個人の小売商店衰退の時代を憂う2014年01月16日 12時41分05秒

★街中の個人商店が消えていく       アクセスランキング: 146位

 アベノミクスで景気が回復して来ているのかはともかく、自分の町の店を見回すと、去年年末までに閉店してしまった商店がいくつも思い浮かぶ。それは出来て日が浅い店ではない。自分が子供の頃からそこにあり、何十年も続いてきた店がついに2013年の段階で商売をやめてしまったのだ。
 それは景気が悪いから、まだ景気回復の恩恵がそこに至っていないからとかいう理由以前に、もう今はそうした街中での小規模の個人の商店はやっていけない「時代」になってしまったのではないかと思える。そのことについて考えてみた。

 去年の大晦日近くの日付をもって、「この地で長らく続いてきましたが、諸般の事情で年内○○日をもって閉店させて頂きます」という張り紙が出ていたのは、3軒あった。一つは、行きつけの動物病院の並び、ウチの市では現存する数少ない銭湯の向かいの雑貨屋で、間口の小さなよろず屋のような店だがもう何十年も老夫婦で細々とやっていた。生活雑貨、文具からちょっとした衣類、菓子パンや調味料の類までともかく何でも並べてあった。
 もう一軒は、工場が立ち並ぶ地区にやはり何十年も続いていた食堂で、ウチの町もしだいに宅地化がさらに進み、工場も移転し巨大マンションに変わっていくことも多く、労働者相手のそうした店は成り立たなくなったと推察する。
 さらにもう一軒は、卸売市場の中にあるというか、市場に隣接していた食堂で、やはり同様に、年内○○日をもって営業を終えますと張り紙が出ていた。市場の中にあったあっただけに焼き魚定食などおかずの量も鮮度も良くキムチの材料などを仕入れに行くたびに寄っていたがなくるのは残念でならない。

 思うに、景気が回復しつつ?あるとしても、これから消費税も上がるし、またそうなると税金の申告など手続きが面倒にもなる。新たな作業も増えていく。今でさえやっていけないのに、「値上げ」せざるえないとしたらさらに客は減るかもしれない。そうした諸々のことを勘案すると、もう歳もとってきたし跡継ぎもいない。ならばこの年内がやめる潮時かと判断したのではないか。
 たぶん消費税の税率アップがなければもう少し店は続いていたかもしれない。要するに、その新しい状況下でも商売を続けていくだけの気力、やる気がなくなって閉店を選んだということだろうか。
 また、年末ではないが、ウチの近所の、子供の頃から続いていた豆腐屋もついに店を閉めた。そこは親世代の経営者が亡くなり、マス坊の同級生でもある息子が稼業を継いでいたのだが、けっきょく店を盛り返すことはかなわずついに店をたたみ、彼は仕事に出ている。小学校の近くに昔からあった金物屋も先日前を通ったら潰れて更地になっていた。駅前にあった戦後から続いて老夫婦が切り盛りしていた、ものすごく店内は古びて汚いが安くて味は抜群の焼き鳥屋もずっと店を閉めていたと思ったら再開はならずに閉店してしまった。
 思いつくまま並べてもこの街では何十年も続いていた個人商店が次々と消え続けている。ではその後に何か新しい店が入ったりして開店したかというと、そんなところは一つもない。シャッターが閉まったまま、貸店舗の張り紙が出ているか、更地となったままだ。

 それでも駅前には新規にラーメン屋とかできてはいるが、それはどこの繁華街でもよく見かける名のあるチェーン店で、個人商店ではない。こうした傾向は、この10年、小泉構造改革の頃から顕著となってきて、ウチの駅前はまだしも青梅線の他の駅前商店街は今やほとんど全ての店が廃業してしまい閉まっている「シャッター商店街」となってしまった。店を開けている店をみつけるほうが難しいのである。

 ならばアベノミクスが効をそうし、デフレ脱却し、給料も上がり庶民の所得も全体的に増えればまたシャッター商店街に活気が戻り多くの個人商店が再開し並ぶのであろうか。そうあってほしいと望むもののそれはまず難しいと思える。
 都内の中延や十条などの○○銀座と名が付くような、車も通れないような店が密集した商店街ならばともかくもウチのほうのような郊外型ベッドタウンではどんなに景気が回復しようともはや個人の小売業の店は成り立たないのではないか。住民がいないわけではない。その多様なニーズに個人経営の小店舗では個々には対応できないからだ。

 今の住民、消費者は皆忙しい。平日はそうした個人商店がやっている時間に来れない人も多いだろうし、たまの休日にいくつもの小さな商店を買い物かご下げて周るよりもヨーカ堂やジャスコのような大型スーパー、あるいは巨大駐車場が完備されている郊外型ショッピングモールへドライブがてら家族皆で出かけてまとめ買いしたほうが楽だし簡便であろう。

 また、ちょっとした買い物ならば駅前のコンビニでほぼ事足りる。雑誌も雑貨も弁当や飲み物もコンビニに行けば間に合うのである。しかも24時間いつでも買える。
 思うに、21世紀も半ばへと向かう現在、我々の消費生活、日常の買い物は、巨大スーパー及びショッピングモール、郊外型ドラッグストア、大型ホームセンター、そしてコンビニさえあればもう十分なのだと気がつく。そこに品数の少ない、品ぞろえの悪い個人商店が入り込む余地はない。
 昔は駅前には必ず本屋があった。しかし、個人商店の本屋が残っている駅前は少ない。今駅前には本屋はない。本屋とは今、ヨーカ堂のような巨大スーパーか、モールの中に入ってチェーン経営で広い売り場を誇るか、郊外で広い駐車スペースを持つショッピングセンターの中に入っている。個人商店の本屋などこの町で数えるほどに減ってしまった。それは家電を扱う電気屋でも酒屋でも肉屋、魚屋、八百屋でも全て同じだ。
 けっきょく、すべての小売店舗が巨大な資本力を持つ大手小売業の前に淘汰されていく。買い手も品ぞろえが悪く、まして値段も高い個人商店より安売りで知られる大手スーパーへ足が向く。それが時代の流れなのだろう。そしてそこに追い打ちをかけたのが、カタログ誌やインターネット等での「通販」であった。

 先に挙げた閉店していった個人商店もそこに至るには明白な理由がある。豆腐屋ならば、そのすぐ傍にできた大きなドラッグストアチェーンでもほぼ半値でパックに入った豆腐が買えるのだ。味は個人商店のほうが手作りで美味しくても、夜10時までやっているそのドラッグストアで人は他の食品と一緒に豆腐も買ってしまう。だから売り上げが減ってしまった。他の店、食堂もまた同じことで、牛丼チェーンならば、個人商店の定食の値のほぼ半分で味噌汁付きで牛丼など一食たべられる。しかも場所も足が向きやすい繁華街にある。

 この町で長年何十年も店は続けてそれなりに細々とでもやってきてはいたが、そうして徐々に売り上げが落ち、客が減り、まして後継者もなければ、人は先行きの見えない仕事をやり続ける理由を失う。こうして個人で経営していた小売業は次々と消えていく。
 吉祥寺のようないつでも外からも人が来て賑わう繁華街のある町ならば、新規に個人商店を開いてもやりようによっては成功するかもしれない。しかし、平日の日中、出歩いているのは老人ばかりというようなこの町では、稼業を継いだとしてもどんな店でも儲けを出すことは難しいのではないか。駅前にはヨーカドーとショッピングモール、そして大型家電ショップ、工具から園芸、金物まで扱う巨大ホームセンター、大手ドラッグストアもこの町にはあるのだ。

 こうした状況はおそらく日本国じゅうどこでも同様だと思える。逆にまったく大手資本が入ってこれないほど人口の少ない町ならば個人商店しかない故昔ながらのままやっていけるかもしれない。こう書いているのは、長いものに巻かれろ、と言いたいからではない。どうせ儲からないからやめろ、と言っているのではない。そうした「悪しき現実」を前にして、だからこそ個人商店、小規模の小売業がやっていける道が何かあると信ずるからだし、すべての店が巨大資本の元に収斂させては絶対にならないと考えるからだ。

 すべての現実を「時代の流れ」と言い切ってしまうのはたやすい。そして仕方ないと諦めることはもっとたやすい。どうしたら個人でも資本力のない者でも商売を続けていけるか、自問し続けている。