老いてますます烈なり・後2013年06月29日 21時42分32秒

★「二度童」とどう付き合い生きていくか

 いわゆる、ボケ、認知症について書いている。
 マス坊の母方の祖母は、栃木県旧谷中村の出で、義人田中正造翁に子供の頃抱かれたこともあり、晩年まで彼のことを慕い語り継いで百歳近くまで生きた。亡くなる直前まで足腰は弱っていても頭脳明晰で、テレビをかかさず見ては世の中のことに一家言を持っていた。

 その祖母は、人は歳とってまた子供に返ると言い、自らも含めて年寄りのことを、「二度わらし」、「二度わらしになる」と呼んでいた。韜晦の意味も込めて、仕方ないと言いたかったのだろう。そう、歳とれば人は呆けて手のかかるまた子供、幼児の状態に返る、二度童に返るのである。

 ただ、そのボケ、認知症にも個人差と進み方の違いも大きい。所謂一般的な加齢によるボケとアルツハイマー型認知症とでは、全く進行の度合いは異なる。アルツハイマーと診断されてしまえば、それを遅らせる薬はあるのだが、残念なことにやがては人格崩壊といってよいほどボケは進み、家族を認知できないばかりか、自ら日常生活すら何もできなくなっていくと聞く。むろん手厚い看護や治療によって多少の改善もできると信ずるが、このタイプの認知症は治療困難な病気であり、老人特有というわけでもないのだから今ここではふれないことにする。

 問題はそれとは別のおそらく誰もが患う、加齢によるボケで、長生きすれば足腰が弱り筋力が衰えていくのとまったく同じ理由で脳もまた経年劣化し記憶力、判断力、識別力が衰えていくことを指している。
 そしてその種のボケもまた徐々にではあるが度を増していく。そのことはおそらくこのブログをお読み頂いているある年代の人たちには自分事として経験あることだと思う。
 言葉が出てこない、大事なことでも思い出せない、すぐ物忘れする、昨日のことが覚えていない・・・と若い時ならまずなかった記憶の衰えに自ら驚き愕然とすることは誰でもある。つまるところ老人のボケ、認知症とはそうした脳の機能劣化がもたらす誰にでも訪れる事態だと理解できる。それを「病気」ととらえるか、単なる老化からの機能障害ととらえるか人それぞれであろうが。

 そしてそれを煩っている人特有の表情、認知症の顔があることも書いた。それは目に光がなく、顔全体に覇気がなく、すべてが灰色にくすんだようなぼぅーとした無表情の顔である。
 ただ、そうした人でも、ウチの親父もだが、決して終日そうした茫然自失でいるわけではない。元気な時は妙に饒舌だったり、こちらの話に真っ当な受け答えもするし、言いたいこともちゃんと伝わるときも多々ある。まして介護保険のケアマネージャーや市役所からの認定委員が来る日は、妙に元気で、ごく普通の正常人的受け答えをしてしまうのだ。
 だから家族以外の人からは、ちっともボケていない、しっかりしていると言われてしまう。こちとらとしてはどれほど彼が異常なのか周りが苦労しているか伝わらずもどかしいばかりである。

 さて、このところ世間を騒がしている元都知事であるが、田中真紀子氏がいみじくも「暴走老人」と評したことは記憶に新しい。ただ、その言葉には、言外に隠された意味があるように思える。つまり「暴走(ボケ)老人」、もしくは(認知症の)「暴走老人」というように。ご当人はそうした揶揄に気づかずに、自らもそれを認じていたようだが、さすがにボケているとか認知症と公然と言われたら彼もまたキレてしまうだろうから。

 ただ、このところの維新の会の一連のお家騒動、彼の発言の数々はどう考えても常軌を逸している。政党の共同代表の片割れが一方を指して、「彼はもう(政治生命)終わったね」と言うことはありえないし誰もが耳を疑う。それも分党、解党後ならともかくも選挙戦の只中である。
 そして都議選の終盤にはいったんヨリを戻したかのように仲良くツーショットでマイクをにぎっていたのに、昨日また新たに橋下氏の憲法観を批判し始めている。この大事な党の伸長がかかる参院選前に党の内部でケンカしている場合ではないはずだ。それは常識であろう。都議選のときといい、仲間割れして何の得もない。支持者はますます愛想尽かす。元都知事はいったいどうしてしまったのか。

 そう、これが老人特有のボケ、認知症なのである。ご自分のやっていることがもはや自らよく理解されていない。状況判断を欠いた一連の発言はボケの発作のなのである。言いたいと我慢できなくて後先考えず好き勝手に言い放つ。未だかなりの人気ある実力者だから周囲は誰も彼を諌めないし、発言をチェックし抑えることができない。だから彼は、これからも状況を全く読まずに思ったことをそのときどき心のままに放言していく。もう誰も止められない。

 そこには若い時からマスコミの寵児、人気者として好き勝手やってきたという彼特有のわがまま気質も大きく関係している。その持っている性質がここにきていよいよ烈しくなって、しかも認知症ゆえに状況判断できないまま好き勝手に暴走し出したのである。おそらく近い将来、本当に取り返しのつかない大失言してもはや政治家不適格として政界引退となるとマス坊は予測している。

 ボケは誰にでも来る。年寄りは仕方ないと思う。しかし、認知症を患う老人の世迷言が、世間を騒がせ振り回すのはいかがなものか。憲法は改正ではなく、即廃棄とは言ったものだ。それは彼の持論であろうが、さすがの安倍氏も根底では同感でもそんな極論ではモノゴトは達成できないことはわかっている。全てのことには手順がある。実現するためには周到な準備が必要だ。だのに一つの考えに囚われ、そのことに固執し時と状況も考えず叫び続けるとはウチの親父と同じである。

 レーガン元大統領は自らアルツハイマーであることを告白して国民の前から姿を消した。ボケは誰にでも訪れる。それは仕方ない。恥ずかしいことではない。問題はそうしたときの引き際だと元都知事の醜態は世に知らしめている。
 大阪維新の会の面々はこんな認知症老人と手を組んだことを今心から悔いているのではないか。さてはともあれ「憲法改正」はボケ老人の世迷言と片づけてはならない。