「新しい行動様式」に抗っていく・後2020年05月23日 23時50分14秒

★緊急事態の「解除」にみる、日本特異の「同化の文化」

 アベノマスクがやっと昨日5/22日にウチに届いた。宛名もなくポストに投げ込まれていた。やっとウチにもか、である。
 菅長官は、この政府決断の一世帯全てに二枚づつの布マスク配布を、マスク不足解消に大いに役立ったとその効果を自画自賛していたが、我はそうは思わない。

 確かに今はあちこちの店舗でまだ高額ながらもマスクが出回りはじめ皆が購入できるようになってきているが、このアベノマスクとは何も関係ない。
 せめてこれが一か月前に日本全土の全世帯に届いたならば確かにマスク不足に一定の効果や役割もあったかもしれないが、やっと今さら、もはや5月も終わりである。それも中国から品質はともかく大量にマスクが入るようになって来てから一世帯ごとにたったの二枚のマスクで何の効果があろうか。しかもこれもまた国民の税金なのである。誰がこんな愚行を望んだか。
 トランプ氏と我はマスクはしない生活スタイルだからこんなものそもそも不要であるし、開けてもないがこれは確かに小さい。これを付ける人、有難いと喜ぶ人はいるのであろうか。

 さておき、このところ東京でも感染者数が激減してきたこともあって、どうやらまずは(ひとまず?)緊急事態宣言は解除となりそうだ。週明け25日にも当初予定の今月末を前に、そう発表されるとの報道が流れている。
 何はともあれ歓迎したい。誰でもだろうがもう「自粛」はウンザリだ。そしてそのうえで今思うこととこれからについて考えたことを記す。

 人は、危機において、非常時こそ、その人の本質が現れるとされる。
 このコロナウィルス流行騒動が無事このまま収束に向かうかはともかく、仕事も生活も含めその影響を受けなかった人は誰一人いないはずだ。そして誰もがこれまでとは異なる、新たな生活スタイルを強いられている。とうぜん様々なことを考えたはずだ。
 我も、日本人の一員ではあるが、この日本社会の特異性について、いや、それこそが日本人独特の社会意識なのだろうが、今さらながら深く思い知った。そして自分はそこに入っていないということも。
 
 クリスチャンであり、長くフランスで暮らし、最後はその地で客死した哲学者森有正は、フランスという最も個人主義の国から、役に立つものは何でも受け入れていく日本の「同化の文化」を指摘しているが、この「同化」の意識が今回コロナウィルス流行下こそ、はっきり示されたと思える。
 つまり法的に強制されなくても、上からのただ「要請」であろうと、国民誰もが従いやっていることは、その効果の真偽や有無はともかく日本人は皆守り粛々と従うということだ。それは感染拡大防止という意識以前に、この国独自の「同化の文化」によるものではないか。
 結果として誰もがどんなに暑くてもマスクを付け、手洗いを徹底し、人との社会的距離をとって生活するようになった。その「不便」に異論は出ず、抗議活動は起こらない。政治家たちも与党野党問わずマスク姿で臨むようになった。
 そしてそのことが政府の後手後手の感染対応策においても一定の拡大阻止の効果となって現れ、潜在的感染者数は多いはずなのに他国のように爆発的感染者数、そして者の数に現れることなく「収束」に向かうことができた。これはまさに感嘆し敬服に値すると思う。
 生真面目で潔癖かつ神経質な日本人だから成し得たと思う偉業であろう。皆が我のようにずさんでだらしなかったらもっともっと感染者は増えてパンデミックなるものがあちこちで発生していたことだろう。

 日本という国家は、四方を海に囲まれ、しかも何百年もずっと単一政権によって民は支配されてきた、ある意味一強独裁国家であったから国民は、皆同化の意識が強かった。建前として四民平等、いわゆる「横並び」である。
 出る釘は打たれるという諺もあったし、悪事をしでかしたり集団の秩序を乱したり「掟」に従わない者は、古来より「村八分」にされたり集団から石もて追われる啄木一家のような目に遭った。
 が、我は思う。では、人と同じ、他者と同じ行動をとるということは、そもそも善なのか正義であろうか。他者と違うことをする者は、悪なのであろうか。ことはそう単純なのか。

 フランス語に、ユニックという言葉がある。uniqueと書く。これが日本語で言うところの「ユニーク」の語源で、意味は唯一の、とか独特の、といった意味で、あの人はユニックだという場合は、オモシロイと言う意味ではなく、良い意味で変わってるという「評価」である。※衣料品店「ユニクロ」の語源、ユニーク・クローゼットの「ユニック」でもある。
 徹底した個人主義のかの国では、人と違うこと、人と同調しないことは善、正義以前に当然のことであり、そもそも「ひとそれぞれ」であり、ひと頃この国でも流行った言葉「みんな違ってみんないい」のである。
 自分の正義と共に、他者の正義、つまり違っていても言動や考えを認め尊重していく。それが正しい意味での近代個人主義であろうし国際的常識ではなかろうか。そう、ヒトはそもそもみんな違っているのだから。

 が、翻ってこの国の場合、あの人はユニークだから、という評価は、多かれ少なかれそこに一定の批判が含まれている。つまり人と同調しない、一緒の行動をとらないから、という同調圧力がそこにある。
 日本と日本人は、長年の「同化の文化」の中でそれが常識、当たり前だと思い込んできた。皆がすることは当然正しいし、それに抗ってはいけないと。
 周りの皆が大学に行けばとうぜん行きたくもなくても無理しても大学に行こうと考えるし、大学を出たらとうぜんの如く就職する。そして結婚し家庭を築き、子を産み育て社会の一員として種々の税金を納め規範を守っていく。それが善であり正義であると。「当たり前」のことなのたと。
 それに対して学校から落ちこぼれて家に引き籠ってたり、無職やフリーター的な者たちは、基本、悪ではないが、やはり「悪いこと」だと。事件を起こすのはそうした社会的脱落者たち、違っている人たちだと。
 しかし、モノゴトの価値や正義は多寡では測れないはずだし、大昔、漫才師時代のピートきよしこと北野武が言ったように「赤信号みんなで渡れば怖くない」ということすら起こり得るのである。

 そして今回も、このコロナウイルス禍、コロナとの国家を挙げての戦いの最中、店舗などの営業を自粛していない、集団の「和を乱す者たち」たちに対して、一方的に様々な脅迫や嫌がらせしたりする「正義の鉄拳」を下す輩も出て来る。「自粛警察」である。
 先日、どこそこのかなり年配の公務員がそうした「脅迫」の容疑で逮捕されたようだが、本人は、コロナへの恐怖心でついやってしまった、と話しているとのことだが、さもありなんと思う。
 非常時において、人は、恐怖と不安と、そこに「不満」が加われば、「同化」を拒む者、自分たちと違っている「他者」に対して何でもしてしまうものなのだと知る。かつて百年近く前にも、関東大震災直後、日本に来ていた朝鮮人たちをデマに煽られ多勢暴行、虐殺したように。

 しかし。それこそが日本人と日本社会そのものであり、良い面を見ればその気質ゆえ奇跡的にコロナを封印成功することもできたようであるわけで、百年経とうと日本人は何も変わっていないことが判明したことがわかったのは良いことだった。
 同時に、我がこれまで半世紀以上物心ついてから生きて来て、どうしてこの国で我は生き辛いのか漠然と感じていたその理由もはっきりわかった。そう、みんなが是とした「同化の文化」の中にそもそもいなかったからであった。

 コロナ禍後の、「コロナと共生していく新時代」という言葉がこのところよく聞かれるようになった。それはマスクを今夏も常に付け続けて、レジ並びや飲食店でも一定の距離を空けて、何もかも「三密」を避けていく生活を続けていくことであろうか。
 そしてそうした「新しい行動様式」下、我はどう何をしていくべきか。果たして再びコンサートなどの企画再開できるのであろうか。
 これからも油断大敵、気を緩めてはならないとして様々なガマンを強いてられていくのだろうか。

 三回で終わる予定だったけれど、もう一回だけ書き足します。これでは結論がない。