共謀コンサート出演者・11 ― 2017年11月25日 07時48分43秒
「共謀」コンサート第二回目を終えて振り返れば ― 2017年11月25日 10時18分30秒
★老いて病む親を抱えて、音楽の活動をやっていくこと
♪でも俺をこんなに変えてくれた 昔の友がいるんだ
朝日は昇るよ、少しづつだけどね
そのときその日こそ 自由になるんだ
――とは、ディランⅡの名曲「男らしいってわかるかい」の一節で、一昨日の「共謀」コンサート、最後の最後に、そのディランⅡのながいようさんがうたってくれたものだ。
終わって数日たった今もずっとその曲が、我の頭の中で流れ続けている。そう、俺を、こんなに変えてくれた昔の友、旧い友がこんな我にもいるのだ。
それは友というには失礼だが、若き日に出会い懇意にして頂き勝手にこちらが私淑した人たちであり、吉祥寺のぐゎらん堂で知ったシバや鈴木翁二、そして中川五郎ら若きシンガー、アーチストたち、彼らと知り合わなかったらいったい我は今どうなっていただろう。
もっとマトモな社会人になっていて子や孫たちに囲まれのんびり優雅に過ごしていたとも夢想するが、実のところ、その十代半ばから落ちこぼれて不登校気味だった我故、深夜放送を聞きガロを読みあさり吉祥寺をぶらついていたのだから、その出会いもまた必然であったに違いない。
とにもかくにも彼らを知ったことで、新たな世界に出会い大きく影響を受け、「就職しないで生きるには」の道を選んだのだから、まさにその出会いによって今の自分がいるのである。
では、カタギにならなければ、それで自由になれたのかというと、確かに毎朝すし詰めの通勤電車に揺られて会社勤めはしないですんだ代わりに、時間はたっぷりあったけれど金はなく、ただ自ら好き勝手に何でもできる「自由」は手に入れた。
しかし、それは束の間のものでしかなく、若き日はそれで万事OKであったが、歳とって小金を稼ぐバイト仕事も少なくなり、親もまた同時に老いてしだいに弱ってきてしまえば、嫌でも介護という現実が一人息子である我に圧し掛かって来る。
辛くても会社勤めに耐えれば、ある程度老後の生活は積み立てた年金や退職金で保障されるわけだが、老いてはたと気づけば、我には今住む家以外何の財産もない。その家だって親名義だが、我のものになったとしてもその固定資産税すら支払う収入は我にはない。
今は、父がまだ老衰してきても健在で彼の年金が入って来るから、赤字続きだが、まだ何とか生活は立ち行く。が、父が亡くなれば現実問題として、我の収入は、ネット古書店で稼ぐ微々たるものだけとなる。それでは定収としてアテにできないばかりでなく、電気ガス水道代にも満たない可能性がある。いったいどうしたら良いのだろう。我の老後は誰が看る? 一人で自らのオムツ交換できるのだろうか。
結局のところ、若き日の自由というものは、幻想であり、真に老いて働くことができなくなったとき過不足なく自由に生きるためにも、人はカタギに、まっとうな社会人になるのだなあ、と今この歳になって気がついた。それができる人はすべきである。
しかし、時間は戻らないし、戻ったとしても元より人間付き合いの下手な、イレギュラーな人間は、やり直してもまた失敗することは間違いないと思えるから、やはりこの生き方しかなかった。ならばこうした人生も然りであり、反省や悔やんでも仕方あるまい。肯定できなくとも受け入れた上で、少しでもうまくどうやっていくか考えるしかない。
おそらく日々あたふた金の工面に追われているうちにやがて人生のタイムリミットも来て、天に召される。それもまた我が人生、一人で淋しく大変でも仕方ない。
ただ、今は老いて弱りともかく手のかかる父の介護でいっぱいいっぱいで、去年はそこに末期癌を病む母もまだ抱えていたから、ほんとうに時間がなく我も昼夜寝ずの介護で心身疲弊し過労死寸前だった。
母が予想より早く急逝したのもそんな我を思ってのことかもと、振り返り今はやっと思えるようになってきた。それもまた母の愛だったのだと。
そして 母の死後、約半年間は何も手がつかずショックで、PTSD的鬱屈した精神状態が続いていたが、幸い我を心配してくれた友たちのおかげで今年の春頃から何とか立ち直りようやくまた音楽の企画活動を再開できるようになった。そして一昨年の「反戦歌、労働歌」コンサートに続き始めたのが、今の情勢に対決すべく「共謀」コンサートであった。
その前回第一回目は、8月11日に、人気シンガー李政美さんをメインに迎えて大盛況のうちに成し終えられた。が、そのときはまだ我は本調子でなく、その前に親しくしてくれた友と思う人の死もあり、その店の後片付けにも追われて万全の準備もできなかった。
今回は先の時点で既に日程も決めてあったこともあり、出演者も少なめに抑えたので、いろんな意味でゆっくり落ち着いて取り組めた。※それでも前の晩遅くになって当日用のプログラム冊子を作り替えたりとほぼ不眠のままで当日を迎えたけれど。
幸いにして今回いちばん心配していた我が父も、当日は、いつものショートステイ以外の日であったが、特別に施設に預かってもらえて、我は彼のことは念頭になくコンサートに専念することができた。
そして今つくづく思うのは、その亡き友が繋げてくれた出会いもだけれど、さまざまな「昔の友」、そして新たな友たちのおかげで今の我があり、こうしてかなり大きな規模でコンサートも企画できるのだなあという有難い思いである。
じっさいのところ我個人に関しては心から満足できる結果は出せないでいるけれど、(それは演奏者側の問題では全くなく)進行や記録など主催側の問題として常に課題を残しているが、とにもかくにもこうした音楽企画を今後も続けていけるのならば、それは素晴らしく良い有難いことだと全てにただただ感謝するしかない。
遅くなったが、当日オープニングから最後の最後まで、ずっとステージ上向かって右側でひっきりなしにパーカッションなど、鳴り物を担当し音場を豊かに歌い手を支えてくれた槙篤氏に厚く感謝しなければならない。いつも慌ただしい中、きちん紹介できずに申し訳なく思ってます。
まさに「裏方」「縁の下力持ち」として毎回このコンサートをしっかり支えてくれている彼にきちんと御礼できずに心苦しく思う。スポットライトがなかなか当たらぬ役割だが、彼抜きではこのコンサートは毎回成り立たない。まさに隠し味であろう。彼と我を繋いでくれた藤しんいちろろう氏は今回連絡とれなかったが、彼にも感謝せねばならない。
そして毎回、我の勝手やワガママを受け入れ許し背中を押してくれるかけこみ亭のぼけまる氏にも今さらながら深く深く有難う!と言いたい。そして当日は遠路来てくれた昔から顔馴染みの旧知のお客様たちにも。
そう、「俺をこんなに変えてくれた昔の友」たちのおかげで、我は少しづつ再びもっと自由になるように思えてきている。
ならばこの先、どんなに大変で辛いことが起きようと、生活で苦労しようとも何も不安はないのではないか。ほんとうの自由はもうすぐそこにある。
そして今日25日もかけこみ亭には、我をこんなに変えてくれた師匠・古川豪さんが京都からやってくる。ぜひ尊顔を仰がねば。
♪でも俺をこんなに変えてくれた 昔の友がいるんだ
朝日は昇るよ、少しづつだけどね
そのときその日こそ 自由になるんだ
――とは、ディランⅡの名曲「男らしいってわかるかい」の一節で、一昨日の「共謀」コンサート、最後の最後に、そのディランⅡのながいようさんがうたってくれたものだ。
終わって数日たった今もずっとその曲が、我の頭の中で流れ続けている。そう、俺を、こんなに変えてくれた昔の友、旧い友がこんな我にもいるのだ。
それは友というには失礼だが、若き日に出会い懇意にして頂き勝手にこちらが私淑した人たちであり、吉祥寺のぐゎらん堂で知ったシバや鈴木翁二、そして中川五郎ら若きシンガー、アーチストたち、彼らと知り合わなかったらいったい我は今どうなっていただろう。
もっとマトモな社会人になっていて子や孫たちに囲まれのんびり優雅に過ごしていたとも夢想するが、実のところ、その十代半ばから落ちこぼれて不登校気味だった我故、深夜放送を聞きガロを読みあさり吉祥寺をぶらついていたのだから、その出会いもまた必然であったに違いない。
とにもかくにも彼らを知ったことで、新たな世界に出会い大きく影響を受け、「就職しないで生きるには」の道を選んだのだから、まさにその出会いによって今の自分がいるのである。
では、カタギにならなければ、それで自由になれたのかというと、確かに毎朝すし詰めの通勤電車に揺られて会社勤めはしないですんだ代わりに、時間はたっぷりあったけれど金はなく、ただ自ら好き勝手に何でもできる「自由」は手に入れた。
しかし、それは束の間のものでしかなく、若き日はそれで万事OKであったが、歳とって小金を稼ぐバイト仕事も少なくなり、親もまた同時に老いてしだいに弱ってきてしまえば、嫌でも介護という現実が一人息子である我に圧し掛かって来る。
辛くても会社勤めに耐えれば、ある程度老後の生活は積み立てた年金や退職金で保障されるわけだが、老いてはたと気づけば、我には今住む家以外何の財産もない。その家だって親名義だが、我のものになったとしてもその固定資産税すら支払う収入は我にはない。
今は、父がまだ老衰してきても健在で彼の年金が入って来るから、赤字続きだが、まだ何とか生活は立ち行く。が、父が亡くなれば現実問題として、我の収入は、ネット古書店で稼ぐ微々たるものだけとなる。それでは定収としてアテにできないばかりでなく、電気ガス水道代にも満たない可能性がある。いったいどうしたら良いのだろう。我の老後は誰が看る? 一人で自らのオムツ交換できるのだろうか。
結局のところ、若き日の自由というものは、幻想であり、真に老いて働くことができなくなったとき過不足なく自由に生きるためにも、人はカタギに、まっとうな社会人になるのだなあ、と今この歳になって気がついた。それができる人はすべきである。
しかし、時間は戻らないし、戻ったとしても元より人間付き合いの下手な、イレギュラーな人間は、やり直してもまた失敗することは間違いないと思えるから、やはりこの生き方しかなかった。ならばこうした人生も然りであり、反省や悔やんでも仕方あるまい。肯定できなくとも受け入れた上で、少しでもうまくどうやっていくか考えるしかない。
おそらく日々あたふた金の工面に追われているうちにやがて人生のタイムリミットも来て、天に召される。それもまた我が人生、一人で淋しく大変でも仕方ない。
ただ、今は老いて弱りともかく手のかかる父の介護でいっぱいいっぱいで、去年はそこに末期癌を病む母もまだ抱えていたから、ほんとうに時間がなく我も昼夜寝ずの介護で心身疲弊し過労死寸前だった。
母が予想より早く急逝したのもそんな我を思ってのことかもと、振り返り今はやっと思えるようになってきた。それもまた母の愛だったのだと。
そして 母の死後、約半年間は何も手がつかずショックで、PTSD的鬱屈した精神状態が続いていたが、幸い我を心配してくれた友たちのおかげで今年の春頃から何とか立ち直りようやくまた音楽の企画活動を再開できるようになった。そして一昨年の「反戦歌、労働歌」コンサートに続き始めたのが、今の情勢に対決すべく「共謀」コンサートであった。
その前回第一回目は、8月11日に、人気シンガー李政美さんをメインに迎えて大盛況のうちに成し終えられた。が、そのときはまだ我は本調子でなく、その前に親しくしてくれた友と思う人の死もあり、その店の後片付けにも追われて万全の準備もできなかった。
今回は先の時点で既に日程も決めてあったこともあり、出演者も少なめに抑えたので、いろんな意味でゆっくり落ち着いて取り組めた。※それでも前の晩遅くになって当日用のプログラム冊子を作り替えたりとほぼ不眠のままで当日を迎えたけれど。
幸いにして今回いちばん心配していた我が父も、当日は、いつものショートステイ以外の日であったが、特別に施設に預かってもらえて、我は彼のことは念頭になくコンサートに専念することができた。
そして今つくづく思うのは、その亡き友が繋げてくれた出会いもだけれど、さまざまな「昔の友」、そして新たな友たちのおかげで今の我があり、こうしてかなり大きな規模でコンサートも企画できるのだなあという有難い思いである。
じっさいのところ我個人に関しては心から満足できる結果は出せないでいるけれど、(それは演奏者側の問題では全くなく)進行や記録など主催側の問題として常に課題を残しているが、とにもかくにもこうした音楽企画を今後も続けていけるのならば、それは素晴らしく良い有難いことだと全てにただただ感謝するしかない。
遅くなったが、当日オープニングから最後の最後まで、ずっとステージ上向かって右側でひっきりなしにパーカッションなど、鳴り物を担当し音場を豊かに歌い手を支えてくれた槙篤氏に厚く感謝しなければならない。いつも慌ただしい中、きちん紹介できずに申し訳なく思ってます。
まさに「裏方」「縁の下力持ち」として毎回このコンサートをしっかり支えてくれている彼にきちんと御礼できずに心苦しく思う。スポットライトがなかなか当たらぬ役割だが、彼抜きではこのコンサートは毎回成り立たない。まさに隠し味であろう。彼と我を繋いでくれた藤しんいちろろう氏は今回連絡とれなかったが、彼にも感謝せねばならない。
そして毎回、我の勝手やワガママを受け入れ許し背中を押してくれるかけこみ亭のぼけまる氏にも今さらながら深く深く有難う!と言いたい。そして当日は遠路来てくれた昔から顔馴染みの旧知のお客様たちにも。
そう、「俺をこんなに変えてくれた昔の友」たちのおかげで、我は少しづつ再びもっと自由になるように思えてきている。
ならばこの先、どんなに大変で辛いことが起きようと、生活で苦労しようとも何も不安はないのではないか。ほんとうの自由はもうすぐそこにある。
そして今日25日もかけこみ亭には、我をこんなに変えてくれた師匠・古川豪さんが京都からやってくる。ぜひ尊顔を仰がねば。
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