死に行く人と生きていくこと・1 ― 2016年05月28日 23時22分52秒
★死ぬための新しい「生き方」を考えていく
妹は慌ただしく本日午後3時に九州大分へと帰っていった。父の病室に顔出してから立川駅南口まで送ってそこで別れたが、リムジンバスで羽田へ向かうとのことだった。
実家滞在わずか二泊三日であったが、ものすごい量の持ちきれないほどのおみやげを抱えての帰宅である。聞けば、職場用、ご近所用、親戚用と、数日不在にしただけなのに、おみやげは欠かせないのだとのこと。田舎だなあとつくづく思う。
そんな田舎に東京から嫁いでの苦労は今さら語ることも聴くこともないが、先にその嫁ぎ先の義父が風呂場で急死し、その後葬式までその家でやり終えた騒動はとてつもない苦労だったと今回初めて詳しく聴いた。
やはり認知症で、しかも心臓が悪かったその義理の父は、風呂に入ったものの出てこないからその妻、妹の姑が見に行ったら風呂桶の中でうつぶせになって意識がない状態だったという。
それから妹と義母二人で、風呂から担ぎ出し、すぐに救急車を呼んだが、既に死んでいて警察まで来て検視までする騒動となったと。
病院まで行き、死亡が確認され、事件性がないとわかったとたん、すぐにご近所親戚に連絡して翌日の通夜のため、徹夜して大慌てで家の中を片付ける羽目になった。
それから葬式本番まで、その田舎の家にひっきりなしに来客があり、その数百人近く。妹曰く、その数日間は応対に明け暮れほとんど眠ることもできなかったという。
その後も四十九日とかの法要やらもあり、葬儀後もひっきりなしに弔問客が続き、嫁である妹も含めて遺族は全員心底へたばったと言う。
そう、うっかり風呂とかで死ぬと、不審死扱いにされて警察まで来てひと騒動となる。それは聞いていたが、まさか身近に親族でそうなるとは考えていなかった。しかも東京ならば近くの葬儀所を借りてそこに弔問客を招けば済む話なのだが、田舎だと常に必ず自宅でやるのだそうで、死んだのが夕方だったのにその翌日はもう通夜として家の中を多勢の人が集まれるよう片づけなくてはならない。
まさに急なまったく予定外の出来事で、さぞや遺された家族たちは大変だったかと同情してしまった。葬式とは常に面倒かつ大変なものだが、田舎での葬儀は我々東京人の想像を超えたものがある。
本来は、その家の息子の妻の兄である我もそちらの親族の代表としてその家に出向きと弔うべきはずである。が、ちょうど母が入院しているときであったか、父の世話もあり、行くことはかなわない。結局香典だけ東京で働いていた妹の長男、我の甥っ子に託して、今回は不義理させて頂くことにした。
そして今、我もそうした事態、つまり我家の葬式についてそろそろ視野に、想定内にしないとならなくなってきた。正直考えたくないし、母も父も一日でも長生きしてほしいが、もうそろそろまさに限界であり、命のリミットが近づいているのだ。
それが怖いから嫌だから考えないというのは、愚かな野生動物が敵に追われると自らの巣穴に飛び込んで頭だけ隠すようなもので、どうしたって死は後ろから噛みついてくるのだから逃れようはない。
ならば嫌でもやはりその時に備えて、ある程度の準備と心構えは立てるのが賢明な生き方であろう。それは当人たちにとっても。
考えれば、人は必ず誰もが死ぬのである。しかし、生きている限りは、ふつうは「死」ということは考えない。生=日常と死は完全にかけ離れている。
人は死ぬものではあるが、死ぬことと生きることとはまったく別次元の話であった。しかし、もうこれからは、死に行く人とどう生きていくか、死に向かう者と共に「生きていく」生き方を考えなければならない。
正直なところ怖いし嫌である。が、死という別れは、妹の家のように、ある日突然訪れるかもしれない。むろん妹の義父だって相当衰えていて老い先長くはないと妹からも前から聞いていた。
しかしまさに突然風呂の中で、心臓発作でも起きたものか急死という最後を迎えたのだ。
ならば、我が親たちのように、しだいしだいに緩慢とした死に向かう生き方、いや、死に方はそれはそれなりに想定も対処もできるのではないのか。
恥ずかしい話、今まではそうしたことは全く我は考えてこなかった。そして親たち当人すら自らの死については今もなおじっくり深く考えて認識していない。まだまだあと10年も20年も生きるつもりでいるようだ。
が、父が九十を過ぎて、母が八十代半ばを過ぎたとならば、たとえどこも悪くない健康体だとしても十分いつ死んでも当然の年齢なのである。今までは二人ともまあ元気だったから生きることと死ぬことは解離、いや分離していた。もうそんなことは言ってられない。
さあこれからは、死に行く人とどう生きていくか、を真剣に我は考えなくてはならない。我の人生もまた新たな次元に立ったという気持ちでいる。
妹は慌ただしく本日午後3時に九州大分へと帰っていった。父の病室に顔出してから立川駅南口まで送ってそこで別れたが、リムジンバスで羽田へ向かうとのことだった。
実家滞在わずか二泊三日であったが、ものすごい量の持ちきれないほどのおみやげを抱えての帰宅である。聞けば、職場用、ご近所用、親戚用と、数日不在にしただけなのに、おみやげは欠かせないのだとのこと。田舎だなあとつくづく思う。
そんな田舎に東京から嫁いでの苦労は今さら語ることも聴くこともないが、先にその嫁ぎ先の義父が風呂場で急死し、その後葬式までその家でやり終えた騒動はとてつもない苦労だったと今回初めて詳しく聴いた。
やはり認知症で、しかも心臓が悪かったその義理の父は、風呂に入ったものの出てこないからその妻、妹の姑が見に行ったら風呂桶の中でうつぶせになって意識がない状態だったという。
それから妹と義母二人で、風呂から担ぎ出し、すぐに救急車を呼んだが、既に死んでいて警察まで来て検視までする騒動となったと。
病院まで行き、死亡が確認され、事件性がないとわかったとたん、すぐにご近所親戚に連絡して翌日の通夜のため、徹夜して大慌てで家の中を片付ける羽目になった。
それから葬式本番まで、その田舎の家にひっきりなしに来客があり、その数百人近く。妹曰く、その数日間は応対に明け暮れほとんど眠ることもできなかったという。
その後も四十九日とかの法要やらもあり、葬儀後もひっきりなしに弔問客が続き、嫁である妹も含めて遺族は全員心底へたばったと言う。
そう、うっかり風呂とかで死ぬと、不審死扱いにされて警察まで来てひと騒動となる。それは聞いていたが、まさか身近に親族でそうなるとは考えていなかった。しかも東京ならば近くの葬儀所を借りてそこに弔問客を招けば済む話なのだが、田舎だと常に必ず自宅でやるのだそうで、死んだのが夕方だったのにその翌日はもう通夜として家の中を多勢の人が集まれるよう片づけなくてはならない。
まさに急なまったく予定外の出来事で、さぞや遺された家族たちは大変だったかと同情してしまった。葬式とは常に面倒かつ大変なものだが、田舎での葬儀は我々東京人の想像を超えたものがある。
本来は、その家の息子の妻の兄である我もそちらの親族の代表としてその家に出向きと弔うべきはずである。が、ちょうど母が入院しているときであったか、父の世話もあり、行くことはかなわない。結局香典だけ東京で働いていた妹の長男、我の甥っ子に託して、今回は不義理させて頂くことにした。
そして今、我もそうした事態、つまり我家の葬式についてそろそろ視野に、想定内にしないとならなくなってきた。正直考えたくないし、母も父も一日でも長生きしてほしいが、もうそろそろまさに限界であり、命のリミットが近づいているのだ。
それが怖いから嫌だから考えないというのは、愚かな野生動物が敵に追われると自らの巣穴に飛び込んで頭だけ隠すようなもので、どうしたって死は後ろから噛みついてくるのだから逃れようはない。
ならば嫌でもやはりその時に備えて、ある程度の準備と心構えは立てるのが賢明な生き方であろう。それは当人たちにとっても。
考えれば、人は必ず誰もが死ぬのである。しかし、生きている限りは、ふつうは「死」ということは考えない。生=日常と死は完全にかけ離れている。
人は死ぬものではあるが、死ぬことと生きることとはまったく別次元の話であった。しかし、もうこれからは、死に行く人とどう生きていくか、死に向かう者と共に「生きていく」生き方を考えなければならない。
正直なところ怖いし嫌である。が、死という別れは、妹の家のように、ある日突然訪れるかもしれない。むろん妹の義父だって相当衰えていて老い先長くはないと妹からも前から聞いていた。
しかしまさに突然風呂の中で、心臓発作でも起きたものか急死という最後を迎えたのだ。
ならば、我が親たちのように、しだいしだいに緩慢とした死に向かう生き方、いや、死に方はそれはそれなりに想定も対処もできるのではないのか。
恥ずかしい話、今まではそうしたことは全く我は考えてこなかった。そして親たち当人すら自らの死については今もなおじっくり深く考えて認識していない。まだまだあと10年も20年も生きるつもりでいるようだ。
が、父が九十を過ぎて、母が八十代半ばを過ぎたとならば、たとえどこも悪くない健康体だとしても十分いつ死んでも当然の年齢なのである。今までは二人ともまあ元気だったから生きることと死ぬことは解離、いや分離していた。もうそんなことは言ってられない。
さあこれからは、死に行く人とどう生きていくか、を真剣に我は考えなくてはならない。我の人生もまた新たな次元に立ったという気持ちでいる。
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