天国の門をくぐる ― 2011年04月09日 22時41分57秒
★親友の骨を拾って
人が生きていくことは、自らの死を迎えるまでに数多くの他者の死と出会うことに他ならない。しかもそれには年代があって、若い一時期は友人知人の結婚式ラッシュが続いたように、中高年、つまり老齢期に差し掛かると葬式が次々重なって一気に増えていく。
祖父母の世代はともかく親世代の死は四十代から始まり、もはや日常的なものとなっているし、少し上の団塊世代も立て続けに死んでいるが、今後は同世代、つまり友人知人たちの死が増えてくるはずと理解はしていた。しかし年下の友、それも50歳での死はあまりに早すぎる。今日の本葬で、彼と最後の別れの後、焼き場で骨を拾い、ようやく事態がはっきり認識できた。そう彼はもうこの世にいない。もはや彼が生きていた証はカラカラに焼かれた骨だけなのだ。
それにしてもつい先日、一週間そこら前に我が家に来てくれて、手術した母の容態とかを話し、気遣って心配してくれたその彼がもはやこの世にいないとは誰が予想しえただろうか。あのときはまったくいつもと変わらず元気であり、当人さえ自覚も意識もしていなかったのに、その日から4日後の夜自宅で急に胸が痛いと苦しみ出し、救急搬送された病院で約1時間後死亡が確認されたという。ほぼ即死であった。
病名は、聞き慣れない「大動脈乖離」だと知らされたが、大動脈という心臓から出る太い血管の中の内側の層が剥がれてしまう病気だそうで、起きたらほぼ助からないという難病であった。
この突然の死は家族にとっても親族にとっても友人知人、職場である学校の人たちにとっても東北大震災以上のショックであった。それは誰より当人にとって予期しえぬ不慮の死であり、その無念さはいかほどであっただろうか。またその苦痛を思うと言葉もない。
増坊にとっても昨日は気持ちが収まらず一日頭がぼーとしてしまい何一つ考えが纏まらず彼を思うと涙が止まらなかった。通夜から戻ってもなかなか寝つかれず、朝も早く起きてしまいそれからはもはや眠れなかった。
そして今日午前10時からの告別式と最後の初七日の法要まで一連の儀式を終えて、3時過ぎ高校時代からのミニコミ仲間を同乗させてこの町に帰って来た。一時間ほど仮眠とってから本の発送などした。
今日も式の間さんざん泣いて涙も枯れ果てたということもあるが、今は心も落ちついてようやく友の死を理解し受け入れられるようになった。哀しく残念至極であるが、つい先日元気にウチに来てくれた彼はあっけなく死んでしまった。もうこの世にいない。もう現世では二度と会えない。
誰が言ったか、人の価値、つまり生きていたことの真価はその人の葬式で測れるとのことだが、まったく今回の葬儀は、式場も日の出町の山の中で、交通の便も天気も悪かったのに、実に沢山の、しかもお義理で来た人は一人もなく、お通夜は彼が教えていた中学生らも含めて実に数百人もの焼香待ちの人の列が数十分も続いた。会場のあちこちですすり泣き、泣き崩れる人も沢山見かけて、いかに皆に慕われ愛されていたか思い知らされた。もちろん現役の教師の突然の死ということもあろうが、来た人は心から彼が好きで、その突然の別れを知り悼むために慌てて何が何でも駆けつけたという人たちばかりであった。
また今日の段払いまでも親族のみならず多くの友人知人、関わりのあった方が最後まで同席して盛況で、通夜は盛大でも本葬は客はまばらということも多いはずなのに、彼の人徳はさらに確認できた。会食の席で、誰が言ったか、彼こそ一番天国に入りやすい人だとか、彼が天国に行けなくて誰が天国に入るのかという声もあちこちで聞こえ、まったくだとまさに共感した。
誰にでも常に親切誠実で温厚篤実であったA君、生徒をはじめ多くの人たちに信頼され愛され必要とされた人。常に人のために親身になって考え身を削って尽くした人。今にして思えばその超多忙さが無理に命を縮めたのかと悔やまれる。
弟のように思っていた彼がいなくなってしまったことは本当に寂しいしとても哀しくつらいことだけれど、今日の告別式に出て、自分もまたようやくだが、どう生きるべきか、どう生きていくか改めて指針を得た。
彼の足元にも及ばないが、自分もまた彼のように生きたい。彼が生きたように人のために役立つよう生きたい。必要とされたい。天国の門をくぐるのは難しいが、どう生きるべきか確信を得た。
戒名などというものは不要だと考えてた自分であったが、彼のには深く感心した。
慈弦哲彩信士 これが彼の戒名である。シンプルにして彼の全てを言い表している。
人が生きていくことは、自らの死を迎えるまでに数多くの他者の死と出会うことに他ならない。しかもそれには年代があって、若い一時期は友人知人の結婚式ラッシュが続いたように、中高年、つまり老齢期に差し掛かると葬式が次々重なって一気に増えていく。
祖父母の世代はともかく親世代の死は四十代から始まり、もはや日常的なものとなっているし、少し上の団塊世代も立て続けに死んでいるが、今後は同世代、つまり友人知人たちの死が増えてくるはずと理解はしていた。しかし年下の友、それも50歳での死はあまりに早すぎる。今日の本葬で、彼と最後の別れの後、焼き場で骨を拾い、ようやく事態がはっきり認識できた。そう彼はもうこの世にいない。もはや彼が生きていた証はカラカラに焼かれた骨だけなのだ。
それにしてもつい先日、一週間そこら前に我が家に来てくれて、手術した母の容態とかを話し、気遣って心配してくれたその彼がもはやこの世にいないとは誰が予想しえただろうか。あのときはまったくいつもと変わらず元気であり、当人さえ自覚も意識もしていなかったのに、その日から4日後の夜自宅で急に胸が痛いと苦しみ出し、救急搬送された病院で約1時間後死亡が確認されたという。ほぼ即死であった。
病名は、聞き慣れない「大動脈乖離」だと知らされたが、大動脈という心臓から出る太い血管の中の内側の層が剥がれてしまう病気だそうで、起きたらほぼ助からないという難病であった。
この突然の死は家族にとっても親族にとっても友人知人、職場である学校の人たちにとっても東北大震災以上のショックであった。それは誰より当人にとって予期しえぬ不慮の死であり、その無念さはいかほどであっただろうか。またその苦痛を思うと言葉もない。
増坊にとっても昨日は気持ちが収まらず一日頭がぼーとしてしまい何一つ考えが纏まらず彼を思うと涙が止まらなかった。通夜から戻ってもなかなか寝つかれず、朝も早く起きてしまいそれからはもはや眠れなかった。
そして今日午前10時からの告別式と最後の初七日の法要まで一連の儀式を終えて、3時過ぎ高校時代からのミニコミ仲間を同乗させてこの町に帰って来た。一時間ほど仮眠とってから本の発送などした。
今日も式の間さんざん泣いて涙も枯れ果てたということもあるが、今は心も落ちついてようやく友の死を理解し受け入れられるようになった。哀しく残念至極であるが、つい先日元気にウチに来てくれた彼はあっけなく死んでしまった。もうこの世にいない。もう現世では二度と会えない。
誰が言ったか、人の価値、つまり生きていたことの真価はその人の葬式で測れるとのことだが、まったく今回の葬儀は、式場も日の出町の山の中で、交通の便も天気も悪かったのに、実に沢山の、しかもお義理で来た人は一人もなく、お通夜は彼が教えていた中学生らも含めて実に数百人もの焼香待ちの人の列が数十分も続いた。会場のあちこちですすり泣き、泣き崩れる人も沢山見かけて、いかに皆に慕われ愛されていたか思い知らされた。もちろん現役の教師の突然の死ということもあろうが、来た人は心から彼が好きで、その突然の別れを知り悼むために慌てて何が何でも駆けつけたという人たちばかりであった。
また今日の段払いまでも親族のみならず多くの友人知人、関わりのあった方が最後まで同席して盛況で、通夜は盛大でも本葬は客はまばらということも多いはずなのに、彼の人徳はさらに確認できた。会食の席で、誰が言ったか、彼こそ一番天国に入りやすい人だとか、彼が天国に行けなくて誰が天国に入るのかという声もあちこちで聞こえ、まったくだとまさに共感した。
誰にでも常に親切誠実で温厚篤実であったA君、生徒をはじめ多くの人たちに信頼され愛され必要とされた人。常に人のために親身になって考え身を削って尽くした人。今にして思えばその超多忙さが無理に命を縮めたのかと悔やまれる。
弟のように思っていた彼がいなくなってしまったことは本当に寂しいしとても哀しくつらいことだけれど、今日の告別式に出て、自分もまたようやくだが、どう生きるべきか、どう生きていくか改めて指針を得た。
彼の足元にも及ばないが、自分もまた彼のように生きたい。彼が生きたように人のために役立つよう生きたい。必要とされたい。天国の門をくぐるのは難しいが、どう生きるべきか確信を得た。
戒名などというものは不要だと考えてた自分であったが、彼のには深く感心した。
慈弦哲彩信士 これが彼の戒名である。シンプルにして彼の全てを言い表している。
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