人の亡き後もまだその先も続きもある2018年04月27日 23時07分16秒

★抽象的なことを備忘録として

 いろいろあって今日は疲れ果て、さらにアルコールも回ってきちんとした真っ当なことは書けやしない。
 で、前段を省いてきわめて抽象的なことを書く。わかる人はわかってくれるかもしれない。

 思い半ばで、闘いの最中で死んでいく人がいる。その残された思いは家族、妻や子たちが引き継いでいくことが多いことであろう。
 が、家族もいなければその思いはどうなるのか。道半ばで頓挫して雲散霧消してしまうのであろうか。じっさいそうして偉大な人が死に去り運動は頓挫したり収縮していくことはままあることは知っている。
 が、最近我は思うのは、いや、そうだとしても、まだその先があり、この続きは必ずあるということだ。

 一人のリーダー的な人が死んでいなくなろうとも、その彼が体現していた思想や意思、思いは亡き後も決して消えることはなく民衆や大衆が引き継ぎ、脈々とまさに草の根的に続いていくと間違いなく思えるからだ。
 それは血縁的関係者や交友関係にあった仲間たちだけが受け継いでいくものではなく、そもそもその運動の根幹を成す大衆の意思というようなものがある限り絶対に消えてなくなりはしない。あくまでもそのリーダーは表層の一部であり、その根柢には彼を支えた皆が共有する強い確かな大衆の意思があるのである。

 明治の近代初の公害闘争として、まず谷中村は廃村となり消えてなくなってしまったけれど、その闘いを率いた田中正造の理念と思想は今も多くの闘争の支えになっている。それはあの山城ヒロジさんもまた同様であり、我は彼と出会い手を握ったとき、谷中村出身の祖母がよく懐かし気に言っていた「田中のおじやん」というのはこういう人なのだと得心し深い感銘うけた。
 権力に対するどのような闘争、運動も下火になりときに敗北で終わるときがあろうとも決してそれは無意味でも無価値でもない。そうして抵抗し闘い続けた人たちがいたということがまた次の闘いの火種となってまた新たな闘争の支えとなるのである。そして火は消されても消されてもまた燃え盛りいつかは燎原を焼き尽くすときがくる。

 ならばどのような死であれ、人の死、一個人の死もまた無意味どころかそれですべてが終わりと考えてる必要はないように思えて来た。人は必ず死ぬ。が、その人は死んでも彼の思いに関しては、存外まだ先も続きもあるのだと間違いなく思う。
 ならばこそ人はその生きざまをしっかり後の者たちに示すためにもしっかり生きねばならないのだとわかる。

 そう、殺されはする、が、死にはしない、と。昔、我がうんと若い日に、出会った先人から教わった言葉の意味が今はよくわかる。人はときに弾圧や悪意から、そしてそれもまた運命として殺される時もある。が、その確固たる思いと確かな人生、まっすぐな道筋が在る限り、絶対に死にはしないのである。
 ならばときに負けはする。が、それは終わりではない。その思いがある限り、闘いは常にここから、今から始まる。