世界は変わる、変えねばならぬと2012年07月16日 09時57分42秒

呼びかけ人として演壇に立つ坂本龍一。
★今こそ人任せにせず直接的なアクションを!

 よりによって今朝は朝から強い陽射しの照りつける快晴。10万人を超す人々が集まればいったいどんな暑さになるかと案ずるが、熱射病にならないよう各自気をつけて今日の集会を大きく成功させたい。日本の歴史に残る一日となるだろう。

 原発を何故に即時停止、廃炉にもっていかねばならないか、それは自らの安全や保身のためではない。長い目で見てこの国に澄む人総て、そして地球規模の危機に関連する大問題だからだ。

 日本の経済が停滞するから原発を段階的に徐々になくしていくという論を支持する人もいよう。だが、この国にはその猶予は有りえない。また近く巨大な「想定外」の大地震が必ず襲ってくる。そのときに脆い地盤の上に位置する老朽化した原発がいくつも稼動していたらこの国はそれこそ破滅に陥る。何百万、何千万人もの国民を非難させ受け入れる場所など地球上どこにもない。そんなことは常識的に考えれば誰でも想像できることではないか。

 最近よく思うのは人はいかに人のために生きられるか、である。こんな身勝手な不良が何を今さらと嗤われるかと思う。しかし、人の価値とはいかに大金を稼いだかでもなくテレビで人気を得たかでもなく、まして政治家としてエラくなれたかでもない。人のため、つまり社会のために何ができたか、何をなしえたかの一点のみだと信ずる。
 いくらスゴい芸術を一人家にこもって生み出したとしてもその人が社会との関わりがなければそれはしょせん砂上の楼閣で誰からも相手にされないし世間はそれを認めない。総ての芸術は社会の中でその価値を持つ。そして陳腐な言葉だが、一人は皆のために、皆は一人のために助け合い支えあって生きるのが人として生まれた者の使命なのである。

 今この国は、この社会は、そして地球は破滅に向かって突き進んでいる。それは人間の強欲がもたらしたものだ。それは誰でもそうした身勝手な欲望はもっている。我々は聖人君子ではない。ただの名前のない一市民だ。だからこそ、まず政治という統治システムを資本家、富裕層、支配層から取り戻して、安心して暮らせる、せめて子々孫々に原発と言う負の遺産を残すことのないよう今こそ行動で意思を示さないとならない。

 今ならまた世界は変わる。変えられる。そう貴方も私もそれを望むならば。
 夢見ているって言われるけれど、それは僕だけじゃない。世界中の人が手を取り合えば世界は一つになる。

これから出かける。デモはたぶん鳴り物入りの集団にいます。声かけてください。

 集会から帰ってきて続きを書く。

世界は変わる、変えねばならぬ・続き2012年07月16日 23時18分39秒

会場で見かけた外人参加者
★集会から帰ってきて続きを書く。

 それにしても今年いちばんの猛暑のさなか、ものすごい人出であった。10万人集会と銘打っていたが、もう原宿駅のホームに降りた時から代々木公園の広場に向かう人の波が続いていて、早くもこれは10万人どころではないと予想したが、実に17万人強の参加者であったとのこと。
 もうああなってしまえばどこからどこまでが参加者なのか誰も正確に数えられないからもしかしたら20万はいたかもしれない。代々木公園の周辺はどこもかしこも反原発の集会に向かう人たちでまさに立錐の余地もなかった。会場までたどり着くのだって一苦労汗みどろであった。

 強い日差しの下、こんなに汗をかいたのは、昔派遣労働で、炎天下にイベントのテント張りのバイトした以来だった。しかし、凍らせたドリンクをしっかり持って行ったことと時おり曇ったり強い風も吹き、木々の多い公園の中は木陰もあったので、覚悟していたほど暑くはなかったし体力的にも持ちこたえられた。ただ、帰ったら母から鼻の頭が日焼けして真っ赤だと指摘されたけれども。

 ちょっと気になったことを書く。
 今回の集会はいつも別行動をとることの多い共産党と全労連などその関係の労組、組織も全国から動員をかけたので、これだけの数が集まったわけだが、反面これは私感だが、そうした組織に属さない全くの個人での参加者がいつもの集会に比べて少ないように感じられた。、自然発生的にこうしたデモや集会に参加してきた子連れの若い夫婦や若者仲間のグループが今日はあまり目に入らなかった気がする。外人の姿も。まあ、これは自分が選んだデモコースの参加者の特徴かもしれず他の方向、渋谷方面へ流れた方々は一般参加の人が多かったようだ。
 それだけ総数そのものがこれまでの倍、それ以上だったから相対として少なく感じられたのかもしれない。自分は毎週金曜日ごとに続いている首相官邸前での抗議活動にはまだ参加したことはないのだがたぶんそちらはそうした一般層がメインではないかと想像する。

 そうした労組系の参加者であろうと反原発の思いは同じはずだし、この炎天下共に参加して共にデモ行進して有難く思ったが、ただ気づいたのは労組系の人たちは明らかに未組織の一般人参加者とはモチベーションの差が目立ち声も小さいかほとんど何も発せずただ黙々と歩くだけの人が多かった。むろん全体的に高齢で暑さでバテて、それだけの元気がなくなっていたということもある。しかし自ら危機意識にかられてこうした集会に参加し始めた人と所謂属している組合組織から動員かけられ来た人との差は如実であり、今回はそうした人たちの流れに交じって新宿駅まで歩いたこともあって、内心個人的には大いに不満であった。どうしてもっと大きな声でシュプレヒコールをしないのかと。その怒りを外に表さないのかと。

 これは反原発運動そのものの弱体化、もしくは実際に心底から反対して抗議活動している者は少ないということではなく、要するにデモ行進およびこうした対外的抗議活動、示威行為に日本人が慣れていないからだと考えた。つまり内面の怒りや思いをうまく外に出す術がまだつかめていないのである。
 今の若い人たちはライブパフォーマンスしてこうしたデモ行進を楽しみながらやっている。ガイジンも同じく。すべてのこと、どんな運動でも抗議活動でもどこかで遊び心とその内面にある思いをミックスさせて外に出せるか考えていかないとやがて飽きてきてつまらなくなって続かない。そうした思いをいかにうまく外に出していくか、昔ながらの多くの日本人の課題であろう。

 いつもは鳴り物入りの若者たちのグループに交じって大声を出し2時間も精根尽きるほど歩いてしまう自分だから今日は体調のこともあり無理せずに一番楽な新宿駅までの歩く行進に入った。ゆえにこうした不完全燃焼感が残るのかと思える。が、なにはともかく、90歳の元気な瀬戸内寂聴さんも生で見れたし坂本教授や大江健三郎氏ら多くの呼びかけ人が語ったことと出かけに自分が書いたことがほぼ近しかったので大きな確信が持てた。この17万人の大群衆の一人になれたことを今誇りに思っている。
 
 こうした人の輪をさらに大きく広げていきたい。
 
 奇しくもこの日、政府主催の発電量に占める将来の原発比率について国民の意見を直接聞く意見公聴会が名古屋で開かれ、その場で中部電力の社員が参加者として選ばれて発言し「放射能の直接的な影響で亡くなった人は一人もいない、だからこれからも原発は大丈夫だ」という趣旨の発言を臆面なくしていた。帰ってからテレビで観た。
 福島の事故を不幸中の幸いだとは考えずに、まだ死者が出ていないからこれからも安全だと言い切る傲慢さに開いた口がふさがらない。電力会社側がそうした甘い認識に立って過信する限りまた事故は必ず起こるし、死者の出る事故とは、数名で済む程度で収まるどころか起きた時は広島、長崎級の大災害になることは確実であろうが。

 政府はこうしたヤラセ参加者を「国民の声」だとして今より:原発に依存するエネルギー政策、つまり減らすどころか原発の新増設をもくろんでいる。これでは未来永劫原発はなくならない。より多くの国民が集会やデモ行進に参加して本当にもっともっと大きな声を上げていかない限り事態はさらに絶望的逆戻りなのだ。
 
 その危機意識をもっと共有してもらいたいと願う。