詩人とミュージシャンとの間に⑥2012年06月13日 22時55分24秒

★詩人と唄うたいとの差異をどう収めるか。

 詩人とフォークシンガーの違いについて書いている。

 自作詩朗読というスタイルはこの国でも昔からあったはずだし、珍しいことではないはずだが、詩人にとって誰もがそれをするものではないだろうし人前に出て自らの詩を読むことは決して日常的な行為ではない。何より詩作という作業自体が内向的な個人作業であることは言うまでもない。詩人とは基本に作品ありきのパフォーマンスとは無縁な静かな芸術家だと思われている。

 一方、シンガーは自作自演は同じでも常に観客、聴衆を求めそれを意識して活動を行っている。ということは芸術よりもそれは芸能に近く、当然ながらパフォーマンス度を高く求められてしまう。だからもしコンサートを一つのショーとして捉えた場合、観客を沸かせ盛り上げる手腕、その能力は詩人が場数をこなしたフォークシンガーにかなうわけがない。これらのことは当然各々の観客層も同じく異なるのも当然となる。

 よって、詩とフォークソングのコンサートとはその異質なスタイルをどううまく融合するか、あるいはどちらかに軸足を置くか常に頭を痛めることとなる。ある意味、内向的な詩人とその観客たちと外向的なシンガーとそのファンを一同に集めることは無理難題かもしれない。何故なら水と油というほどではないが詩の関係者はフォークソングのコンサートにあまり足を運ばないしフォークのファンは詩及び詩朗読にまず疎いのである。

 では新潟での有馬敲を囲んで詩と新潟のフォークシンガーとのコンサートはどうであったか。一言でいえばかなり成功した集いとなったと断言できよう。
 一月前に同所で、東京の熊坂るつこさんを招いてのやはり地元シンガーとのコンサートが行われたばかりであったし、それが終わってからようやく準備が動き出したことを思えば宣伝周知にかける時間も足りなかったにしてはかなり大勢の観客が来たので大成功と言えなくもない。予定していた座席数が足りなくなるほどであったから40人近く入ったかと思われる。これは知る限り東京での同種の企画のとき以上である。

 ただ客層は自分が見た限り、詩人、詩誌関係の方が多かったように思われ、ある意味、有馬さんの知名度と動員力に感心させられた反面、思ったよりややフォークのファンの参加が少なかったのが惜しく感じられた。ただ、関係者によると意図してそうした人たちは今回の企画に不参加となったのではなく、偶然それぞれどうしても他の所用が重なって来れなかったらしい。もし毎度の顔見知りの人たちも来ていたらたぶん会場に収まらなかったかと思える。

 今回のコンサートでは、有馬さんがメインであったので、主役の彼は何と45分間立ちぱなしでまず自作詩をたっぷり朗読した。そして最後にはまたステージに呼ばれ新潟のフォークシンガーとの唄にも加わった。じっさい御歳八十の老人が、その朝、京都を発ち新潟に来てその夕刻、二時間半に及ぶコンサートにずっと出ずっぱりというのは驚異的である。その頑健さ、タフネスさに誰もが驚かされた。

 情けない話であるが、またいつものことながら自分は彼から元気を頂いたし、たぶんそれは新潟のこのコンサートに参加された方々誰もが同じ思いであっただろう。これだけのお歳の方が、フットワークも軽く全国を生活語詩朗読運動で走り回っているのだ。彼を見倣ってもっと前向きに積極的に生きねばならないと皆深く心に誓ったはずだ。

 結論だけ言ってしまえば、詩とフォークソング、詩人とミュージシャンの間の距離は決して埋まることはない。が、それぞれ別個なものとして進化してきた同根の部分、芸術を生み出す意志、つまりやむにやまれぬ「志」のようなものがお互いに垣間見ることができ、それが双方の観客にも新しい出会いとして知るきっかけになるならばそれだけでこうしたイベントは催す価値があると信ずる。

 そしてまたこうも思う、芸術こそその自らの狭い枠の中だけに留まって安穏としていてはその力を失い朽ちていくものだ。異文化というほどの距離もないが異なる芸術分野のものとコラボレーションとか、外へ出ていかない限りやがては廃れ忘れられ消えてしまうかもしれない。そのためには常に刺激を受けて、今あるカタチを検証することではないか。一つの位置に留まりそこで満足してしまえばそれから先はもはや何もない。

 有馬敲という超絶お達者な老人の生き方こそまさに「芸術」であり常に後に続く者に刺激を与え続ける刺激的芸術家なのだと気がつく。行動する詩人は、老いてもなお、世界を視野に入れて全国を足取り軽く行脚していく。そう、心に太陽を持って、唇には詩をもって。