二択では決められないこと考・続きを2019年01月28日 08時46分17秒

★日本人とは何なのか

 言うまでもなくその国籍とその国の人、「~人」だということは何の関係もない。つまり、日本国籍があることと、日本人だということは=ではないということだ。
 ただ国民を管理する側、国家権力と一体化した行政としては、その人間が日本国籍がある人=日本人かどうかとか、性別が男なのか女なのかということはとても重要なことで、まさに国家の根幹に係って来る。
 外国人に参政権を与えるかどうかについて今も強い抵抗があるのは、まかり間違いして下手すれば、選挙の結果しだいで外国人にこの国が乗っ取られてしまうという危惧を抱く輩が多いからだと思われる。
 先の入管法改正の暴挙により、これから外国人労働者が多数入ってることになる日本社会は、「多民族国家」としての道を嫌でも歩むことになるかと考えるが、日本国籍の有無とか日本人である、無しだけで、労働者が差別され格差容認が当然であってはならないことは今さら我が書くまでもない。

 さておき、「国籍」については必要不可欠のものとした上で、国籍と「~人」とはまた別として、では、その国家の名を冠する民、~人とは何かと考えてみる。つまりこの国ならば、「日本人」とは何かということだ。
 これは差別ということでなく、偉業を成し遂げた女子テニス選手もこの我の拙稿では「日本人」だとはかなり言い難い。
 それは大相撲の白鳳関たち、多くの外国人力士が「日本人」ではないという意味とはまた違い、日本語の上手い下手とかではなく、肌の色や名前でもなくもっともっと内面的なことによる。
 厳密にいえば、民族と人種というものも異なるし、その国、その地域にいるから「~人」だと規定されるわけでもない。では、その人が、仮に「日本人」だと自他ともに認めるのならば、それは何によるものであろうか。

 我思うに、けっきょくそれは、その「~人」特有の文化や知識によるものだと考える。それは言葉、独自の言語とも密接している。
 つまり「日本人」ならば、日本語をよどみなく話し日本文化や常識に精通しているということだ。それは異国にいても同じことで、華僑という人たちを例に挙げれば、彼らはどの外国にいようと集まりチャイナタウンをつくり、その独自の文化と言語を決して失わない。だからカナダ国籍をとろうと、彼らはあくまでも先祖代々「中国人」なのである。
 意識的にせよ、無意識であろうと、その環境で長く学び触れてきた、その民族の「文化」や「伝統」がその人の内にあるかどうか、で、「~人」が決まるのではないか。
 アメリカ合衆国のように、まず他民族からなる「国家」があって、そこに住む各人種、民族が統合されて、「アメリカ人」となる特殊な例もあるわけだが、ほんとうはその「国家」の有無と「~人」とは関係はない。
 流浪の民ユダヤ人は、現在はイスラエルという国家を建設したが、数千年も国を失い、世界各地に散らばってもあくまでも「ユダヤ人」であった。それは捕囚のときも先祖から伝えられた彼らの律法を守り、ラビと呼ばれる師の指導のもと、旧約聖書的思想、文化を引き継いできたからに他ならない。
 よってその民族が外国にいようと、その民族学校をつくり、独自の言語と文化をその子弟に教えようとするのは正当かつ当たり前のことなのである。
 郷に入れば郷に従えという俚諺もあるが、それを常に取り入れてしまえば、その民族、「~人」が「~人」たる独自性が失われて結局何人でもなくなってしまうのではないだろうか。

 余談だが、敗戦後この日本国も、漢字やひらがなを廃止してローマ字だけを用いようとする暴論があった。GHQの要請だったらしいが、それに同調した文化人も多くいたと聞く。つまり欧米に倣い、書くのに時間がかかる面倒な漢字という文化はこの国に不要だと考えたのだ。
 そして中国の採用した簡体字的に、難漢字は簡略化や単純なものに置き換えられ、今では新聞の見出しでも、難しい字は最初からひらがなで表記されて記されない。それでは書けない以前に読めなくなるではないか。
 そんな風にして、日本人はどんどんアメリカ人的に変化していく。学校給食の普及もあっていつしか朝や昼はパン食が当たり前の日本人が多くなって、食生活、お米の文化、家庭での「和食」は失われていった。
 そして今では、畳のない家で、椅子やソファーに座り、ピザなどのデリバリーを多用する、アメリカ人のような日本人が増えてしまった。
 日本語はまだ誰もが話すけれども、カタカナ言葉、英語系の外来語がやたら日常化してしまい、誰もがその正しい意味もよくわからないままに用いている。
 それもまた今の「日本人」ということなのだろう。日本の歴史も今では学校教育の場ではろくに教えられないそうだし、小学校でも英語が必修となっていく。道徳=修身の授業では日本の文化や思想についてきちんと教えるのであろうか。

 そう嘆く我こそ、父母が進駐軍勤めの関係上、幼少のころからアメリカ文化にどっぷり浸かり、元からかなり外人なのである。着物は浴衣だって着れないし着たこともないし座禅もできない。
 ただ、我が日本人だとまだ自覚し自負するのは、以前から古本や骨董品に親しみを感じ、その昔の日本と古人たちに知識と理解、強い思い入れがあるからだ。
 そう、そうした「経験」こそが、かろうじて我を日本人にたらしめている。それは、哲学者・仏文学者森有正が常に用いた重い言葉であり、彼は、若き日にフランスに渡り、生涯フランスの異邦人「日本人」として生きて死んだ者だからこそ、深い意味を持つ。「経験」とは知識でもあり、言葉でもあると我は補足しておく。

 残念なことだが、今の日本人、特に若い人たちは、日本人としての「経験」をそもそも持ちえていない。予めそれは失われているというべきかそもそも与えられていないのである。
 
 その人が男であるか女であるかも、その人の生きて来た独自の「経験」によって決定される。生物学上は男性に生まれて来ても、女として生きることを選ぶ人生もある。
 大事なことは、「~人」である独自性が保障され尊重されることと同様に、その人独自の生き方、=人生が社会的に認められることなのだ。
ならば「沖縄人」には「沖縄人」の生き方と思いがあり、それは内地の者が一方的に踏みにじることは許されない。彼らの思い=「経験」=「歴史」に目を向けて尊重しないければならないはずだ。
 ただ「二択」では決められないこともある。思いは常に白黒では分けられるとは限らない。自らの性自認を、男でもない、女でもないと位置づける人もいるように、「どちらともいえない」「どちらでもない」ところに、様々な人のほんとうの思い、経験が集約しているように考える。