今年もよろしくお願いします。2019年01月01日 09時24分54秒

★すべてが終わり始まる年に

 新年2019年となった。年が明けるたびに、毎年今年こそは、と誓い、気持ち新たに頑張ろうと思うのだが、けっきょく毎度のことながら、あたふたと日々は過ぎ、季節や時間の流れに追いついていけないまま月日は流れまたあっという間に年末となってしまう。
 毎年そんなことを繰り返して、世間ではもう仕事は引退世代、老人世代の入り口となってしまった。気持ちだけは十代の頃と何も変わらないのだから、まさに浦島太郎的展開と言えよう。いやはやまったく、何てこった、である。

 こうして何もできないままさらに年老いて、いつしか病や呆けに倒れて死んでいくのかもしれないが、幸い周囲の、少し先の世代の方たちを見る限り、まだもう少し元気でたぶんあと10年は頑張れると思えるし時間も残されているような気がする。※癌など煩わなければの話だが。
 欲望も含めて、様々な思いや希望、願望はまだたくさんあるが、つまるところそれらは十分の一も果たせずにいつしか命のリミット、タイム期限が来て嫌でもこの世からオサラバするのだと見えて来た。
 結局それが人生というもので、おそらく誰もが自らの思い通りにならないまま、思いを残して死んでいくのだと思える。そしてそれは仕方ないことなのだと。
 だからこそ、我のように欲深い人間は、毎年一年が終わる度に忸怩たる思いで焦り悔い、ときに嘆き、絶望的な情けない気分に囚われていた。
 が、今年はいつもとはちょっと違う。先に記したが、やっと何年も続いたとことん悪い状態から脱けだしてきたという感じがしているし、以前は見えなかったこと、本当に大切なモノは何かはっきりわかってきたことも大きい。
 そう、若い時は気づかなくとも、歳とってこそわかることや見えることは確かにあるのだと知った。

 若い頃はともかく何であれ、たくさんあれこれいっぱいを望み、あれもこれもと手を出してまさに何でも見てやろう、やってみようととことん欲深かった我だが、もう今は、食べ物も含めて、本当に良いもの、安全なもの、確かな本物があればそれは少しでも良いのだと思えてきた。
 昔はともかく質より量であり、悪いもの悪しきものでもそれはそれで価値が認められたし何でも貪欲に受け容れることもできた。

 が、老いてきて体力も低下すれば、全体として何につけ許容量、対応力は減って落ちてくる。若い時は悪い酒でも度数さえ高ければかなり飲めたし、どんな人とでも会い席を同じくしてどこでも楽しめたが、今はもうほんとうに良質なものや善良な人としか付き合えなくなったし求める気はない。
 そう、それだけ余裕が時間的にも体力的にもそして経済的にもなくなってしまったからだが、それは逆に良いことだと心から思える。
 もし我に、どこそこのゴーン会長のような資産があれば、美食と放蕩で身を持ち崩し結果として早死にしていたことだろう。今は、若いときの「欲望」も制御されて精製されてきたから、さらに昔より貧乏だから、総てに良質、上質なものを、それも少量しか受け入れないし欲しくなくなった。

 まあ、それでも愚かな我には今でも昔からのモノは基本まだ処分に取り掛かっていないので膨大に持っているし、その量は常人にとっては卒倒するほどあるけれど、もうこれからは増やすことはないし、逆に減らしていく方向へ道筋もついてきた気がする。
 一気に断捨離などやる気は毛頭ないけれど、ともかく我が長年集め溜めて来た物ものは、負の遺産にせず、とことん活用していこうと思う。ヤフオクを知って、こんなものでもこんな売り方があるのかと、まさに目からウロコが落ちたし、商人の端くれとして、モノは売りようなのだと意気を感じた。
 だからもう焦らないし苛立ちはしない。ただ老いた父が果たして今年一年無事この家で生き永らえるかは、今はかなり難しいように思える。願わくばこの2019年内にその葬式は出したくないと望むけれどもそれだけは神のみぞ知ることでどうなることだろうか。

 有難くも30年、戦争がないまま続いた平成の代も間もなく終わる。そして新しい元号が始まり時代は来年のオリンピックへと一気に突き進んでいくことだろう。
 同時に望むことは、世界中に輩出した傍若無人、傲岸不遜の独裁者的国家指導者たちがトランプも安倍晋三も含めて一人でも早く退陣していくことだ。
 そしてそれはきっとかなうと祈り信じている。全てが終わりまた新しいものが来る。こんな非道かつ悪辣身勝手な政治は続くはずがない。

 新しい年に希望を込めて、皆で願い少しでもアクションを示そう。呟くようでもともかく声を上げていこう。
 さすれば思いはきっとかなう。現実になっていく。まだまだできることとすべきことが我にも、貴方にも誰にでもあるはずだ。
 そう、全ては今日2019年1月1日、ここから、この場所からだ。