我もまたネット依存症かも2013年11月10日 17時11分10秒

★ネットとは「今」と繋がっているという「幻想」
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 メインに使っていたパソコンを修理に出した。今それが乗っていた机の上にはぽっかりとした空間が広がっている。目新しいような少し寂しいような不思議な気持ちである。そしていかに日々、それに向き合っていたのか気がついた。

 昨今、中高生ら子供たちの間でケータイ依存症のようなものが蔓延して教育の場で問題化していると新聞で読んだ記憶がある。つまり始終起きている間は携帯の画像を開いてメールやら何やら確認せずにいられないのだという。
 自分は携帯電話はいちおう持ってはいるが、それではメールのやりとりはCメールでさえできないので、そうした携帯依存とは縁がないが、街には確かに、中高生でなくても携帯片手に画面を覗き込みながら歩いている人すらよく見かける。今の電車の中などは携帯をいじっていない人のほうが少ないほどだ。

 要するにメールやら来ているか確認しまたこちらからも送ったりとそうしたやりとりに忙しいのかと想像するが、今パソコンを修理に出して自分もまた携帯ではなかったが同様なことを日々やっていたことに気がつく。

 居職の身なので、基本的に毎日家にいる自分だが、二階に上がると常にパソコンを立ち上げてメールを確認していた。それが日に何回に及ぶのかわからないがかなり頻繁だったと思う。
 別にそんなに売れっ子ではないし、友達も少なく個人的メールなど一件もない日さえ多々ある。しかし一応ネットで商売している関係上、注文に迅速に応える必要からメールチェックは欠かせない。けっきょくそうしたことから必要なくてもメールをやたら開く習慣、パソコンを日に何回となく覗き込む習慣がついてしまったのだ。

 そして今、そのパソコンがなくなって二階のその場所に行っては空っぽの机を見て、ああ、そうか、ここではメールは確認できないんだと気がつく。そうした行為が日課、いや、日に何十回もの日常的繰り返し行動になっていたのだ。パソコンを修理に出してようやく気がついた。

 まあ、もう一台の今使っている、このノートパソコンがあるのだが、それは立ち上げるのに時間がかかったり、設置してある場所まで行きつくのに不便な場所にあるのでそう気軽に起動できない。だから自分のメール確認しないと不安症は治まりつつある。どうせ大したメール、連絡などはほとんどないのである。なのに何故メール確認に精だすのか。

 しかし、そうした携帯やパソコンに依存する、囚われる「心理」を自分なり分析してみると、一つに、何かを待っている、つまり誰かから良い知らせ、嬉しい連絡を期待している、ということと、その立ち上げた時点で、「今」とつながっているという安心感があるからだと思える。
 今と繋がっている、というのは抽象的な表現だが、少なくともその時点ではジャストナウに、「世界」を認識しているということと他ならない。むろんそんなのは幻想であり、知ったそのとき、「今」さえも、得たものはほんの一部の情報、しかも管理と選別されたものでしかなく、真に大事な情報ではないのだから、本当はどうでもよいようなものだ。

 しかし、携帯やパソコン、つまりインターネットの利点とは、その時点での今、リアルタイムのことが一番早く伝わる、伝えられる手段、ツールであるから、やはり「世界」と繋がっている感は確かにある。それは良いことであり、安心、自信にもなろう。

 つまるところ自分も含めたそうしたネット依存症とは、心の根底に漠然とした不安と、満たされない不満があり、届く良い知らせを期待して待つ気持ちと今の世界と繋がっているという安心感を得るために携帯やパソコンが欠かせないのだと考える。

 本当に自らのことで忙しく、満足して自らのことに専念して集中している人はインターネットなど全く不要だと思える。メールのチェックもせいぜい朝晩程度で何一つ困ることはない。我もまたそうありたいと願う。緊急の連絡ならば携帯電話か宅電にかけてくれればよいのだ。もうメールやネットでのニュースや連絡など確認しなくてもかまわずに生きていけるようになりたいと今は望む。
 でもきっとパソコンが修理から戻ってきたらまた元の習慣が復活するかもしれないが。まあ、外でも携帯操作に夢中になるほど自分はまだ重症ではないからそれでも良いのである。

 しかし自分はいったい何を「待っている」のだろうか。恋しく思う女の子からの返信メールを待つという歳ではないのだから。その心理が訝しく思う。