増坊の断酒宣言 ― 2012年01月23日 21時49分16秒
★マット・スカダーに倣って生きていく。
おかげさまでカメラはみつかりました。先ほど夕刻雨の中西荻へ、のみ亭に行き発見できました。ご心配おかけしました。
そしてこれは行きの電車の中でずっと考えていたことだが、カメラがみつかろうがみつからなかろうが、もう酒はやめることにしてそれを「告知」しようと決めた。酒に責任はないし、楽しく皆で共に呑む酒の味は捨てがたいが、けっきょくのところ呑めば意思の弱い自分は際限なく呑んでしまうし、結果としてこうした失態をまた必ず起こすからだ。忘れ物もそうだし、つい言わずもがなのことを口にして後で覚めてからくよくよ悔やむ羽目となる。多くの人にも迷惑をかける。
まして、今朝方また起床の時に右の足が吊るかなり強い痛みがあって、どうやらこれは前夜のアルコールの量と大きく関係していると気がついたからだ。前の激痛の時、ウチでやったクリスマス会の翌朝で疲れも出たこともあったが、当日はやはりかなりだらだら呑み続けていた。自分のこのところの体質として、体内に入り残るアルコールの量がこの痛みをもたらしているのだと思えてきた。
また、さらに危惧するのは、老齢期に入ってきて、記憶の混濁というのか意識障害のようなものが出てきて、酔って人と話したことと夢で見たことや起こったことの区別が曖昧になってきている。さすがに起きたことが現実か夢かの違いはまだわかるが、日頃から常にあれこれ考えることの多い性格の自分は、例えばそれがGさんに実際話したことなのか、それとも夢の中で会い話したことなのかそのリアクションも含めてもう判断できなくなってきている。特にそれが酒の席だともう確認がとれない。
もともと夢の中のことと酔っぱらったときの状態、その頭の中のことは、極めて近しいものであろう。酔生夢死という言葉もある。つまり酒で酔っているときと夢の中のことはまさに渾然一体と化してどこまで現実のことなのか覚めても区別がつかなくなってしまう。
それはある意味理想的と言えなくもない。晩年の高田渡氏などその域に近づいていたように思えるが、自分はそれでは困る。まだやるべきこととやりたいことも沢山あるのでできるだけ頭はハッキリとさせておきたい。アルコールでこれ以上脳細胞を破壊すべきではない。
酔っぱらって暴れたり吐いたりケンカしたりすることはないとしても、酒を沢山呑んだ翌朝は、宿酔でなくても気分はウツウツと内向し後悔の気持ちに苛まれることは常にある。そしてそこに毎度の「忘れ物」「失くし物」である。自分では呑んでる時はさほど酔った感じもなく頭はしっかりしていると思っているのにそうして忘れ物してしまうのだからやはり相当酔っているのだ。何度同じ愚かなアヤマチを繰り返すのか。
酒は百薬の長であり、ストレスを和らげ発散させる良い特性も沢山ある。まして気の会う仲間や大事な友との楽しい酒ならその魅力は捨てがたい。だが、酒はドラッグの一種で習慣性もあり、しだいに効かなくなってきて量も度数も増えてくる。酒が最初から体質的に呑めない人はともかく、自分程度の弱いけれどまあ何とか呑めるという輩はもっともたちが悪い。
このところ家で呑む晩酌もしだいに度を超えて、最初は何か嬉しいときや特別な時だけ呑むことにしていたのが何もなくても何一つしなくても夜になるといつしか呑み出してしまう。そして呑めば下手すると際限なく呑み、そのままぼーとしてきてもう何もする気もなく寝てしまうのである。それはもう惰性なのだからアル中と謗られても返す言葉がない。
今回のカメラを失くした件は神のはからいだと思える。昨日も書いたが気持ちの上では割り切って、モノに過ぎないのだからまた新たに買えば良いと過ぎたこととして気持ちを切り替えてやっていこうと決意した。が、やはりカメラのことが気になり、今日23日は一日気持ちも沈みウツウツとして何一つ手につかなかった。告白するとカメラには撮りためたライブ写真等まだパソコンに取り込んでないものも多々入っていてカメラ自体よりそちらが惜しかった。
そしてともかくまずすべきは現場であるのみ亭にもう一度行って自ら確認してこようと決めていた。マスターは電話では昨日はみつからないと言っていたけれど、自ら探してみないことにはどうにも気持ちが納得しなかった。本当に失くしたのだと確認できればまた気持ちも割り切れる。諦めもつく。
そして雨の中、傘も持たずに夕方出て、開店前ののみ亭に入ったら、すぐにマスターが、カメラやはりありました!とカメラを持ち上げて示してくれた。出口近くのイスのところに置いた気がしていたのだが、イスの後ろ側に落ちて引っかかっていたとのことだった。もうみつからなくてもそれはそれで仕方ないと半ば諦め覚悟も決めていたのだが、嬉しいよりもほっとして肩の力が一気に抜けた。やはり熊坂五郎の音楽ファンが持っていくはずもないわけで、当初からそこにあったのである。
しかし、何にせよ何一つどうなるのかそれもわからないわけで、みつからない可能性も大いにあった。けっきょくすべてのことはメッセージであり、もういずれにせよ酒はやめようと決心のきっかけとなったのだから良いことであった。
そして、マスターにお世話になったお礼としてさっそく焼酎のお湯割を頼み一杯だけゆっくり味わって呑んだ。今後のライブの予定など音楽の話をあれこれ話し、ようやく他の客もぽちぽち訪れてきたので席を立ったが、それが自分にとって最後の酒とした。
むろん、この世には付き合いもあるから、一切酒を断つ、禁酒禁煙ということは難しい。仲間内の宴会に出るときは一人ウーロン茶というわけにもいくまい。体質的に呑めない人ならともかく、呑めるはずの人が呑まないでいるのは周りにとっても居心地悪いものである。しかし、基本としてはもう自ら特に一人で酒を呑むことはしない。これは世界中の人が読めるブログに書いたのだから国際公約である。ニュージーランドのマオリ族の人で当ブログを読んでいる人がいるなら、増坊が現地で酒を呑もうとしたら嘘つきだと詰られても仕方ないし、グリーンランドに行って酒を呑んだらイヌイットの読者から叱られても当然であろう。まあそこに電気と電波が来ていて彼らがネットにアクセスでき日本語が読めたらの話であるが。
最後に、一つ付け加えれば、自分は古本屋になってからもう現代の小説は日本、海外を問わずほとんど読むことはなくなってしまったが、今も唯一時折読み返す、ずっと大事に読み続けている、ローレンス・ブロックのマット・スカダーシリーズのことにふれないわけにはいくまい。
「八百万の死にざま」とかいくつものシリーズのある推理小説の主人公マット・スカダーはアル中の元警官であった。シリーズは当初はアル中の彼の人生を、彼の独白でことこまかく内面から描いていて、過去の事件で失意のまま酒に溺れて仕事も家族も失ったマットは仕方なく請われては探偵まがいのことをやって酒を呑み続けていた。そして自分ではアル中ではないと信じていた。が、ある事件のさなか、彼は酔った末意識を失いその失態からついに自らアル中だと教会の断酒会で告白し、酒を断つに至っていく。
シリーズものとしては、本来そうした結果はその後の展開に支障を来たすからありえないのだが、作者ブロックは、マットを酒と縁を切った真人間として成長させて彼には新たなパートナーも出来、その後もシリーズはえんえん続いている。そのシリーズは単なる海外推理小説の域を超えて、一人の失意のどん底にあった中年男の内面の変化と成長を回心のごとく巧みに描いてどの本も深い感動をもたらす。一級の文学作品である。もしまだ手にとったことのない方がいらしたらシリーズ最初のものから読んでもらいたい。図書館に行けばどこでも必ず置いてある。
そう、自分も大好きな主人公マット・スカダーに倣って人生をこれをきっかけにやり直したい。帰路、青梅線内に電車は入ったとたん雨はボタン雪に急に変わって強く降り出した。その吹きつける雪を走る車窓から見ながら心に期するものがあった。私はアル中でしたと。
おかげさまでカメラはみつかりました。先ほど夕刻雨の中西荻へ、のみ亭に行き発見できました。ご心配おかけしました。
そしてこれは行きの電車の中でずっと考えていたことだが、カメラがみつかろうがみつからなかろうが、もう酒はやめることにしてそれを「告知」しようと決めた。酒に責任はないし、楽しく皆で共に呑む酒の味は捨てがたいが、けっきょくのところ呑めば意思の弱い自分は際限なく呑んでしまうし、結果としてこうした失態をまた必ず起こすからだ。忘れ物もそうだし、つい言わずもがなのことを口にして後で覚めてからくよくよ悔やむ羽目となる。多くの人にも迷惑をかける。
まして、今朝方また起床の時に右の足が吊るかなり強い痛みがあって、どうやらこれは前夜のアルコールの量と大きく関係していると気がついたからだ。前の激痛の時、ウチでやったクリスマス会の翌朝で疲れも出たこともあったが、当日はやはりかなりだらだら呑み続けていた。自分のこのところの体質として、体内に入り残るアルコールの量がこの痛みをもたらしているのだと思えてきた。
また、さらに危惧するのは、老齢期に入ってきて、記憶の混濁というのか意識障害のようなものが出てきて、酔って人と話したことと夢で見たことや起こったことの区別が曖昧になってきている。さすがに起きたことが現実か夢かの違いはまだわかるが、日頃から常にあれこれ考えることの多い性格の自分は、例えばそれがGさんに実際話したことなのか、それとも夢の中で会い話したことなのかそのリアクションも含めてもう判断できなくなってきている。特にそれが酒の席だともう確認がとれない。
もともと夢の中のことと酔っぱらったときの状態、その頭の中のことは、極めて近しいものであろう。酔生夢死という言葉もある。つまり酒で酔っているときと夢の中のことはまさに渾然一体と化してどこまで現実のことなのか覚めても区別がつかなくなってしまう。
それはある意味理想的と言えなくもない。晩年の高田渡氏などその域に近づいていたように思えるが、自分はそれでは困る。まだやるべきこととやりたいことも沢山あるのでできるだけ頭はハッキリとさせておきたい。アルコールでこれ以上脳細胞を破壊すべきではない。
酔っぱらって暴れたり吐いたりケンカしたりすることはないとしても、酒を沢山呑んだ翌朝は、宿酔でなくても気分はウツウツと内向し後悔の気持ちに苛まれることは常にある。そしてそこに毎度の「忘れ物」「失くし物」である。自分では呑んでる時はさほど酔った感じもなく頭はしっかりしていると思っているのにそうして忘れ物してしまうのだからやはり相当酔っているのだ。何度同じ愚かなアヤマチを繰り返すのか。
酒は百薬の長であり、ストレスを和らげ発散させる良い特性も沢山ある。まして気の会う仲間や大事な友との楽しい酒ならその魅力は捨てがたい。だが、酒はドラッグの一種で習慣性もあり、しだいに効かなくなってきて量も度数も増えてくる。酒が最初から体質的に呑めない人はともかく、自分程度の弱いけれどまあ何とか呑めるという輩はもっともたちが悪い。
このところ家で呑む晩酌もしだいに度を超えて、最初は何か嬉しいときや特別な時だけ呑むことにしていたのが何もなくても何一つしなくても夜になるといつしか呑み出してしまう。そして呑めば下手すると際限なく呑み、そのままぼーとしてきてもう何もする気もなく寝てしまうのである。それはもう惰性なのだからアル中と謗られても返す言葉がない。
今回のカメラを失くした件は神のはからいだと思える。昨日も書いたが気持ちの上では割り切って、モノに過ぎないのだからまた新たに買えば良いと過ぎたこととして気持ちを切り替えてやっていこうと決意した。が、やはりカメラのことが気になり、今日23日は一日気持ちも沈みウツウツとして何一つ手につかなかった。告白するとカメラには撮りためたライブ写真等まだパソコンに取り込んでないものも多々入っていてカメラ自体よりそちらが惜しかった。
そしてともかくまずすべきは現場であるのみ亭にもう一度行って自ら確認してこようと決めていた。マスターは電話では昨日はみつからないと言っていたけれど、自ら探してみないことにはどうにも気持ちが納得しなかった。本当に失くしたのだと確認できればまた気持ちも割り切れる。諦めもつく。
そして雨の中、傘も持たずに夕方出て、開店前ののみ亭に入ったら、すぐにマスターが、カメラやはりありました!とカメラを持ち上げて示してくれた。出口近くのイスのところに置いた気がしていたのだが、イスの後ろ側に落ちて引っかかっていたとのことだった。もうみつからなくてもそれはそれで仕方ないと半ば諦め覚悟も決めていたのだが、嬉しいよりもほっとして肩の力が一気に抜けた。やはり熊坂五郎の音楽ファンが持っていくはずもないわけで、当初からそこにあったのである。
しかし、何にせよ何一つどうなるのかそれもわからないわけで、みつからない可能性も大いにあった。けっきょくすべてのことはメッセージであり、もういずれにせよ酒はやめようと決心のきっかけとなったのだから良いことであった。
そして、マスターにお世話になったお礼としてさっそく焼酎のお湯割を頼み一杯だけゆっくり味わって呑んだ。今後のライブの予定など音楽の話をあれこれ話し、ようやく他の客もぽちぽち訪れてきたので席を立ったが、それが自分にとって最後の酒とした。
むろん、この世には付き合いもあるから、一切酒を断つ、禁酒禁煙ということは難しい。仲間内の宴会に出るときは一人ウーロン茶というわけにもいくまい。体質的に呑めない人ならともかく、呑めるはずの人が呑まないでいるのは周りにとっても居心地悪いものである。しかし、基本としてはもう自ら特に一人で酒を呑むことはしない。これは世界中の人が読めるブログに書いたのだから国際公約である。ニュージーランドのマオリ族の人で当ブログを読んでいる人がいるなら、増坊が現地で酒を呑もうとしたら嘘つきだと詰られても仕方ないし、グリーンランドに行って酒を呑んだらイヌイットの読者から叱られても当然であろう。まあそこに電気と電波が来ていて彼らがネットにアクセスでき日本語が読めたらの話であるが。
最後に、一つ付け加えれば、自分は古本屋になってからもう現代の小説は日本、海外を問わずほとんど読むことはなくなってしまったが、今も唯一時折読み返す、ずっと大事に読み続けている、ローレンス・ブロックのマット・スカダーシリーズのことにふれないわけにはいくまい。
「八百万の死にざま」とかいくつものシリーズのある推理小説の主人公マット・スカダーはアル中の元警官であった。シリーズは当初はアル中の彼の人生を、彼の独白でことこまかく内面から描いていて、過去の事件で失意のまま酒に溺れて仕事も家族も失ったマットは仕方なく請われては探偵まがいのことをやって酒を呑み続けていた。そして自分ではアル中ではないと信じていた。が、ある事件のさなか、彼は酔った末意識を失いその失態からついに自らアル中だと教会の断酒会で告白し、酒を断つに至っていく。
シリーズものとしては、本来そうした結果はその後の展開に支障を来たすからありえないのだが、作者ブロックは、マットを酒と縁を切った真人間として成長させて彼には新たなパートナーも出来、その後もシリーズはえんえん続いている。そのシリーズは単なる海外推理小説の域を超えて、一人の失意のどん底にあった中年男の内面の変化と成長を回心のごとく巧みに描いてどの本も深い感動をもたらす。一級の文学作品である。もしまだ手にとったことのない方がいらしたらシリーズ最初のものから読んでもらいたい。図書館に行けばどこでも必ず置いてある。
そう、自分も大好きな主人公マット・スカダーに倣って人生をこれをきっかけにやり直したい。帰路、青梅線内に電車は入ったとたん雨はボタン雪に急に変わって強く降り出した。その吹きつける雪を走る車窓から見ながら心に期するものがあった。私はアル中でしたと。
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