たった一度の選挙でも流れがすっかり変わる~希望をもって生き続けていこう2017年07月04日 23時23分15秒

★さあ、ここから反転攻勢だっ!

 今、台風が来ている。一昨日昨日と7月に入ったら夏本番の連日最高記録更新の猛暑となり、身体が慣れていないこともあったが、あまりの暑さに我はもうどうにかなりそうだった。
 冷房入れても広くモノが一杯の部屋はちっとも涼しくならないし、じっとしていても汗が噴き出るので、仕方なく日に何度も水風呂に入り体を冷やして何とか体温を下げて乗り切った。
 今日は、速度の速い台風第3号がほぼ日本列島に沿って北上して来ていて、関東地方は夕方から一時期かなり強い雨が降った。が、今は、たぶんもう千葉方面へと通り過ぎたのか、雨も小降りになってきている。代わりに北東側からの風があり、それはひんやりとしてほてった顔に心地良い。
 台風により今回の暑さもいったん和らぎ、風向きも変わった。先のことはわからないがこの暑さは今は過ぎ去った。

 そう政治の世界はついに風向きが変わった。2日投開票の都議選の結果を受けて、自民党執行部、首脳陣が集まっている映像では安倍晋三も含めて皆誰も暗く深刻な顔で俯いている。笑顔は一つも見られない。まさに、ざまあみろ、思い知ったかという気持ちになる。
 たった一度の選挙、しかも国政レベルではなく東京都議会という一地方レベルの議会選挙でもここまで自民党が大敗すれば、そこに誰もが「民意」を読み取る。その「民意」が示されたことにより、どのマスコミも報じているが、安倍政権の今後の青写真の再考、政権自体の先行きが怪しくなってきた。
 晋三が目指す、これまでの勢いでの2020年の憲法改定も果たしてどうなるか赤信号が灯った。今、彼ら政権側はいかに、都議選記録的敗北、支持率急低下という危機を乗り越え再び高い民意の支持を取り戻すかだけで頭が一杯であろう。
 変わってしまった風向き、逆風を再び彼らにとって追い風にしない限り、次の国政選挙でもまた大敗北し政権退陣の憂き目にあうかもしれないのである。さすれば、晋三が目論むすべての野望は水の泡と化す。どのようにしてイメージ回復、支持率挽回できるか、「風」を再び追い風に戻せせるか彼らは今そのことだけしか考えにない。

 つくづく思う。まさに政治の世界は一寸先は闇だと。そして昔から日本で言われていた真理のことば、「驕れる者は久しからず」だと。
 我はずっと小池百合子の新党「都民ファースト」に対して冷やかな立場をとってきた。彼女も含めてこの政党はまだ信頼に値しないと。
 その考えは今もまったく変わらないが、ただ一つ大いに評価すべき点もある。それは、この新党があったことにより、風向きが変わったのだと。それもこれも都知事の並外れた政治手腕、才覚だと高く評価する。

 数の力に驕り無法と非道の限りを尽くす安倍政権に対しての都民=国民の怒りの受け皿として、都民Fがなかったら、残念ながら今回の都議選は、またしても自公ら、現政権与党の勝利に終わっていたのではないか。
 むろん怒りの受け皿として共産党だけはもっと増えただろう。しかし、国政と同じく他の野党と選挙協力したとしてもやはり盤石の自公タッグには及ばなかったのではないか。これまでの国政選挙と同様に。
 小池都知事は、まず自ら率いる党の体制をしっかりつくったうえで、その自公のタッグを分断、都議会公明を味方につけ自民党を孤立無援にして自民党だけを追い落とす戦略を立てた。何という策士だろうかこの女。
 そして、安倍政権に怒れる国民の受け皿として、都民Fは大躍進し、自民党は記録的大敗、一人負けとなった。

 マスコミは安倍政権に対する怒りや批判が爆発したと報じているが、正しくは、彼らは愚かにも自滅しただけなのである。つまり度重なる疑惑と不祥事、失言などで皆が呆れうんざりし距離を置き始めたとき、選挙があり、そこに共産党や民進党、および従来の野党共闘ではない「新党」があった。で、自民に代わる新たな、もう一つの選択肢があったので、それに投じたのである。
 そして自民は大敗し流れが一気に変わった。今、その存在役割として「都民F」と小池都知事の英断に我は真摯に心から感謝している。残念ながら従来の野党が、しかも内部の足並みが揃わない迷える民進党を交えての野党共闘が成立しても先の都知事選のような結末にしかならない。
 風を変えるためにはこれまでとは違う新たな風が吹くしかなかった。民主党=民進党では、残念ながらもう期待も信頼も多くの人は持てないのである。彼らや共産党ではない新たな「もう一つの選択」を国民の皆が待ち望んでいた。それがあれば、多くの候補者が何の政治経験がないとしても都民は、国民はそちらを選ぶ。
 
 自民党、安倍政治には実はもう誰もがうんざり、こりごりなのである。これまで支持してきたのだって、他により良い、期待が持てる選択肢がなかったからに過ぎない。他に任せられないから自公に任せて来ただけなのだ。今、そこに、やり手の女性都知事率いる新しい政党が出来たならば、今度はそれに期待してみようと誰でも思う。それが人心であり、ごく当然だと今はっきりわかる。

 果たして彼らが、真に都民のために、国民のためにしっかり当たり前の政治をしてくれるかそれはまだわからない。政治の世界はさまざまな新党ブームがあり、政変が起き、政権すらも交代した。
 しかし、結果としてその新たな選択肢は恒久的なものにはならず、すぐさま馬脚を現し、日本新党が、旧社会党が、そして民主党がそうであったように、また老舗自民党に政権は戻るのである。
 それが正しいからだとは思わない。自民党こそ常に旧態依然、戦前回帰のどうしようもない旧い体質は老いも若きも持ち続け、財界、大企業優遇、金持のための政治を邁進、庶民は重税で苦しむことは変わりない。今はそこに、さらに軍事力を増し海外に出て戦争もできるという新たな可能性が増しただけだ。

 そんなどうしようもない党だが、この国では昔でいう庄屋や名主、町内会役員や農協、神社などと深く結び付き、いわば国民にとって、パソコンでいう「初期設定」、つまりデフォルトとなってしまっているがゆえ、パソコンの調子が悪くなってリセットするのと同様、また自民党に戻ってしまうのである。
 また、最近の若者は、そもそもスペックが格安にできているから、初期設定が自民党になっていて、他のアプリになかなか変更がきかない。だから不具合がなかろうとけっきょく皆自民党になってしまう。
 それが使いやすいとか最良だからではない。それしか設定先がみつからないからに過ぎない。

 我もマイクロソフトのOS、ウインドウズ使っていて、常にその不具合と使いにくさ、会社の側の身勝手さにうんざりしている。マックユーザーからはつねに、マックの素晴らしさ、自由さについて聞かされ、そちらへの移行、変更を誘われている。が、長年こちらを使い慣れていると、新しくパソコンを導入せねばならないときもついまたウインドウズを選んでしまう。
 今も自民党が支持され、おそらくこれからもまた回帰のときがくるとしたら理由はそうしたものに近いのであろう。昔から慣れ親しんだものとはなかなか離れられない。結局また元に戻ってしまう。それ以外、ましていきなり共産党という選択肢は今もまだいろいろハードルが高いのだろう。まあ、パソコンと政治はぜんぜん別次元のはなしであるのだけれど。

 話を戻そう。この都議選、小池都知事率いる都民ファーストが出たことで彼らは大勝し、自民党が記録的大敗した。そして一気に政治の流れ、風向きが変わった。自民党も国政レベルで今後の戦略を練り直さねばならなくなった。支持率も逆転してしまった。たった一回の選挙でだ。
 国会前の集会で知り合った友人だが、このところずっと何度選挙しても自公が大勝し、どれほど多くの人たちが国会周辺に集まりいくら抗議の声を上げようと次々と悪法が成立していく情勢に絶望し、無力さのあまり鬱的心境になっていると連絡がこの前あった。
 その人とは疎遠気味で、今この新たな情勢にどうお気持ちは変わったかわからないけれど、ある意味その心境わからなくもない。
 が、我のように栃木県谷中村出の祖父母の代からずっとずっと国家権力の前に負け続けて来た者としては、いつだって絶望なんかしなかった。仕方ないともそれが当たり前だなんて思わない。誰だって勝ちたいと強く願い行動している。
 しかし、そもそも数の力も含めてすべてが彼らの方が上なのだ。金も権力も読売やサンケイのようなマスメディアすら持っている。我ら対抗する者は何一つもっていない。この身と魂とその思いだけなのである。彼ら強大絶大な、政財界をバックにつけた国家権力に勝てるはずもないのだ。勝てると期待してはならないのである。
 だからといってそうそうに諦めて彼らに従い戦争も含め「悪事」を認め許し、加担するのは人の道に反する。道理がないことに従うわけにはいかない。それでは人間ではない。奴隷である。「内心の自由」は外に発揮してこそ真に自由になろう。

 どんな時代、どんな理由があろうとも人を殺すことは殺人で犯罪であろう。しかし戦争ではそれは犯罪にはならない。敵国人を一人でも多く殺した者は英雄となる。そんなバカな話はないし、(戦時とは)それが仕方ない時代だったとされる。ならば、そんなバカな時代に絶対に戻してはならないはずだ。
 沖縄にまた新たに戦争のための軍事基地は作らせない。戦争を繰り返してはならない。そういう当たり前の思いで、今も非力ながら我の知る仲間たちはゲート前で座り込みを続けている。小さなカヤックで海に出て埋立てに抗議している。それはまったく非力であり、国家挙げての基地建設推進の前には何も阻止できない。
 しかし、権力の横暴に対しその、常に抗議する人たち、抗う者がいるということこそが、歴史を長い目でみたときに大事なのである。

 原発事故もだが、全ては起きてからでは遅いのは言うまでもない。それが時代の流れだとしても、常に抗う者、反対の声を上げる者がいたかいないか、それが重要なことなのだ。
 何よりもいちばんいけないのは、どうせ勝てないからやってもムダだという諦観と絶望であろう。反対しても声を上げなかった者は、同意したとみなすとされるとしたら、どうであろうか。
 じっさい、選挙でも棄権は、どういう結果にも全権委任なのである。選挙に行かず、今の政治腐敗を憤るのはバカも極まりと言うしかない。

 先のことはわからない、都民Fがやがて国政に出、もしかしたら政権さえ手中に収めるかもしれない。小池首相の元、この国がもっと自由に、国民一人一人がもう少し豊かに安全安心に暮らせていければと願う。
 が、新党即崩壊の前例通り、やがて党の議員から不祥事が続いたり、あるいは先の民主党政権のように迷走し支持率は落ちまたしても自民党が支持率を戻して復活していくかもしれない。
 しかしどんなときでも期待ではなく「希望」を持とう。期待すれば、かなわないときは裏切られる。希望とは絶望の対局にあり、すぐ目の前でなく、もっと遠い先、闇夜に灯る光のようなものだ。

 このまま安倍政権が一気に崩壊していくことはありえない。彼らはまたさらに必死で政権維持のためさらなる暴挙と妄動に出てくることであろう。そしていつしかまた支持率も回復して、安倍独裁政権は、声高高、新日本国憲法を奉るかもしれない。

 先のことはわからない。追撃の手を緩めないことも大事だが、だからこそ、日々一喜一憂することなく、たとえどんな圧政下にあろうとも「驕れる者も久しからず、こんなことはいつまでも続くはずがない」と呟きながら、心に希望の火を灯し続けていこう。
 その真理の光の下に人は集い生きていく。