小泉元首相の「回心」について思う・前2013年11月16日 10時46分48秒

★いったい彼に何が起きたのか、それこそが知りたい。 アクセスランキング: 253位

 イエズス帰天後、残された初期キリスト教信者たち(正しくはユダヤ教イエズス派の人たち)は、結束し共に皆で原始共産社会を営んでいた。が、イエズスに代わり教えを説き最初の殉教者となったステファノの虐殺を機に教団への迫害と弾圧が始まる。

 その殺害に加担したサウロという若者は、厳格なユダヤ教原理主義者として、さらなるキリストの信者たちを迫害するため勇んでダマスコへ向かいその帰り途のこと、
 「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」というイエズスの声とともに天から光が輝き彼を包んだ。彼の目は開いても何も見えなくなりダマスコで三日間飲み食いもしなかった。
 ダマスコにいたイエズスの弟子にサウロのもとに行くように霊示があり、彼の頭に手を置き精霊に祈ると、サウロの目からうろこのようなものが落ち再び目が見えるようになった。そしてサウロはすぐにイエズスの宣教を始めることとなる。
 これが巷間伝わる「目からウロコが落ちる」という故事であり、このサウロこそ、後の大使徒パウロなのである。このことは新約聖書の中の「使徒行伝」に「サウロの回心」として詳しく記されているからご存知の方も多いだろう。

 このパウロこそがペテロと並び、キリスト教をユダヤ人の民族宗教から世界宗教に育て上げた論理的指導者なのである。つまり、キリスト教とはイエズスの説いた教えを元にパウロによって宗教として成立したと理解されている。
 しかし、聖書にある「教会を荒し、家々に押し入り、人々を引出し牢に投じ、なおも威嚇と殺害の気に満ちていた」サウロが、「回心」し、180度の転向を果たしキリスト者となるとはまさに奇跡でしかない。主は「彼は私が選んだ器である。私の名を異邦人や王やイスラエルの子らにもたらすのは彼だ。私の名のためにどれほど苦しまなければならぬか彼に教えよう」と言われたと記されているが、このサウロに起きた大事件こそが、キリストの復活と並ぶ絶対に常識ではかれない、ありえない「奇跡」だと思える。自分はそこに深い感動を覚える。

 ながながと聖書の故事をひいてきたのは、小泉元首相の最近の脱原発発言を知り、パウロのことを思い浮かべたからだ。自分にとってこの男は原発推進論者としてまさに「威嚇と殺害の気に満ちていた」かつてのサウロであり、回心後も当初、信者たちは彼を疑い何かの企みかと怖れていたとあるように、今も自分は彼を信じて良いものか大いに迷うところだ。
 しかし彼のインタビューや講演記録を読む限り、彼の言っていることは愚直なまでに正論であり、自分の考え、気持ちとまったく違わない。だとしたら彼の「回心」は本物なのであろう。しかし、いったい彼に何が起きたのか、なぜ回心したのかそのことが訝しく不思議でならない。これもまた信者狩りの急先鋒であったサウロを神の僕、信仰の徒に導いたように、神の意思、彼もまた選ばれた器なのであろうか。

 長くなるのでもう一回この件について書く。