「家族」についての再考 ― 2016年02月08日 08時44分07秒
★人はもっと離れて暮らすべき、まして血が魂が繋がる者とは アクセスランキング: 117位
俗に、真夜中に書いた手紙は出すなとか、夜書いたものは朝もう一度読み直せと説かれている。それは真実で、確かに夜中や深夜に心の内を綴ると、内省的ならまだしもたいていはネガティブな後ろ向きの内容となることが多い。
このところのブログも夜書くことが多く、しかも頭痛がひどい中、苦しい胸の内を吐き出すように記している。一夜明けて朝の光を受けて読み返すと、何とも恥ずかしいかぎりだが、今の気持ちとはかなり違っている。ならば夜など何も書くべきでないと自戒するものの、まあそれはそのとき書かざる得ない事情や気持ちがあるのでご容赦頂きたい。
2月8日、月曜の朝である。また新しい週が始まる。老親たちのことはともかくも病院通いとかなくなったので、ようやく腰据えて自らのことに向き合える。今週中に溜まりに溜まってしまった連絡事項など片づけて、まず27日の、中川五郎氏の「反戦歌」ライブを成功に導いていかねばならない。
まあ、今の五郎氏の勢いなら、非力な我が宣伝しなくともそれなりにお客さんは入るかと想像するが、ソロコンサートではないのだから、この企画自体を意義ある、しっかりしたコンセプトに基づいたものにしトータルに観客に示さねばならない。それこそが、企画者の役割であり、プロテストソングを半世紀の長きにわたって歌い続けて来た偉大な人を真に尊敬し讃えるべくその全姿をあますところなく表現できるよう場を整えなくてはならない。
うだうだ我が家庭の事情などにかまけている暇はなかったのだ。朝の光を受けてようやく気持ちは戻ってきた。そのうえで、昨晩書いたことの続きを少しだけ書きたい。朝の散歩で考えたことだ。
家庭とか家族というのは実に難しい。動物には、生殖の時だけ出会い、あるいは子育て期間だけ共に雄雌が暮らし、後の期間はばらばら、個々に暮らすという形態が多い。
一方猿類もだが、高等生物になるにつれて、そこに群れとか家族という「集団」の考えが入って来る。人間に至っては、いったん出会ったパートナーとどちらかが死に別れるまで生涯の長きにわたり一緒に暮らす。
それが結婚であり、家庭を作ることであり、家族を持つということだ。
そこにはおそらく社会的理由が存在しているのであろう。男女の分業が確立し、男は外で働き、女は家庭で料理や子育てなど内助の功を発揮し、それぞれの役割が決まっていった。それは昔は必然的なことであり間違いではなかった。
が、今日では、仕事も含めて社会的役割には男女の差はまつたく関係ないはずだし、内助の部分でさえも男女の違いは単に女は子を産める、男はそのための精子を提供するというだけの違いでしかない。
そして生まれてくる子供は人間の場合、牛や馬のようにすぐに自分で立ち上がり乳をのむように手がかからないタイプの真逆で、親や大人たちの介護がないかぎり一人ではすぐに死んでしまう。
となると、彼らが一人で生きていくだけの大きさに成長するまで親たちはひたすら世話し面倒をみないとならない。
人間の場合は、一人で餌をとることは、自ら就職して金を得ることと同義だから、けっきょく成人し仕事に就くまで親の役割は続く。しかし、親と子の関係はそこまでで良いのである。
後は他の動物たちと同じく、居心地の良い「家」を出て、自ら稼ぎ一人で暮らしやがては異性のパートナーをみつけ親たち同様また家庭を築けば良いだけの話だ。それを古来から人間も動物として続けて来た。他の動物なら成人してしまえば後は親子といえども没交渉であろう。
が、人間は、その後までも、代々家族は続いていくものだと考え、一族という縦の血縁による時系列を大事にしてきた。親は子を作り、子はその孫を産み、さらにその上には祖父母も存在し互いに関係を持ち続けていく。
いくら核家族が進んだとしても、離れていてもその血を分けた家族という概念は消えてなくならない。
そして今一番の問題は、若き日に親が子を産み育て、成人まで面倒みたように、老いては逆に、今度は子が親を死ぬまで面倒を見ないとならないということだ。
むろんそれは義務ではないし法律で決まってもいない。また、人間でも西欧諸国などでは、個人主義が進んでいるから、老いても親は親だけで暮らし、子の世話にはならない、子も面倒を見ないという風潮が一般的だ。翻って、このアジアの、日本社会では、国家が個人を管理はしても世話しないのが当たり前だから、最終的には、パートナーの片割れが、そして子が、ときに孫までが老いた者の最後を看取る。
西欧で言うところの養老院的、社会基盤ができていないこともある。長くなるからその違いは簡単に説明できないが、要するに、諸外国では、土地も家も不動産資産は、個人の所有ということは少ないから、そのぶん国家に余裕があり、老人は国家に結果として付託した自らの資産で老後の面倒を見てもらえる。消費税が高い分だけ、社会保障、福祉はきちんと充実している。
日本の場合、基本すべては自己管理、自己責任だから、金のある人は、子の世話などにならずとも自らの資産で、生涯型特養など快適な終の住処に入ることもできる。が、年金でかろうじて生活している低所得層の老人はそれはかなわない。結果として、家族が面倒みないとならない。いや、最終的には、認知症などが進めば、家族は介護を断念し金はかかっても老人専門施設に親たちを入れざる得ない。
それが正しいとか、こうした社会の仕組みの是非については今考えない。ただ、確信をもって今思うのは、人は夫婦という男女であれ、あるいは同性であろうとも、別に常に一緒に暮らさなければならないわけではないのだ。
互いに大事な人だと、思いが、魂が繋がっていれば別に生活を共にせずとも何も淋しくないし、逆にたまに会って一緒に過ごすときの喜びは格段のものとなろう。友遠方より来る、楽しからずや、と古来中国の詩人はその喜びを巧みにたくさんの詩にうたっている。
まして親子とは、血が繋がっているのである。濃い血で繋がっているのだから、共に一緒につねに暮らさなくとも、離れていても互いのことは感応しあえる。
本当に大事な人とは、一緒に暮らすべきではない。今の人は、暇さえあれば、人と会って話しているときでも、手元のスマホや携帯を駆使して、来たメールのチェックに余念がない。見ていて本当に情けなく思う。
人と繋がっているということは、そうしたやりとりでしか確認できないのかと思う。人と繋がるということはそんなメールや、フェイスブックでの「いいね!」の有無や多寡ではないと断言する。
遠くにいて会えないときでも大事に思う人はいますか。向うはどう思ってくれているかはわからないが、我にはそうした人が少なからずいる。そのことを誇りたい。
俗に、真夜中に書いた手紙は出すなとか、夜書いたものは朝もう一度読み直せと説かれている。それは真実で、確かに夜中や深夜に心の内を綴ると、内省的ならまだしもたいていはネガティブな後ろ向きの内容となることが多い。
このところのブログも夜書くことが多く、しかも頭痛がひどい中、苦しい胸の内を吐き出すように記している。一夜明けて朝の光を受けて読み返すと、何とも恥ずかしいかぎりだが、今の気持ちとはかなり違っている。ならば夜など何も書くべきでないと自戒するものの、まあそれはそのとき書かざる得ない事情や気持ちがあるのでご容赦頂きたい。
2月8日、月曜の朝である。また新しい週が始まる。老親たちのことはともかくも病院通いとかなくなったので、ようやく腰据えて自らのことに向き合える。今週中に溜まりに溜まってしまった連絡事項など片づけて、まず27日の、中川五郎氏の「反戦歌」ライブを成功に導いていかねばならない。
まあ、今の五郎氏の勢いなら、非力な我が宣伝しなくともそれなりにお客さんは入るかと想像するが、ソロコンサートではないのだから、この企画自体を意義ある、しっかりしたコンセプトに基づいたものにしトータルに観客に示さねばならない。それこそが、企画者の役割であり、プロテストソングを半世紀の長きにわたって歌い続けて来た偉大な人を真に尊敬し讃えるべくその全姿をあますところなく表現できるよう場を整えなくてはならない。
うだうだ我が家庭の事情などにかまけている暇はなかったのだ。朝の光を受けてようやく気持ちは戻ってきた。そのうえで、昨晩書いたことの続きを少しだけ書きたい。朝の散歩で考えたことだ。
家庭とか家族というのは実に難しい。動物には、生殖の時だけ出会い、あるいは子育て期間だけ共に雄雌が暮らし、後の期間はばらばら、個々に暮らすという形態が多い。
一方猿類もだが、高等生物になるにつれて、そこに群れとか家族という「集団」の考えが入って来る。人間に至っては、いったん出会ったパートナーとどちらかが死に別れるまで生涯の長きにわたり一緒に暮らす。
それが結婚であり、家庭を作ることであり、家族を持つということだ。
そこにはおそらく社会的理由が存在しているのであろう。男女の分業が確立し、男は外で働き、女は家庭で料理や子育てなど内助の功を発揮し、それぞれの役割が決まっていった。それは昔は必然的なことであり間違いではなかった。
が、今日では、仕事も含めて社会的役割には男女の差はまつたく関係ないはずだし、内助の部分でさえも男女の違いは単に女は子を産める、男はそのための精子を提供するというだけの違いでしかない。
そして生まれてくる子供は人間の場合、牛や馬のようにすぐに自分で立ち上がり乳をのむように手がかからないタイプの真逆で、親や大人たちの介護がないかぎり一人ではすぐに死んでしまう。
となると、彼らが一人で生きていくだけの大きさに成長するまで親たちはひたすら世話し面倒をみないとならない。
人間の場合は、一人で餌をとることは、自ら就職して金を得ることと同義だから、けっきょく成人し仕事に就くまで親の役割は続く。しかし、親と子の関係はそこまでで良いのである。
後は他の動物たちと同じく、居心地の良い「家」を出て、自ら稼ぎ一人で暮らしやがては異性のパートナーをみつけ親たち同様また家庭を築けば良いだけの話だ。それを古来から人間も動物として続けて来た。他の動物なら成人してしまえば後は親子といえども没交渉であろう。
が、人間は、その後までも、代々家族は続いていくものだと考え、一族という縦の血縁による時系列を大事にしてきた。親は子を作り、子はその孫を産み、さらにその上には祖父母も存在し互いに関係を持ち続けていく。
いくら核家族が進んだとしても、離れていてもその血を分けた家族という概念は消えてなくならない。
そして今一番の問題は、若き日に親が子を産み育て、成人まで面倒みたように、老いては逆に、今度は子が親を死ぬまで面倒を見ないとならないということだ。
むろんそれは義務ではないし法律で決まってもいない。また、人間でも西欧諸国などでは、個人主義が進んでいるから、老いても親は親だけで暮らし、子の世話にはならない、子も面倒を見ないという風潮が一般的だ。翻って、このアジアの、日本社会では、国家が個人を管理はしても世話しないのが当たり前だから、最終的には、パートナーの片割れが、そして子が、ときに孫までが老いた者の最後を看取る。
西欧で言うところの養老院的、社会基盤ができていないこともある。長くなるからその違いは簡単に説明できないが、要するに、諸外国では、土地も家も不動産資産は、個人の所有ということは少ないから、そのぶん国家に余裕があり、老人は国家に結果として付託した自らの資産で老後の面倒を見てもらえる。消費税が高い分だけ、社会保障、福祉はきちんと充実している。
日本の場合、基本すべては自己管理、自己責任だから、金のある人は、子の世話などにならずとも自らの資産で、生涯型特養など快適な終の住処に入ることもできる。が、年金でかろうじて生活している低所得層の老人はそれはかなわない。結果として、家族が面倒みないとならない。いや、最終的には、認知症などが進めば、家族は介護を断念し金はかかっても老人専門施設に親たちを入れざる得ない。
それが正しいとか、こうした社会の仕組みの是非については今考えない。ただ、確信をもって今思うのは、人は夫婦という男女であれ、あるいは同性であろうとも、別に常に一緒に暮らさなければならないわけではないのだ。
互いに大事な人だと、思いが、魂が繋がっていれば別に生活を共にせずとも何も淋しくないし、逆にたまに会って一緒に過ごすときの喜びは格段のものとなろう。友遠方より来る、楽しからずや、と古来中国の詩人はその喜びを巧みにたくさんの詩にうたっている。
まして親子とは、血が繋がっているのである。濃い血で繋がっているのだから、共に一緒につねに暮らさなくとも、離れていても互いのことは感応しあえる。
本当に大事な人とは、一緒に暮らすべきではない。今の人は、暇さえあれば、人と会って話しているときでも、手元のスマホや携帯を駆使して、来たメールのチェックに余念がない。見ていて本当に情けなく思う。
人と繋がっているということは、そうしたやりとりでしか確認できないのかと思う。人と繋がるということはそんなメールや、フェイスブックでの「いいね!」の有無や多寡ではないと断言する。
遠くにいて会えないときでも大事に思う人はいますか。向うはどう思ってくれているかはわからないが、我にはそうした人が少なからずいる。そのことを誇りたい。
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