誰よりも長く生きて老いて死を迎えること ― 2020年01月18日 15時48分16秒
★我が父のこと
いま、このブログを読まれている方で、今秋96歳となる、我の父よりも年上の人、そしてその方を介護している人はいるのだろうか。もし、おられたとしたらそちらの「状況」をお聞かせ願いたい。
おそらく、そんな人は皆無と想像してそうした年寄りの「現実」とはどういうものか、このところの差し迫った状態を記しておく。
政府が言う「一億総活躍・人生百年」時代だとすれば、百歳近くまで人は生き永らえ、そしてそれを在宅で看護、介護する人もこれから多々増えていくことは間違いない。ならば、ほんとうの「年寄り」とはどういうものか、ここに書き記しておくのも無意味ではないだろう。
そう、ヒトは老いるし必ず死ぬ。明日は誰にとっても我が身なのだから。またマスダの愚痴かぁとお思いの方は今回は読まないでください。
心配していた積雪は朝から粉雪が降り出したものの積もることなく、午後には雨に変わり今、夕刻時にはやんでいる。ほっとした。
子どもの頃は、雪が待ち遠しかったし降り出すと歓迎したが、北陸、東北、北海道のように毎年雪は必ず降って積もる地方はそれはそれで仕方ないが、ごくたまに積もる程度の雪が降るか降らないかという東京では、ともかく降らないのにこしたことがない。特に我も老いてきてそう強く思うようになった。
積もる程の降雪は、何より後始末が大変で、ただでさえ疲労困憊、青息吐息で日々やり過ごしている身としてはまた新たな労働が課せられる。家の前の道の雪搔きだけでもそれで腰痛が悪化して寝たきりとなる可能性も高い。
やれやれ、である。父を送り出したショートステイの施設からは幸い何も連絡は来ていない。今朝も送り出すまでが大変だった。
父はこの数年、ルーティンとして、週の内二回、別の施設にそれぞれ二泊三日でお泊りに行ってくれている。土曜朝から月曜の夕方までと火曜朝から木曜夕までだ。
基本、我は送り出しと迎え入れる時は当然のこと、ウチにいなくてはならない。が、このところ週末は必ず介護施設に父を預けられるので、土日開催の自ら企画したコンサートやお誘い受けたライブにも顔出せるようになった。家は、犬猫たちに留守番させて。
が、数日、数晩でも父が在宅の日が大変で、起きてるときは目が離せないだけでなく、寝かせてもオムツ交換に深夜、早朝に起きねばならないから父がいる間は常に睡眠不足である。
今日も朝方まだ外は真っ暗の最中一回起きて、父のオムツの中の吸水シート、紙パッドだけは交換した。でないと、溢れてシーツを汚すこともあるし、ときに当人自ら溜まった尿で不快なオムツを外して、ベッドの上や枕元、室内に投げ散らかすこともあり、大変な惨事が起きてしまうからだ。
父が終日家にいる日は、それからまた我も寝直すこともできるが、今日土曜は、またショートステイに送り出す日だったので、寝足りない気分であったがそのままベッドでスマホいじったりメール確認したりして8時ごろ父を起こした。施設の迎えが来るのは、9時半だが、それでも時間的には余裕はない。いまは、ともかく食べるのも含めて移動から着替えまで万事時間がかかり、起こしてから一時間では絶対に何事も終わらないからだ。
けっきょく、父を送り出してから朝昼兼ねて残り物を食べて腹を満たし倒れ込むように眠ってしまった。外の雪のことが気にかかったけれど。
それから2時半頃たっぷり約3時間眠ってやっと起きた。小雪はまだ降っていたけれど、降ってはすぐに溶けたようで地面は黒く積もってはない。ほっとした。そして窓から外を眺めつつこれを記している。
また、垂れ流しの排泄のことは度々書いて来たが、今いちばん頭を痛めて困惑していることは、それよりもついにこのところ父が食べない、食べられなくなってきたことで、今朝がたは無理強いして食べさせたらお粥なのに途中で全部吐いてしまった。※ともかく、しっかり食べろと急かしても、これ全部食べるのか?どうやって食べるんだと、食べたくない故大騒ぎしてちっとも食が進まないのでまいった。
このところ排便がなく大便が溜まっていたこともある。しかし、基本、内臓だけは丈夫で、今も自分の歯もかなりある人で、嚥下障害がありながらも食欲だけは常にあった。若い時から健啖家として親戚内でも知られていた。
だからこの歳まで生き永らえてきたわけで、それがこのところ加齢と共に年々さすがに食が細くなってきて、体重も減る一方でどうしたものかと案じていた。
そしてついに年明け、正月さなかに施設から戻って来た晩は、夕方の仮眠から起こしたら、食べたくない、まだ寝たいと言い張り、ひと悶着起こしまた寝室へ行ってしまった。夜中に起きだして騒ぐと思っていたが、けっきょくそのままひたすら眠り続けてしまい、オムツもキチンとセットすることなくさらに朝まで12時間も寝続けたから、翌朝はベッドに大世界地図を広げてしまった。その日は着てたものから敷布団、毛布、シーツ、マットまでボーダイな量の洗濯と干すのに終日追われた。
考えてみれば、施設からウチに帰って来ていったん仮眠とってからまた起きて着替えて居間まで来て食事をとることも百歳近い父にはまたかなり体力とられることであり、基本横になって眠るのが一番楽なわけで、もはやそういう状況になってきたことかと気づく。
つまり特に大きな病気もなく、ただ歳とって老いさらばえた者の最期は、そうして飯も食べなく、食べられなくなってただひたすら眠ることを欲するのだと思えてきた。そしてまさに眠るように息をひきとる。それが老衰死ということなのだと。
昔の電球、蛍光管などだと長く使って古くなると最後はチカチカしてきて点いたり点かなかったりしてくる。乾電池、バッテリーも最後、切れる前は同様の状態を示す。父もついに電池が切れてきたのだ。
呆けも仕方ないし歩けない、動けないこと、下の世話も大変でも仕方ないと思う。ただ、いろいろ父のために買ってきたものを食べてくれなくなったり、頑張って作ったものが食べられなくなったのならば、家で我が介護する意味があるのかと自問している。
最後はただこんこんと眠り続けて意識もなくなっていくのならば、下の世話も含め父の介護は、息子でなくても誰でもできよう。そういう回復の見込みのない老人たちを収容する専門の入院施設もある。
さて、父をこれからどうしたものか。叱りつけ怒鳴りつけ食べさせても結果吐いて戻してしまうのならば、誤嚥、そして肺炎にもなるわけで、もう息子ができることはない。
母のとき同様、出来れば最後の日まで、父をこの家で過ごさせて看取りたいと思っていたが、今朝の騒動を振り返るとそれはどうも難しいことだと強く思えてきた。
新年そうそういよいよその時が来たか。あるいは少しでも持ち直すか。何につけても人が死ぬこともまたタイヘンなのである。死んだ後はもちろんのこと。まあ、死んだ当人は、真に解放されるだろうが。
いま、このブログを読まれている方で、今秋96歳となる、我の父よりも年上の人、そしてその方を介護している人はいるのだろうか。もし、おられたとしたらそちらの「状況」をお聞かせ願いたい。
おそらく、そんな人は皆無と想像してそうした年寄りの「現実」とはどういうものか、このところの差し迫った状態を記しておく。
政府が言う「一億総活躍・人生百年」時代だとすれば、百歳近くまで人は生き永らえ、そしてそれを在宅で看護、介護する人もこれから多々増えていくことは間違いない。ならば、ほんとうの「年寄り」とはどういうものか、ここに書き記しておくのも無意味ではないだろう。
そう、ヒトは老いるし必ず死ぬ。明日は誰にとっても我が身なのだから。またマスダの愚痴かぁとお思いの方は今回は読まないでください。
心配していた積雪は朝から粉雪が降り出したものの積もることなく、午後には雨に変わり今、夕刻時にはやんでいる。ほっとした。
子どもの頃は、雪が待ち遠しかったし降り出すと歓迎したが、北陸、東北、北海道のように毎年雪は必ず降って積もる地方はそれはそれで仕方ないが、ごくたまに積もる程度の雪が降るか降らないかという東京では、ともかく降らないのにこしたことがない。特に我も老いてきてそう強く思うようになった。
積もる程の降雪は、何より後始末が大変で、ただでさえ疲労困憊、青息吐息で日々やり過ごしている身としてはまた新たな労働が課せられる。家の前の道の雪搔きだけでもそれで腰痛が悪化して寝たきりとなる可能性も高い。
やれやれ、である。父を送り出したショートステイの施設からは幸い何も連絡は来ていない。今朝も送り出すまでが大変だった。
父はこの数年、ルーティンとして、週の内二回、別の施設にそれぞれ二泊三日でお泊りに行ってくれている。土曜朝から月曜の夕方までと火曜朝から木曜夕までだ。
基本、我は送り出しと迎え入れる時は当然のこと、ウチにいなくてはならない。が、このところ週末は必ず介護施設に父を預けられるので、土日開催の自ら企画したコンサートやお誘い受けたライブにも顔出せるようになった。家は、犬猫たちに留守番させて。
が、数日、数晩でも父が在宅の日が大変で、起きてるときは目が離せないだけでなく、寝かせてもオムツ交換に深夜、早朝に起きねばならないから父がいる間は常に睡眠不足である。
今日も朝方まだ外は真っ暗の最中一回起きて、父のオムツの中の吸水シート、紙パッドだけは交換した。でないと、溢れてシーツを汚すこともあるし、ときに当人自ら溜まった尿で不快なオムツを外して、ベッドの上や枕元、室内に投げ散らかすこともあり、大変な惨事が起きてしまうからだ。
父が終日家にいる日は、それからまた我も寝直すこともできるが、今日土曜は、またショートステイに送り出す日だったので、寝足りない気分であったがそのままベッドでスマホいじったりメール確認したりして8時ごろ父を起こした。施設の迎えが来るのは、9時半だが、それでも時間的には余裕はない。いまは、ともかく食べるのも含めて移動から着替えまで万事時間がかかり、起こしてから一時間では絶対に何事も終わらないからだ。
けっきょく、父を送り出してから朝昼兼ねて残り物を食べて腹を満たし倒れ込むように眠ってしまった。外の雪のことが気にかかったけれど。
それから2時半頃たっぷり約3時間眠ってやっと起きた。小雪はまだ降っていたけれど、降ってはすぐに溶けたようで地面は黒く積もってはない。ほっとした。そして窓から外を眺めつつこれを記している。
また、垂れ流しの排泄のことは度々書いて来たが、今いちばん頭を痛めて困惑していることは、それよりもついにこのところ父が食べない、食べられなくなってきたことで、今朝がたは無理強いして食べさせたらお粥なのに途中で全部吐いてしまった。※ともかく、しっかり食べろと急かしても、これ全部食べるのか?どうやって食べるんだと、食べたくない故大騒ぎしてちっとも食が進まないのでまいった。
このところ排便がなく大便が溜まっていたこともある。しかし、基本、内臓だけは丈夫で、今も自分の歯もかなりある人で、嚥下障害がありながらも食欲だけは常にあった。若い時から健啖家として親戚内でも知られていた。
だからこの歳まで生き永らえてきたわけで、それがこのところ加齢と共に年々さすがに食が細くなってきて、体重も減る一方でどうしたものかと案じていた。
そしてついに年明け、正月さなかに施設から戻って来た晩は、夕方の仮眠から起こしたら、食べたくない、まだ寝たいと言い張り、ひと悶着起こしまた寝室へ行ってしまった。夜中に起きだして騒ぐと思っていたが、けっきょくそのままひたすら眠り続けてしまい、オムツもキチンとセットすることなくさらに朝まで12時間も寝続けたから、翌朝はベッドに大世界地図を広げてしまった。その日は着てたものから敷布団、毛布、シーツ、マットまでボーダイな量の洗濯と干すのに終日追われた。
考えてみれば、施設からウチに帰って来ていったん仮眠とってからまた起きて着替えて居間まで来て食事をとることも百歳近い父にはまたかなり体力とられることであり、基本横になって眠るのが一番楽なわけで、もはやそういう状況になってきたことかと気づく。
つまり特に大きな病気もなく、ただ歳とって老いさらばえた者の最期は、そうして飯も食べなく、食べられなくなってただひたすら眠ることを欲するのだと思えてきた。そしてまさに眠るように息をひきとる。それが老衰死ということなのだと。
昔の電球、蛍光管などだと長く使って古くなると最後はチカチカしてきて点いたり点かなかったりしてくる。乾電池、バッテリーも最後、切れる前は同様の状態を示す。父もついに電池が切れてきたのだ。
呆けも仕方ないし歩けない、動けないこと、下の世話も大変でも仕方ないと思う。ただ、いろいろ父のために買ってきたものを食べてくれなくなったり、頑張って作ったものが食べられなくなったのならば、家で我が介護する意味があるのかと自問している。
最後はただこんこんと眠り続けて意識もなくなっていくのならば、下の世話も含め父の介護は、息子でなくても誰でもできよう。そういう回復の見込みのない老人たちを収容する専門の入院施設もある。
さて、父をこれからどうしたものか。叱りつけ怒鳴りつけ食べさせても結果吐いて戻してしまうのならば、誤嚥、そして肺炎にもなるわけで、もう息子ができることはない。
母のとき同様、出来れば最後の日まで、父をこの家で過ごさせて看取りたいと思っていたが、今朝の騒動を振り返るとそれはどうも難しいことだと強く思えてきた。
新年そうそういよいよその時が来たか。あるいは少しでも持ち直すか。何につけても人が死ぬこともまたタイヘンなのである。死んだ後はもちろんのこと。まあ、死んだ当人は、真に解放されるだろうが。
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