うたはうた、うたでしかないが、うただからこそ。 ― 2013年04月28日 23時42分48秒
★楽四季さんとのオープンライブを終えて。
自分は最初から最後まで昔も今もこれからもずっとダメだと、その絶対的確信は持っている。でもだからと言って、自殺しようなんて考えはしないし、そんな自分が自分を忌み嫌い憎むところはない。うんざりは当然するが。
なぜなら、そんな人間なのだから誰も相手しないし皆嫌うのだからせめて自分自らは肯定せずとも受け入れ受け止めるしかないではないか。
そうしてまあともかく半世紀以上生きてきた。そしてたぶんうまくすれば天寿を全うして消えてなくなる。早くその日を待ち望む気持ちもなくはないが、まだせっかく生まれてきたのだからそこにせめて何か意味、成果を少しでも残したいと願う。
いや、それよりも何らかのかたちで少しでも人のために生き、役立ちたいと思う。その気持ちに嘘偽りはない。なぜならこんなどうしようもない人間だからこそ。
そしてだからこそ(逆説的に)できること、すべきことがあると信ずる。
今、ウチのレコードレーベル、富士見堂レコードは、バイオリン演歌師、楽四季一生師のアルバム作成に向けて動き始めた。今日は拙宅で、関係者たちが集まって音出し、顔合わせの集まりがあった。
で、楽四季さんに、彼の持ち歌の中から約25曲ほど唄い演奏してもらったのだが、「観客」は少なかった。が、有意義なひと時を得ることができ満足した。勝手な言い草だが、何でタダなのに呼びかけても人は集まらないのか不思議でならない。バイオリン「演歌」というものに価値がない、興味ないと思うのならその「理由」を知らせてほしい。もう古臭い大昔の音楽だと考えるのか。単にメンドーだからではないのかな。
フォークにせよ、ロックにせよ、ジャズにせよ、演歌にせよ、たかが音楽なのである。どちらが上とか下とか良い悪い、価値や意味はない。要するに好み、嗜好の違いでしかない。
そしてその人が音楽好きだとしても、それは、幅広く聞き、そのうえで選んで聴いているわけではないと思う。あくまでも各自そのときどきの環境と状況という枠内での選択でしかない。
人はその中で、何が好き、これが嫌い、あれは良い、これは悪いと勝手に思い込んでいるにすぎない。言い過ぎではない。本当のことだ。この世のすべてを見聞きし体験し、その中で取捨選択している人などあり得ないのだから。
ゆえに極論を言えば、何であれ、音楽ならば良い音楽、悪い音楽、そしてそれが好き嫌いなんて意味がないしどうでもよいこととなる。相対がなければ絶対もない。恋愛とか結婚とはつまりそうした中でのベターな、とりあえずの選択なのである。まあ、それが「縁」なのだ。
つい余計なことも書いた。ただ、その中で、すべてが無意味だと言いたいわけではない。いやだからこそ、すべてを知り体験できないのが人間だらこそ、そのときどき一つ一つの出来事、体験が深い強い意味、価値を持つ。おろそかにしてはならない。偶然はなくすべてが必然なのである。無意味にも意味がある。
今日は楽四季さんのバイオリン「演歌」を通して様々なことを気づき考えさせられた。また、それを数人でだが話す機会も持てた。うたが何か、どこから来てどこへ向かうのかわからない。ただ、そこに厳然とある「うた」の外側だけでも垣間見て、感動もしたしいろんなことを考えさせられた。そのどれもが明治や大正の、それこそ100年も前のものなのである。しかし、ときを超えて今も今の時代も変わらぬ普遍的価値を持つものも少なからずあった。そしてうただからこそできること、その意義と価値も気づかされた。
バイオリン演歌のアルバムの全体像はまだ見えてこないが、その魅力を味わい堪能した一日であった。これは決して大昔の骨董品ではないしそう扱ってはならないと自らを戒めた。
自分は最初から最後まで昔も今もこれからもずっとダメだと、その絶対的確信は持っている。でもだからと言って、自殺しようなんて考えはしないし、そんな自分が自分を忌み嫌い憎むところはない。うんざりは当然するが。
なぜなら、そんな人間なのだから誰も相手しないし皆嫌うのだからせめて自分自らは肯定せずとも受け入れ受け止めるしかないではないか。
そうしてまあともかく半世紀以上生きてきた。そしてたぶんうまくすれば天寿を全うして消えてなくなる。早くその日を待ち望む気持ちもなくはないが、まだせっかく生まれてきたのだからそこにせめて何か意味、成果を少しでも残したいと願う。
いや、それよりも何らかのかたちで少しでも人のために生き、役立ちたいと思う。その気持ちに嘘偽りはない。なぜならこんなどうしようもない人間だからこそ。
そしてだからこそ(逆説的に)できること、すべきことがあると信ずる。
今、ウチのレコードレーベル、富士見堂レコードは、バイオリン演歌師、楽四季一生師のアルバム作成に向けて動き始めた。今日は拙宅で、関係者たちが集まって音出し、顔合わせの集まりがあった。
で、楽四季さんに、彼の持ち歌の中から約25曲ほど唄い演奏してもらったのだが、「観客」は少なかった。が、有意義なひと時を得ることができ満足した。勝手な言い草だが、何でタダなのに呼びかけても人は集まらないのか不思議でならない。バイオリン「演歌」というものに価値がない、興味ないと思うのならその「理由」を知らせてほしい。もう古臭い大昔の音楽だと考えるのか。単にメンドーだからではないのかな。
フォークにせよ、ロックにせよ、ジャズにせよ、演歌にせよ、たかが音楽なのである。どちらが上とか下とか良い悪い、価値や意味はない。要するに好み、嗜好の違いでしかない。
そしてその人が音楽好きだとしても、それは、幅広く聞き、そのうえで選んで聴いているわけではないと思う。あくまでも各自そのときどきの環境と状況という枠内での選択でしかない。
人はその中で、何が好き、これが嫌い、あれは良い、これは悪いと勝手に思い込んでいるにすぎない。言い過ぎではない。本当のことだ。この世のすべてを見聞きし体験し、その中で取捨選択している人などあり得ないのだから。
ゆえに極論を言えば、何であれ、音楽ならば良い音楽、悪い音楽、そしてそれが好き嫌いなんて意味がないしどうでもよいこととなる。相対がなければ絶対もない。恋愛とか結婚とはつまりそうした中でのベターな、とりあえずの選択なのである。まあ、それが「縁」なのだ。
つい余計なことも書いた。ただ、その中で、すべてが無意味だと言いたいわけではない。いやだからこそ、すべてを知り体験できないのが人間だらこそ、そのときどき一つ一つの出来事、体験が深い強い意味、価値を持つ。おろそかにしてはならない。偶然はなくすべてが必然なのである。無意味にも意味がある。
今日は楽四季さんのバイオリン「演歌」を通して様々なことを気づき考えさせられた。また、それを数人でだが話す機会も持てた。うたが何か、どこから来てどこへ向かうのかわからない。ただ、そこに厳然とある「うた」の外側だけでも垣間見て、感動もしたしいろんなことを考えさせられた。そのどれもが明治や大正の、それこそ100年も前のものなのである。しかし、ときを超えて今も今の時代も変わらぬ普遍的価値を持つものも少なからずあった。そしてうただからこそできること、その意義と価値も気づかされた。
バイオリン演歌のアルバムの全体像はまだ見えてこないが、その魅力を味わい堪能した一日であった。これは決して大昔の骨董品ではないしそう扱ってはならないと自らを戒めた。
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