死に行く者、死んでいった者たちから学び得たこと・22017年04月09日 07時37分11秒

★死にはそこにどんな意味があるのか

 先に母を看取り見送り、そして今またほぼ同様にして愛犬の死を看取って「死ぬ」ということはどういうことか、ようやくはっきりわかってきた。
 いや、死自体はこれまでも何度も遭遇しているからおおよそどんなものかは理解してるつもりだった。が、その実質的「意味」は何一つわかっていなかった。

 人の場合、この世に何もなかった段階から、あるとき受精して母体の体内に宿り、胎児となり赤ん坊となってこの世に生まれて登場するまでだって約10カ月もかかる。
 しかもその赤ちゃんはまさに非力で、自らでは何一つできず生きていけやしない。馬や鹿たちの類のように、生まれてすぐに立って乳を吸うなんてできやしない。その母や周囲のものたちの手厚い介護があってはじめて生きていけるのだ。
 そしてそれからでも身体がほぼ成体となるまで10年以上も時間を要する。自ら一人で社会的にも生きていけるのには、最低15年はかかるのである。

 そして成人し社会に出て、やかでは結婚したりそれぞれ家庭を作りまた自らと同様に「子」をつくり育てたりする。そして人間関係も含め有形無形のものが膨大にその人の周りには増えていく。食物はさほど持たなくとも衣類、住居など生活に関する物は人生の長さに比例して増え続けていく。
 元々、一番最初のスタートの時点では、何一つ持たずに、完全に無力で生まれて来た者なのに、いつしか膨大な物と関係たちを抱えている。
 「死」とは、そうした増え続け、抱え過ぎた物ものを全て放棄し失うことであり、また元の状態へ戻していく作業だったのだ。そう、元々何もなかった状況へ、何一つ持たずに生まれて来た身一つの状態へと。
 死の苦しみ、死に至るための心身の苦痛とは、そうして元に戻す、生きていく間に溜まったもの、蓄えたものを失くしていく作業ゆえ苦しいのである。

 人と違い犬猫なんて、数か月で生まれて人間の四分の一程度の長さしか彼らの「人生」はないと思える。が、彼らだって何も生涯持たずとも、飼い主である人間との長い関係を積み上げていく。
 特にブラ彦のように、進行性の病はなく、ただ単に長寿の末に老衰死を待つだけであってもなかなか簡単には死ねなかった。
 じょじょに食べられなくなり、骨と皮と化しても、体内に残っている栄養素、生命エネルギーを完全に空にしない限りいつまでも心臓は動き呼吸は止まらないのであった。
 母の最期もそうであったが、完全に命の素を空にして、すっからかんにしないとあの世には行けないのである。そのために胃液を吐き糞便を出し尽くしすべてがまた無に戻したときにやっと臨終となるのであった。
 むろんのこと、この世には事故的突然死も数多存在する。病気でも心臓や脳に突発的ダメージを受けて脳梗塞、心筋梗塞といった病で、急死する人だってかなりいる。
 しかしそういうケース以外は、老いても老いなくても病や老衰によりじょじょに痩せ衰え最後は、全機能がダメになり命が尽きてついに、必然的に死ぬのであった。
 ようやくそのことがわかった。

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