「死」を常に傍らにおいて2011年05月15日 23時19分44秒

★死は招かれざる隣人であるが

 母はこのところものすごく食べて、ものすごく庭仕事やら日々働いている。止めないといつまでもやっていてこちらが大丈夫かと心配になるほどだ。
 入院している間食べられなかったり、したくてもできなかったことを今一気に挽回しているようにも思えるが、逆に残された日々に無理無理にあれもこれもと詰め込んでいるような気もする。病気する前に戻ったというよりそれ以上の活動量、食事量である。
 それでも幸い調子崩したりまた寝込むようなことはないのだから彼女のしたいこと、思いや望みは何でもやらしたいと思う。

 来世はあると思えるし、肉体だけではなく魂の存在もまた信じる自分であるが、逆に今の世は今だけのものですべては生きている間だけことだとも考えている。あの世で先に死んだ人たちと会えれば幸いだし天国だか極楽、あるいは地獄があるならそれもまた楽しみであるが、それはそのときの話であり、現世とは一切没交渉なのだからあの世のことはさておきともかくまず今を生きなくてはならない。

 死は我々の隣に住む隣人であり、あまり招きたくもないしできれば家に来ないでほしいと願うものであるが、その存在を無視して生きていくことはできない。家に招き入れると、その家庭は暗く憂鬱になってしまうからせいぜい隣人として付き合う程度にとどめたい。
 老親たちがいつまで元気で共に暮らせるか全くわからない。いや、今は健康な自分だって先の保証は何もない。一瞬の天変地異や事故、あるいは不慮の急病で命を奪われる可能性だって高いし、他人事ではない。

 このところ「死」はだいぶ身近な、良き隣人になってきたような気がする。付き合ってみるとさほどおっかなくも不気味でも何でもない。忌み嫌っては失礼にさえ思う。が、やはりできれば戸口の先で応対したい。訪ねてきても家に入れてお茶出したり世間話を語らいたくない。その存在を常に意識する程度の関係でありたい。

 とにもかくにも生きている間にできること、すべきことだ。願わくば親たちを連れて近場でも温泉にでも行けると良いのだが・・・。