言論弾圧こそ戦時体制の前ぶれ ― 2015年06月26日 21時26分09秒
★何様のつもりか作家百田尚樹 アクセスランキング:178 位
当ブログをお読み頂いている方は、勝手ながら基本「同志」だと思っている。だから、わざわざ同意していること、おわかりのことは書いてもあまり意味がないと考えている。
つまり脱原発にせよ、戦争法案に対して反対の立場を表明するのもわざわざ改めてここに書く必要はないはずだし、せいぜい関連した情報を載せる程度にとどめておくべきだと思っている。
しかし、報じられたように、自民党の若手議員の勉強会での参加者と講師として招かれた作家百田氏の発言だけはどのようにしても看過することも許容することもできやしない。なので書く。
たとえそれが身内だけの気軽な集まりで、冗談として口がすべったとしても飲み屋や料亭での仲間内だけの与太話ではないのである。それは報じられ、どのような反響を呼ぶのか公的立場にある者は当然考えなければならない。
呆れ果てたと同時に、百田氏と同時代に生き同世代の者として本当に情けなく恥ずかしく思う。こんな人間が物書きとして、あるいは文化人としてマスコミにしゃしゃり出て公的立場で問題発言を何度でも繰り返す。かつての慎太郎もひどかったが、卑怯卑劣さと品性下劣さにおいて彼こそその後継者としてまさに相応しいとここに記しておく。
じっさいのところ、自分たちの思い通りにならない者たち、言うことに従わない者や反する意見を報じるマスメディアがあるのは政治家やその取り巻きにいる者たちにとってはハラワタが煮えくり返るほど憎いのであろう。その気持ちはわからなくもない。
しかし、だからその新聞をつぶさなければならないとか、企業に働きかけて広告収入を減らせばもっと言うこときくようになると考え実際そう言葉に出すとは、これはもう言論封殺以前に、独裁主義であろう。
つまり反対する意見や考えに対してはどのような手段を用いても弾圧してもかまわない、そうできると思っているのである。
むろん谷垣幹事長曰く、反論は自由であろう。ならばそもそもの言論もまた自由でなければならないではないか。それを封殺や弾圧すべきだと臆面なく身内の勉強会で各自が自由に口にする。それこそ本音が出た。
となるとじっさいにそれができないとしてもそれは恫喝ともとれるし、権力側にいる者たちが口にすればどういう効力があるかまずよく考えなければならない。
筆者マス坊は、こうした暴論、妄言が表現者である作家の口から出たことに心から恐怖する。つまり、彼は冗談だとか、口がすべったと慌てて取り繕うとも、自らと考えの異なる意見は弾圧してもかまわない、取り締まって然るべきと考えているとしたらこの男は作家ではない。国家権力のたいこ持ちでしかない。
うたであれ、小説であれ、詩や絵画であれ、表現というものはとことん自由であるべきではないか。読売やサンケイなど自民党に寄り添い、権力を讃えるメディアも多々あろう。しかし、全マスコミがそうであれば、この国は自ら客観性を欠いて再び体制翼賛、国家国民一丸となって何をしでかすかわからない。
ゆえに民意を報じ権力や体制側を批判するメディアが必要なのは自明の理なのである。それが社会の木鐸という言葉の由来だ。
正しい国家、それも民主主義の国とは、様々な意見が自由に発言でき、それを互いに尊重しあい、そのうえでできるだけ様々な考えがうまく反映されるよう議論を重ね政治を進めていくことのはずだ。
現実に世界にはそうしたシステムを欠いている歪んだ国家も多々ある。それは某隣国のような一党独裁であったり、一宗教原理主義に基づき、国民すべてが管理され弾圧されている状態だ。
百田氏の発言はそうした独裁国家へとこの国を進めろということであり、それが現実となったとき、彼のような作家は国民的作家としてもてはやされるかもしれないが、それこそ権力に寄生したダニのようなものでしかない。
かつて戦時下、日本の文壇にもそうした軍国日本のお先棒を担ぎ、戦意高揚を煽った作家はたくさんいた。そうした作家の哀れな末路を彼は知らないのであろう。
彼の小説が多少でも文学であり、芸術の範疇にあるのだとすれば、芸術に携わる者は、常にどんな時代でも反権力、反体制であるべきだと我は考える。あるいはまったく政治や世相とは距離を置き純粋芸術に向き合うべきであろう。
芸術家とはときの権力に寄り添ってはならない。まして表現の自由を取り締まれとか、弾圧せよと絶対に口にしてはならない。ならばそもそもこの男は作家でも芸術家でもないと思う。単なる頭の悪い下品な与太者だという認識でいたが、今回もまたそのことを証明してくれた。
表現や報道の自由を認めない者はそもそも作家でも表現者でも何でもない。振り上げた拳はやがて自らに下ってくる。百田氏は弾圧されてもかまわないであろうか。それとも我がペンは自由を求め、自らと反する他のペンはそれを認めないのはあまりにも狭量、人間として度量の小ささを曝け出したということだろうか。
今回の一件は、戦争法案を成立させようとしているやつらの心証をさらけ出し、じっさいに戦時下になればどういう状況が現出するか国民に示したと言えよう。戦争法案とは彼らにそうした国民弾圧の権力を与えることに他ならない。
当ブログをお読み頂いている方は、勝手ながら基本「同志」だと思っている。だから、わざわざ同意していること、おわかりのことは書いてもあまり意味がないと考えている。
つまり脱原発にせよ、戦争法案に対して反対の立場を表明するのもわざわざ改めてここに書く必要はないはずだし、せいぜい関連した情報を載せる程度にとどめておくべきだと思っている。
しかし、報じられたように、自民党の若手議員の勉強会での参加者と講師として招かれた作家百田氏の発言だけはどのようにしても看過することも許容することもできやしない。なので書く。
たとえそれが身内だけの気軽な集まりで、冗談として口がすべったとしても飲み屋や料亭での仲間内だけの与太話ではないのである。それは報じられ、どのような反響を呼ぶのか公的立場にある者は当然考えなければならない。
呆れ果てたと同時に、百田氏と同時代に生き同世代の者として本当に情けなく恥ずかしく思う。こんな人間が物書きとして、あるいは文化人としてマスコミにしゃしゃり出て公的立場で問題発言を何度でも繰り返す。かつての慎太郎もひどかったが、卑怯卑劣さと品性下劣さにおいて彼こそその後継者としてまさに相応しいとここに記しておく。
じっさいのところ、自分たちの思い通りにならない者たち、言うことに従わない者や反する意見を報じるマスメディアがあるのは政治家やその取り巻きにいる者たちにとってはハラワタが煮えくり返るほど憎いのであろう。その気持ちはわからなくもない。
しかし、だからその新聞をつぶさなければならないとか、企業に働きかけて広告収入を減らせばもっと言うこときくようになると考え実際そう言葉に出すとは、これはもう言論封殺以前に、独裁主義であろう。
つまり反対する意見や考えに対してはどのような手段を用いても弾圧してもかまわない、そうできると思っているのである。
むろん谷垣幹事長曰く、反論は自由であろう。ならばそもそもの言論もまた自由でなければならないではないか。それを封殺や弾圧すべきだと臆面なく身内の勉強会で各自が自由に口にする。それこそ本音が出た。
となるとじっさいにそれができないとしてもそれは恫喝ともとれるし、権力側にいる者たちが口にすればどういう効力があるかまずよく考えなければならない。
筆者マス坊は、こうした暴論、妄言が表現者である作家の口から出たことに心から恐怖する。つまり、彼は冗談だとか、口がすべったと慌てて取り繕うとも、自らと考えの異なる意見は弾圧してもかまわない、取り締まって然るべきと考えているとしたらこの男は作家ではない。国家権力のたいこ持ちでしかない。
うたであれ、小説であれ、詩や絵画であれ、表現というものはとことん自由であるべきではないか。読売やサンケイなど自民党に寄り添い、権力を讃えるメディアも多々あろう。しかし、全マスコミがそうであれば、この国は自ら客観性を欠いて再び体制翼賛、国家国民一丸となって何をしでかすかわからない。
ゆえに民意を報じ権力や体制側を批判するメディアが必要なのは自明の理なのである。それが社会の木鐸という言葉の由来だ。
正しい国家、それも民主主義の国とは、様々な意見が自由に発言でき、それを互いに尊重しあい、そのうえでできるだけ様々な考えがうまく反映されるよう議論を重ね政治を進めていくことのはずだ。
現実に世界にはそうしたシステムを欠いている歪んだ国家も多々ある。それは某隣国のような一党独裁であったり、一宗教原理主義に基づき、国民すべてが管理され弾圧されている状態だ。
百田氏の発言はそうした独裁国家へとこの国を進めろということであり、それが現実となったとき、彼のような作家は国民的作家としてもてはやされるかもしれないが、それこそ権力に寄生したダニのようなものでしかない。
かつて戦時下、日本の文壇にもそうした軍国日本のお先棒を担ぎ、戦意高揚を煽った作家はたくさんいた。そうした作家の哀れな末路を彼は知らないのであろう。
彼の小説が多少でも文学であり、芸術の範疇にあるのだとすれば、芸術に携わる者は、常にどんな時代でも反権力、反体制であるべきだと我は考える。あるいはまったく政治や世相とは距離を置き純粋芸術に向き合うべきであろう。
芸術家とはときの権力に寄り添ってはならない。まして表現の自由を取り締まれとか、弾圧せよと絶対に口にしてはならない。ならばそもそもこの男は作家でも芸術家でもないと思う。単なる頭の悪い下品な与太者だという認識でいたが、今回もまたそのことを証明してくれた。
表現や報道の自由を認めない者はそもそも作家でも表現者でも何でもない。振り上げた拳はやがて自らに下ってくる。百田氏は弾圧されてもかまわないであろうか。それとも我がペンは自由を求め、自らと反する他のペンはそれを認めないのはあまりにも狭量、人間として度量の小ささを曝け出したということだろうか。
今回の一件は、戦争法案を成立させようとしているやつらの心証をさらけ出し、じっさいに戦時下になればどういう状況が現出するか国民に示したと言えよう。戦争法案とは彼らにそうした国民弾圧の権力を与えることに他ならない。
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