった。
 そんな風にしてこれからもまたまず一年生きて行かねばならない。

 母の死と母が生きていた頃はどんどん過去へと遠ざかっていく。やがて母を知る人たち、親しくしてくれた人たちも皆が死に、すべて忘れ去られ消えてしまうだろう。が、我がこの世にある間は、母のことはこの悲しみと淋しさと共に永遠に抱えていく。
 そしてこうも思う。我が生きている限り、母は我が内でいつまでも生き続けていくと。

さあ、ここから戻していく2017年09月10日 21時51分25秒

★一つひとつ少しでも

 猫のことも父のこともそれはそれとして、そのことで人生を停めるわけにもいかないし、停滞の理由にはできやしない。
 つらいことや落ち込むこと、打ちのめされるようなことはこれからだっていくらでも起きるだろうし、備えることも避けることもできやしない。
 ただ日照りの夏が来た農民のようにおろおろうろたえるだけだ。

 いろいろご心配おかけしたかもしれないが、今は、ようやく気持ちも戻って来て、さあ、これから少しでも少しづつでも戻していこうという決意でいる。
 巻き返しを図ると言いたいが、とても「巻き返し」なんてもはやできるはずもなく、せめてちょっと前までの状態、母がまだ元気で生きていて、この家全体が機能し、動いていたような状況に近付けたらと願う。
 それは父がまだもう少しまともで、自ら動けていた状態の頃でもある。

 今のまま、このどうしようもない停滞、衰退、ネグレクト状況が続けば、父は寝たきりとなりデイサービスにも行けなくなるだろうし、この家のゴミ屋敷度はさらに高まりさらに足の踏み場もなくなり誰も来ることも呼ぶこともできなくなろう。
 最後は父と共に我も死に、その際はこの家に火をつけるか、そうしなくても死後数週間たった親子が発見され、新聞やテレビで騒がれるだけだろう。
 
 そうならないためにも少しでも戻していく。少しでもきちんとしていく。生活を人生を立て直していく。
 ハメツや最期が迫ってきているのに、それをみすみす安閑と待ち受けるバカはいない。無駄なあがきかもしれないが、ともかく少しでも戻していきたい。それしか救いはない。

 そう大変じゃない人生なんてどこにもない。まして、我は自業自得、長い間遊びほうけたそのツケを払いつつ、まず父を看取り、その後も生きて行かねばならない。
 そのためにもまず一日一日、一つひとつ、少しでも元に、良かった頃今よりはるかにマシだった頃に戻すため努力していかねばらない。

まさしく、昔はものを思わざりけり2017年09月14日 22時15分55秒

★近況とこれからのことなど

 何も何一つ成すべきことはできなくても月日は過ぎ、季節は確実に変わっていく。雨ばかり続いた今年の夏だったが、このところ天気も安定し天高くカラッと爽やかな秋晴れの日が続いている。
 むろんまだ日中の陽射しは強く、日向に出ていれば汗ばむほどだが、朝晩はぐっと涼しくなって秋の虫たちがさかんに彼らの季節の訪れを知らせている。そう、気がつけばいつしか秋風が吹く9月も半ばとなってしまった。今年も残すは三か月半なのである。

 申し訳なくも思うがこの何日かブログ更新できなかった。特に何か忙しい用事があってのことではない。夜になると父がいる日も不在の日も晩飯を終えるともう眠くて起きていられず、ともかくいったん寝ようと寝てしまいパソコンに向かえないでいた。
 では、早朝から起きてそのとき書き出せば良いのだが、我が作業台にしている机に備えてある椅子に、突然子猫を失った母猫、黒ちんがほぼ日中はずっと眠っていることが多く、無理やり追い払って、というわけにもいかず古川柳ではないが、朝顔に釣瓶とられて、の気分でブログも書けなかったのだ。実は今だってかなり瞼が重い。※その母猫が可哀想というだけでなく、あまりじゃけんにするとその猫まで家出してしまうかもという怖れが我にはあるのだ。
 これも還暦となって故赤瀬川源平氏の言うところの「老人力」が我にもだいぶついてきたのかとも思う。それにアルコールが入ってることも大きい。

 このところの我の唯一の楽しみ、というか息抜きは、夕方の犬たちと散歩のとき、近くの公園のベンチで缶チューハイを呑むひとときだけで、ヨーカドーなどで買い物した帰りのときもあるし、コンビニで焼き鳥の類1本と缶のアルコールを買い求めては、日暮れ時ただぼんやり何も考えずにぼうっとするのである。※昨今の缶アルコール飲料は日本でも度数がやたら高くなってきているから、9度なんていうのもあって、我は酒に弱いくせにコストパフォーマンス重視で常に最高度を求めるから、一缶でも二缶分の度数なのですぐかなり酔っぱらってしまう。
 それから父の飯の支度したりして、我も落ち着いて飯などは食べず、おかずだけつまみながらお湯割りなどをちびちび少し吞んで、父を寝かしつけたらもう今日はいいやと結局ほろ酔い気分のまま寝てしまうのだ。
そんな風にしてただ家事だけは何とかこなし、ブログさえも書かずに季節は秋へと移り変わり今月も半ばとなってしまっていた。

 そう、懸案のことも新しいことも何一つ腰据えて少しでもできないまま、日々の雑事だけこなすのでも手いっぱいで時間だけが過ぎていく。
ギターも弾かないし音楽もまったくかけない。テレビも観ないしパソコンでもYouTubeも観ない。本も拾った漫画雑誌はパラパラめくるが、聖書をベッドの中で手に取る以外、この一年以上、一冊も通しできちんと読んだことはない。ライブも自らが企画したり責任負うもの以外は出向くことはまずないし、そうした集い以外は人とも会わない。誰とも話さない。
 ただ唯一の息抜き的楽しみは、犬たちを侍らせて公園のベンチで缶チューハイを呑む夕暮れの一時だけで、今の我にはそれだけで十分なのである。
 たまにテレビで、海外の街歩きと称して、あちこちの教会建築、大聖堂が映し出され、その内部まで紹介されているのを見れば、我も生涯一度はその巨大なカテドラルの中で仰ぎ深く神を感じたいと願うものの、犬猫などを飼っている一人者は、彼らを置いてたとえ一週間でも海外に出ることはかなわず、もう若き日のように旅行は、国内でさえも無理だと諦める。せいぜい犬たちも車に乗せての山梨の倉庫へ出向く程度だ。
 そうそれもこれも仕方ないのである。若き日、ときに一か月近くも家を空けて自由にあちこち放浪できたのも、家のことを託せる父母たちが元気でいたからでのことだった。彼らが老いてしまい、まず母が逝き、父もこんなに手がかかるようになってしまえば、父と我はイーチワン、他に誰もいないのだから、父をショートに預けたとしても一泊二日程度しか家を空けられない。ましてウチにはペットというより動物家族もいるのである。
 彼らが一匹もいなければ父を施設に預けて自由にどこへでも行けるではないかというご意見もあろう。しかし、父以外の肉親、家族が一人もいない孤独な者としては、その動物たちがいて、我の淋しさ、空疎な心はかろうじて埋められている。
 彼らの「存在」と旅行に出られる「自由」を計りにかければ、彼らがいないことのほうが考えられないし、今いる彼らがやがて全員いなくなったとしてもまた新たに補充するはずだと思う。
 旅は一時の気休めや気分転換には間違いなくなる。が、それを「日常」にできないからこそそこに価値があり、今ある現実、日常そのものに対しては旅はどうすることもできない。その日常の空漠さ、淋しさを埋めてくれるものは、妻子のいない我には動物たちだけであって、それは父にとって猫たち、我にとって犬なのである。彼らがいなくなること、いない人生は考えられない。
 誰にも愛されなかった難多き孤独な男でさえも、求め愛し慕ってくれるは犬たちだけなのである。

 さておき、だらだらここまで書いたが、ここまでは前書きで、この後からが本意、本筋なのだが、さらに長くなることと、瞼が重くなってきたのでいったん寝て明日朝書き足すことにしていく。