抱える人と抱えない人2013年11月15日 21時10分29秒

★人はそれぞれ抱えているものが違うが    アクセスランキング: 243位

 当然のことながら人はそれぞれ抱えているものは異なる。
 今日、自分にかけられている生命保険を故あって解約した。今から20年ぐらい前に、親たちが勝手にかけて、母が受け取り人になっていたものだ。安い保険だったが、自分が死ねば400万ほど受け取り人である母が受け取る。かけたのは親父である。

 それが変動相場制だとかで、詳しいことはわからないが市場の金利に左右され、このところずっと不況だったから解約しても40万ぐらいしか戻らないので長年ほったらかしにしてあった。が、このところの好景気感で、今日は平均が1万5千円を久々に回復したので、すぐさま解約することにした。そしたら60万ぐらいにはなるらしい。アベノミクス様様である。
 そもそも最初いったいいくら支払ったのか知らないが、自分の値打ちなんてこんなものなのだとヘンに納得してしまった。いや、じっさいこんな保険まったく意味がないのである。自分が死ねばある程度まとまった金が親たちに入るとしても彼らもまたすぐに死ぬわけだし今もそうだが、このマス坊が死のうが生きようが彼らはそもそも何一つ経済的に困りはしていない。確かに世話する人間がいなくなれば不便になるが、その金額が入ったからといって楽できるわけでもない。
 こうした死亡保険は、妻子がいて、特に子供がまだ小さい場合など、もしものとき残された家族にとって大いに役立つものなのである。愛する妻子や住宅ローンを抱えている方には生命保険はそれなりに必要かつ重要なものなのだ。

 まあ、それでもその60万はいまのこの家にとっては大いに助かる。山梨に行くたびに一回のガソリン代と高速料金を合わせれば1万円はかかってしまうし、行けば行ったで何かしら向こうで買い物したり食事もするので結局また一万円の、都合2万円は使ってしまう。また現地のガス、水道、電気代だって別個新たに支払うことになった。使っていなくても基本料金はとられるのでそれもまたある程度の新たな出費なのである。
 その60万円が戻ってくれば、山梨の古民家に行くのにかかる経費30回分となろう。月に一度親たちを連れて鉱泉に入りに行くとして、約3年分。そのぐらい先はまだ彼らも生きているだろうからちょうど良い。自分の命、生命保険と引き換えに、得た金の使い途としては最適ではないかと思う。

 けっきょく、別宅というのか、廃屋に近い古民家でも新たに一件抱えてしまうとまたその維持費がかかる。収入がろくにない者が、どうしてそんな愚かにも「別荘」を持とうなどと考えたのか、堅実な方から見れば笑止千万ものであろう。家でも何であろうとも新たにまた何かを抱えることはそれなりに計画的な判断が必要なのだった。
 たとえば老人が犬猫を飼うとしたら、その動物を最後まで看取れるかも自らの年齢と照らし合わせて決めねばならないはずだ。下手すれば人が先に逝き、動物が残されかわいそうな事態となることもあろう。まあ、そのとき、必ず面倒を看てくれるアテがあるならばそれも良いが、迂闊に老人が新たに動物を飼いだすのはそれなりに思慮しないとならないのであった。
 このところさすがに自分も歳とって来たのでそうしたことを考えることがある。どんなことでも抱えること、つまり維持していくことは大変なのだと。

といっても今でも人の数倍、数十倍もの本やレコード、その他何でも昔の旧いモノを抱えて、一人でそれに囲まれ身動きとれないような自分がそんなことを言う、書く資格はまったくない。ただ、人はそれぞれ抱えているものは違うし、逆にそれがあるからこそ生きがいだったり生きている理由にもなることはまたあることにも気づく。
 妻子を抱えているから仕事を頑張れるし、今の自分にとって老親を抱えていることが大変でも自分が生きている存在理由にもなっている。じっさい妻も子孫などいないこの身は、一人ならばどうなっても全く構わないのである。まあ、そこに親や犬猫たちという世話する「家族」があるからハチャメチャにならずに何とか生きているわけで、1人ならすぐに自滅していくことは間違いない。
 また、様々な悩みや不安を抱えていることが逆に思索や対策対処の道へと続いていくわけで、何一つ心配のない満ち足りた状況は憧れはしてもきっと居心地が悪いかと想像する。

 今の時代、断舎利とかで、終活だか何だか気持ち悪い言葉がはやっていて、確かに老いてくればその先の死に向けて対策や準備もせねばならないのは確かであろう。抱えているモノを少しでも減らして少なくしてスッキリしろというのが世間の風潮だ。しかし、ありとあらゆるものを普通の人の何十倍も抱えているこの身としては、今さらそんなことに残りの人生を費やしたいとはまったく思わない。むろん整理整頓して散乱を片づけて綺麗にはしたいとは思うが。

 人は死ぬときは何一つあの世へ持っていけないのだから、嫌でも抱えているものをそのとき手放さなくてはならないのだ。そのときはそのときで、残された人たちに迷惑はかけるかもしれないが、逆に子孫もなければ知ったことではないという気さえしている。
 オレが死ねば同好の友人知人たちが欲しいモノは皆で本でもレコードでも何であろうと勝手に持って行ってくれれば良い。そのうえで残ったガラクタは行政がゴミとして全部処分してくれるだろう。じっさいそんな風にして死んだ人を知っている。

 友人には、学生の頃から40年近くも下宿の四畳半で暮らしていた人もいた。つまりそれだけ何も抱えないのである。また、若い時から転々と身一つで住居定まらずに生きている人も知っている。
 そうした人ならふとどこかへ旅に出たいと思えば即ヒッチハイク的にそれこそ世界中どこへでも出かけられる。それは憧れであり実に理想的だ。自分もうんと若いときは抱えているものが少なかったから、身一つでどこへでも行けた。だが、いつしか「抱えること」が存在理由のようになって今では移動は犬や親たちも連れての山梨の「別荘」ていどなのである。今の状態では一週間だって一人で自由にどこかへ出かけられない。

 しかしそれもまた仕方あるまい。抱える人と抱えない人がいる。自分は何でも抱えるほうを選んだのだからこれからも生涯それらを抱えて生きていく。やがて抱えられなくなる日がくるまで抱えていく。