「新しい行動様式」に抗っていく・中2020年05月21日 11時11分42秒

★うたをなくしたカナリヤは

 コロナ禍後のこの国には自分の居場所がない。ならばどうするか。
 このところずっと考えていた。

 むろん開き直って、「要請」もどこ吹く風で、どこそこのパチンコ屋のように臆面なく開き直ってやっていくこともできなくはない。世間から人でなしとか、非常識、非国民と呼ばれるのは今さらのことではないし、元より我は世間から落ちこぼれた異端者、アウトサイダーだったのだから、真っ当でない道を突き進むという選択肢もあった。
 が、我が望みこれからもやっていこうとしていたこと、「共謀コンサート」も含めてライブ企画活動ができないならば、何もこの町で、この場所で息苦しい思いして暮らしていく必要はないではないかと考えた。

 幸いにして我には今、山梨県の峡北、長野に近い北杜市の山里に倉庫としての古民家がある。
 そこは八ヶ岳山麓、人よりも猿や鹿のほうが人口が多い過疎地域で、行くたびに猿の姿は見かけてもニンゲンには一人も逢わないということがままある集落だ。もともと若い頃より不登校の引きこもりであったのだから、齢60過ぎて新行動様式になじめずに山中に再び引き籠るというのもありであろう。もう一切の社会的活動は終わりにしてだ。誰とも関わらないから自由に好きに生きられるはず。コロナ対策は一切関係ない。そう真剣に考えもした。

 詩人で彫刻家の高村光太郎は、敗戦後、戦争協力者としての負い目もあって、単身、岩手県の寒村、それも山中に移り住み、独居して一人で農耕暮らしを60を過ぎてから10年近く続けた。愛妻、千恵子はとうに亡く、たった一人でのほぼ自給自足の生活である。あたかもあの『森の生活』のD・ソローが如く。しかもソローよりも長く。
 我ももはやコンサートなどの音楽活動ができないのならば、光太郎に倣って、その地で荒れ放題の畑を手に入れて、野菜類は自給し、月に一度ぐらい麓のスーパーで肉や魚など生鮮品は買い求め、あとの生活必需品は宅配に任せて、犬猫たち連れて本格的に移住することを夢見た。※今いるこの家は、売るか誰かに貸すとして、収益を得るすべとして。
 が、まだ我には老いた父がいる。病院らしい病院は麓に一つしかないその地では父を連れていくことはできないし、その地にどれだけ老人介護施設などあるか定かではない。
 いまさら引っ越しの手続きや準備している間に父は死ぬか、病院に担ぎ込まれることは間違いなく、その計画は時期尚早だと考えなおした。
 ならばここで、この場所で何ができるか、なにをすべきかだ。

 むろん昨今、多くのミュージシャンが始めたように、ライブ配信やYouTubeなどネット上に、楽曲や活動の様子そのものをアップしていくという手もある。場合によっては、それでうまくしたら有名ユーチュバーのように人気を得て、コンサートの企画なんて比べられない程金儲けすることもできるかもしれない。
 いや、何よりも今よりももっと圧倒的に多くの人たちとZoomなるシステムを使えば「共謀」できると事情通の方からはご教示頂いた。それはそう難しいことでも手間でもないらしい。

 しかしどうなんだろう。それは自分が本当に望んでいることか。その「新しい様式」は。
 
 西条八十が児童雑誌『赤い鳥』に寄せた『金糸雀』は、すぐにメロディが付けられ今日でも多くの人たちに唄い継がれている。俗に、♩うたを忘れたかなりやは~ で始まる佳曲である。
 ならば、我にとっては、うたをなくした、いや、うたの場を失くしたカナリヤであろうか。

 うたの場をなくしたかなりやは、どこへ行けば良いのであろうか。忘れたうたや失くしたうたはやがて再びみつかるかもしれない。が、失なってしまった場はどこへ行けばみつかるのであろうか。
 ならば自らつくるしかない。それしかないのではないか。

 小雨まじりの肌寒い曇り空の下、今日はひっきりなしにオスプレイが横田空域を飛び交っている。そんなことを考え続けた。

※ちなみに昨年2019年は、その「かなりや」以来、童謡誕生100周年であった。