新潟でのフーテナニーに参加して思ったこと・3 ― 2013年06月11日 12時05分33秒
★フーテナニーに参加して見えてきたこと
さて、そのたっつあんが呼びかけて、これまで関わりがあった歌い手たちが全国からこの新潟でのフーテナニーに集まった。その数およそ60人近く。これはすごいことだと思う。そしてフートの性質上、参加者のほとんどが演奏者、歌い手であってまた観客でもあった。
ペンションの大食堂をテーブルなどを取っ払い椅子を並べて会場にして午後2時から一部開始として唄が歌われ始め、途中夕刻、約1時間の食事や入浴休憩はあったが、また7時からアルコール解禁で二部が始まり零時近く一応終了となった。実に8時間を超すロングコンサートとなった。しかしその後もえんえん唄と演奏は続いていたそうで、マス坊は疲れ果てて風呂で汗流して午前一時には布団の中に入ったのでわからないのだが、皆さん還暦を越していると思われるのに呆れ果てるほどすごい体力、情熱である。
この日、あまりに出演者が多いので、事前に持ち時間は細かく割り当てられていた。新潟の人も他の地域からの参加者もほぼ一律一人当たり15分の持ち時間しかなく、休憩時間もなく、次々と皆さんその枠の中で語りうたっていく。
一部と二部に重複して出たシンガーもいたが、それは人気や知名度の有無ではなく、到着された時間の都合のようだ。盛り沢山の人たちが次々と登場したが皆実に几帳面に持ち時間を守ったことにも感心した。プロならこんなふうに予定枠内に収まらない。絶対だらだらと少しでも自分のステージを長引かそうとするし他者のことなどお構いなしだなのだ。その意味でもこのフートの参加者は実に紳士であり、暴れたり酔っても絡む人は1人もなく良い人脈を築いてきたのだなあと深く得心した。
ただ、いくつか気になったこともなくはない。自分は1970年代初頭にフォークソングと出会い、以降、全国あちこちでライブを観、うたを聴いてきたきたわけなのだが、プロとアマチュアの差って何なのかとよく考える。一口に「プロ」と言ったって、なぎらや南こうせつクラスの世間的に誰でも知っているタレント的有名人もいれば、自分が敬愛する、お願いすれば拙宅にも来てもらえて唄ってくれるプロもまたいる。
また、プロはうまい、アマは下手というわけではないことは例えば新潟のシンガーたちを見ればわかるように、凡百のプロミュージシャンより歌も演奏もはるかに巧い魅力的なアマチュアはおそらく全国にもたくさんいるはずだ。逆にプロだって下手くそな人も実に多いのである。
自分はプロとアマとの間に、格差=プロのほうがエライ、上とのヒエラルキーを認める者ではないが、やはりそこに「差」というか違いは厳然と存在すると感じる。それは聴き手、つまり観客を前にしての意識の差である。
何だかんだ言ってもプロとは客商売であって、ギャラの多寡、チケットの値段とはいっさい関係なく、例えフリーコンサートであろうと常に一定の水準のステージを築き提供しないとならない。そうした意識は誰だって持っている。それが商売柄、「プロ」ということであって、どんな職種でもそこに違いはない。
それは聴き手を満足させるということだけではない。技術以前に聴かせる、聴いてもらうのだという意識がしっかりあるかだと思う。この新潟のフートではアマチュアであろうともそのことをきちんと理解徹底している歌い手とそうでない人たちとの差が如実に浮き彫りにされた。今回、うまい下手以前に、フォークサークルの発表会程度の意識しか持たずに活動を続けている人たちと新潟のシンガーのようにプロを凌駕するほどの高い意識で常に観客としっかり対峙して唄っている人との差は観ていて痛々しいほどであった。
うたにはまず何を(どんな曲を)どう唄うのかという目的意識と技量的な問題がある。だがそんなことよりもまず自分は、うたとは、うたう姿勢、その心構えを問題としたい。これはプロ、アマ問わずお金がとれるとれないに関係なく他者=観客に聴いてもらうことを唄自身が求めているからに他ならない。
アマチュアなのだから、集まって皆でわいわいがやがや唄う者たち自らがまず楽しく歌って何が悪いという反論もあろう。そこまで彼らに要求するのは酷だとも自分も思う。音楽とは読んで文字のごとくに、音の楽しみであって構わないはずだ。ましてフートなのだから歌う側が楽しんで何が悪いというのか。それはわかるが自分が感じた一部のシンガーらの唄うことに対する意識の低さ、心構えの甘さには苦言を記しておくのが筋だと信ずる。まあ、それはそれでちっとも悪くはないのだけれど。でもそんなだとせっかくの良い曲があるのにきちんと聴いてもらえずモッタイナイ。
つまるところ、うたとは、音楽とは演者、歌い手の自己表現の手段にすぎない。そのことに異論はないだろう。
しかし、「うた」とは単にそう言い切ってしまうのにどうしてももう一つ抵抗がある。うたがそこにある理由、存在価値とはまた別の理由、もっと大きな意義や意味があるような気がしてならないでいる。
今はまだそのことをきちんと文字にして説明はできないのだが、抽象的に語るとしたらうたもまた天啓、見えない者によるはからい、恩寵であり唄い手のものではなく独自に存在していると感じている。うたは誰のものかということだが。
そうした意味での「うた」を思うとき、歌い手はもっとうたに対して真摯に忠実に丁寧に向き合わねばならないのではないか。放言とは勝手な言葉を言い放って責任をとらないことだが、うたもまたうたいっ放しの放歌、放唄になっていないか。
そんなことを今回のフートの帰り道、運転しつつつらつら考えた。今回の新潟フーテナニー、参加できたことで様々な示唆を得た。新たな出会いもあった。たっつあん、藤さん、そして太田さん他多くの参加者に深く感謝したい。
画像のほうは遅くとも今月内に、ステージに登場された方は全て撮ってあるので全員の画像をアップさせておく。そちらはいっぺんに複数の画像が上げられる別ブログ http://masdart.exblog.jp/ の方をそのうちご参照願いたい。むろん当ブログでもアップ終えたら告知しますが。
と、ここまで書いて下へ降りたら、ハガキが来ていて誰からかと思ったら京都の古川豪さんから今年の七夕コンサートのお誘いである。今年は久しぶりに中山ラビさんも合流しての5人全員集合となるようだ。これは見ものである。さて、マス坊、どーする!?どーする!?
さて、そのたっつあんが呼びかけて、これまで関わりがあった歌い手たちが全国からこの新潟でのフーテナニーに集まった。その数およそ60人近く。これはすごいことだと思う。そしてフートの性質上、参加者のほとんどが演奏者、歌い手であってまた観客でもあった。
ペンションの大食堂をテーブルなどを取っ払い椅子を並べて会場にして午後2時から一部開始として唄が歌われ始め、途中夕刻、約1時間の食事や入浴休憩はあったが、また7時からアルコール解禁で二部が始まり零時近く一応終了となった。実に8時間を超すロングコンサートとなった。しかしその後もえんえん唄と演奏は続いていたそうで、マス坊は疲れ果てて風呂で汗流して午前一時には布団の中に入ったのでわからないのだが、皆さん還暦を越していると思われるのに呆れ果てるほどすごい体力、情熱である。
この日、あまりに出演者が多いので、事前に持ち時間は細かく割り当てられていた。新潟の人も他の地域からの参加者もほぼ一律一人当たり15分の持ち時間しかなく、休憩時間もなく、次々と皆さんその枠の中で語りうたっていく。
一部と二部に重複して出たシンガーもいたが、それは人気や知名度の有無ではなく、到着された時間の都合のようだ。盛り沢山の人たちが次々と登場したが皆実に几帳面に持ち時間を守ったことにも感心した。プロならこんなふうに予定枠内に収まらない。絶対だらだらと少しでも自分のステージを長引かそうとするし他者のことなどお構いなしだなのだ。その意味でもこのフートの参加者は実に紳士であり、暴れたり酔っても絡む人は1人もなく良い人脈を築いてきたのだなあと深く得心した。
ただ、いくつか気になったこともなくはない。自分は1970年代初頭にフォークソングと出会い、以降、全国あちこちでライブを観、うたを聴いてきたきたわけなのだが、プロとアマチュアの差って何なのかとよく考える。一口に「プロ」と言ったって、なぎらや南こうせつクラスの世間的に誰でも知っているタレント的有名人もいれば、自分が敬愛する、お願いすれば拙宅にも来てもらえて唄ってくれるプロもまたいる。
また、プロはうまい、アマは下手というわけではないことは例えば新潟のシンガーたちを見ればわかるように、凡百のプロミュージシャンより歌も演奏もはるかに巧い魅力的なアマチュアはおそらく全国にもたくさんいるはずだ。逆にプロだって下手くそな人も実に多いのである。
自分はプロとアマとの間に、格差=プロのほうがエライ、上とのヒエラルキーを認める者ではないが、やはりそこに「差」というか違いは厳然と存在すると感じる。それは聴き手、つまり観客を前にしての意識の差である。
何だかんだ言ってもプロとは客商売であって、ギャラの多寡、チケットの値段とはいっさい関係なく、例えフリーコンサートであろうと常に一定の水準のステージを築き提供しないとならない。そうした意識は誰だって持っている。それが商売柄、「プロ」ということであって、どんな職種でもそこに違いはない。
それは聴き手を満足させるということだけではない。技術以前に聴かせる、聴いてもらうのだという意識がしっかりあるかだと思う。この新潟のフートではアマチュアであろうともそのことをきちんと理解徹底している歌い手とそうでない人たちとの差が如実に浮き彫りにされた。今回、うまい下手以前に、フォークサークルの発表会程度の意識しか持たずに活動を続けている人たちと新潟のシンガーのようにプロを凌駕するほどの高い意識で常に観客としっかり対峙して唄っている人との差は観ていて痛々しいほどであった。
うたにはまず何を(どんな曲を)どう唄うのかという目的意識と技量的な問題がある。だがそんなことよりもまず自分は、うたとは、うたう姿勢、その心構えを問題としたい。これはプロ、アマ問わずお金がとれるとれないに関係なく他者=観客に聴いてもらうことを唄自身が求めているからに他ならない。
アマチュアなのだから、集まって皆でわいわいがやがや唄う者たち自らがまず楽しく歌って何が悪いという反論もあろう。そこまで彼らに要求するのは酷だとも自分も思う。音楽とは読んで文字のごとくに、音の楽しみであって構わないはずだ。ましてフートなのだから歌う側が楽しんで何が悪いというのか。それはわかるが自分が感じた一部のシンガーらの唄うことに対する意識の低さ、心構えの甘さには苦言を記しておくのが筋だと信ずる。まあ、それはそれでちっとも悪くはないのだけれど。でもそんなだとせっかくの良い曲があるのにきちんと聴いてもらえずモッタイナイ。
つまるところ、うたとは、音楽とは演者、歌い手の自己表現の手段にすぎない。そのことに異論はないだろう。
しかし、「うた」とは単にそう言い切ってしまうのにどうしてももう一つ抵抗がある。うたがそこにある理由、存在価値とはまた別の理由、もっと大きな意義や意味があるような気がしてならないでいる。
今はまだそのことをきちんと文字にして説明はできないのだが、抽象的に語るとしたらうたもまた天啓、見えない者によるはからい、恩寵であり唄い手のものではなく独自に存在していると感じている。うたは誰のものかということだが。
そうした意味での「うた」を思うとき、歌い手はもっとうたに対して真摯に忠実に丁寧に向き合わねばならないのではないか。放言とは勝手な言葉を言い放って責任をとらないことだが、うたもまたうたいっ放しの放歌、放唄になっていないか。
そんなことを今回のフートの帰り道、運転しつつつらつら考えた。今回の新潟フーテナニー、参加できたことで様々な示唆を得た。新たな出会いもあった。たっつあん、藤さん、そして太田さん他多くの参加者に深く感謝したい。
画像のほうは遅くとも今月内に、ステージに登場された方は全て撮ってあるので全員の画像をアップさせておく。そちらはいっぺんに複数の画像が上げられる別ブログ http://masdart.exblog.jp/ の方をそのうちご参照願いたい。むろん当ブログでもアップ終えたら告知しますが。
と、ここまで書いて下へ降りたら、ハガキが来ていて誰からかと思ったら京都の古川豪さんから今年の七夕コンサートのお誘いである。今年は久しぶりに中山ラビさんも合流しての5人全員集合となるようだ。これは見ものである。さて、マス坊、どーする!?どーする!?
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