まだできることがある有り難さ。2012年04月23日 06時33分43秒

★大型連休前の一週間に

 また週があけ、小雨そぼふる月曜日である。また6時過ぎ起きてぼーとした寝不足の頭で記している。バカニャンが夜通し布団に来ては出たり入ったり騒いでいた。

 このところ風邪ひいた親父の世話と老犬介護に明け暮れていた。父の方は、さいわい肺炎などの高熱に至ることはなく、37度台で前後するほどで医師の診断でも単なる風邪であった。ただ、なかなかスッキリとまだ治らず無理させないよう寝かしつけておくのに苦労する。が、回復傾向にあるのでもう大丈夫かと思える。

 問題は17歳の老犬ロビンのほうで、良い日もあるのだけれど確実に日ごとに弱ってきている。散歩もつい先日まではとぼとぼとでも表通りまで出てドラッグストアの植え込みまで歩けたのに、この数日は十数メートル先の舗装していない駐車場の草叢で小用をするとすぐまた家に戻ってしまう。後ろ足が麻痺してきたのか引きずるようになってもう歩けなくなってきたのだ。食欲も先日まではまだかなり強くあって安心していたのだがこのところ食べないときもあって何なら食べるのか頭痛めている。

 眠ってばかりとはいえ、当人は起きているときは意識もあるし散歩なども意志があるので、呆然としているときも多くてもまだしばらくは持つとは思えるが、それが数日なのか一週間なのかそれともまだ数週間先までなのかはわからない。もうその覚悟はしているので嘆くとか悲しいとか慌てる気持ちはもはやないけれど、静かな深い哀しみというようなものは常にある。まあ、これが生きものを飼うことであり、人も含めて生きていくことの習いなのである。そう、別れと終わりは必ず来る。

 どんなに苦労かけてもかまわない。一日でも長く生きてほしいし、そのときは苦しまず眠るように逝ってほしいとだけ願う。ただ、共に何十年も生きてその最後を看取ることができるのはあり難いことだし、まだ数日でも一緒の時間があること、そして少しでもまだ何かできることがあるのが嬉しく真にあり難い。

 前々回書いたこととも関係するが、こうした面倒なこと、本来できれば体験したくはないことこそ人としてのタスク、課題であり、人それぞれ考えもあろうが、できるうちは当事者が関わりすべきことであると考える。時に他者に代わってやってもらったり手伝ってもらうことは大いに助かるしそのシステムがあれば利用すべきとは思う。ただ、その人はそれぞれの重き荷を背負うことこそが人の務めだと信ずるしそれが使命なのだ。ならば背負えない荷物は与えられないはずだ。だからこそできる限り人任せにしたくない。むろんそれが独断専行の独り善がりになってはいないか自問せねばならない。そう、たしかに相手方の意志もある。

 矛盾するようでおかしな話だが、最近強く思うことは、もう他者にはいっさい振り回されたくないということだ。他者の顔色やご機嫌、都合を窺って、それに合わせて自分はずっと生きてきた。お前のような自分勝手なニンゲンが嘘つけ、と反論あろうが気持ちとしては事実だ。自分も勝手なのだがヒトサマはもっと勝手で、自分の都合しか頭にない。気の弱い自分は常に折れて向こうに合わせて結果として自分のことは後回しになり不本意な結末ですべてが終わる。では向こうは勝ったのかというとそうではなく、人様もまた関わったことで不本意な後味の悪い思いをするので人間関係もうまく立ち行かなくなっていく。

 そうした失敗を何度も繰り返して今、今の気持ちとしては全ては自分のことを中心に自分で何事もきちんと背負いやっていくしかないしそう生きたいと強く願う。一つ一つきちんとスッキリと丁寧に、全て自分のこと、自分の問題としてやっていきたい。自分の荷物を確かめてきちんと背負い直したい。
 それが生きることなんだとやっとわかってきた。バカだからようやく少しはわかってきたのである。ほんまはずかしいわ。情けないですわ。なんでや!

【追記】 と、今日月曜日、小指の包帯がとれて一週間たち、先ほど立川の整形で診てもらってきた。またレントゲン撮って確認して、一応これでもう通わないで済むこととなった。三週間も固定されていたので、まだよく曲がらないし痛みも残ってはいるが、今日で病院通いは終わった。今の気持ちとしてはようく無罪放免が下った気分である。むろんこれからは自分で少しづつ曲げてもとのように動くようにしていかねばならない。折ったのが、3月24日、ちょうど全治一ヶ月であった。大型連休まで一週間となった。さあ、これからだ。