国家安全の名のもとに2013年10月26日 07時04分00秒

★秘密保護法について改めて思うこと     アクセスランキング: 130位

 いつの時代もどんな国であろうとも時の為政者は、国民を安全に守る義務がある。ましてそれが専制君主的に国を治めているのではなく、国民から民主的選挙で選ばれた議員たちで構成された政権ならばなおさらであろう。

 しかしまた同時に、彼ら権力者側が、新たに「国民を守るため、国家を守るために」と、「新法」をこしらえ持ち出してくるときは要注意である。何故なら、その法律が下からの、つまり国民からの強い要請、要求によるものならともかくも、上から、権力者側から一方的に強いるものであるときは、彼ら権力者たちの権力維持、政権補完のためでしかなく、守られるべき側の国民にとっては何一つ益も得もないからだ。そのことは日本だけでなくいつの時代、どんな国でも同様である。

 当ブログの読者の方ならば、今さら説明など不要と信ずる。おそらく誰もがこの悪法には反対し深い危機意識を抱いていると信ずる。たとえコメントなどここに記すことなくとも。
 だからこの「特定秘密保護法」なる法律についてはその悪弊、問題性についてあえてふれなかった。また、衆院、参院の国政選挙で自公政権が大勝を果たし国民が彼らに政権を全権委任してしまったときからこのような法律が登場することも当然予測していた。だから今さらという諦観のような気持ちも強くある。しかし、この法律によってもっとも被害を受け弾圧される側の一人としてやはり断固反対であること、そして成立阻止のためにできることを考えていきたい。

 この法律は要するに、国家にとって危機をもたらすような事態が起きぬよう事前に取り締まるためのものである。いちおう建前は、公務員が国家の秘密となるようなことを漏洩させたりすると厳罰に処せられることになってる。そのことに異論はないとしても問題はその「秘密」が何かということだ。ある情報が「秘密」とするに値するかを決めるのは彼ら、政府、権力側なのである。彼らがこれは「秘密」として決めたものは国民は誰一人知ることができなくなる。
 もし仮にそれを先の米国のCIA職員のようにマスコミに漏らし世間に告発した者は厳重処罰されるだろうし、その情報を掲載したマスコミ、取材した記者も同様に連座して逮捕、処罰されよう。ことは公務員だけで留まるはずがない。一般市民にも及ぶ。

 そもそもいったい何が「秘密」なのであろうか。それを広く解釈すれば、反政府活動全般でさえも国家の安全を転覆させる惧れありと規制できるのではないか。武力テロはとんでもないが、政府退陣を求める抗議デモや集会でさえも治安維持の名目で、弾圧できることとならないか。
 原発に関する情報公開を求めたとしてもその情報がテロ組織に知れると危険だから「秘密」とされる。すべて権力側にとって都合の悪い情報、知られると政権が揺らぐ情報は「秘密」とされ黒塗りされてしまう。
 安全保障の名のもとに、この法律によって公権力の力が今より増して国民の人権がないがしろにされていく。そのことを深く憂うる。大変な時代となる。

 この国にはかつて「治安維持法」という悪法が存在していた。名のごとくその法律によって治安を乱す惧れがあると目された社会主義者、共産党員、無政府主義者、宗教家は逮捕され小林多喜二のように拷問の末虐殺された。そして時の政府は国内の反対勢力を一掃、国民を沈黙させ日本は無謀な戦争に突き進んで行ったのである。そのことはネトウヨの方でもご存知であろう。そして結果この国に何が待っていたかも。

 この「秘密保護法」が成立し施行されたら、また再び国民の知る権利と発言する権利が奪われていく。その先に待つのは、まさに戦前のような政府批判など一切口にできない、モノを自由に発言すれば即逮捕される国家主義的強権政治である。
 国家の秘密、重要機密は安全保障上保護されるべきだとは思うが、その法律によって国民の知る権利、発言が奪われていくことはあってはならない。

 保護されるべきはまずは人権、表現の自由である。公務員といえども国家権力の不正や腐敗を知れば、そのことを正義の名のもとに告発すべきであるし、それが公務員である前に人として、国民の務めであろう。問題は何が「秘密」とされ、それを勝手に決めるのが権力側だということだ。

 こんな法律とんでもない。かつて戦時中指導者が弾圧された歴史をもつ宗教政党こそ断固として反対の声をあげるべきではないのか。