監視で国民萎縮の「共謀罪」を憂う・3 ― 2017年05月19日 16時04分17秒
★「共謀罪」衆院委で採決を強行 自公維が賛成、可決
これから国会前に行ってきます。戻ったら書き足します。
と、書いて、5時ごろ家を出て久々に国会前に行ってきた。ギターを抱えて。
で、家に帰って今感じていることをあえて書く。
★運動は、もっと広く大きく緩やかに、誰でも「連帯」と「共感」の意思をもたねばと。
行けたことは良かったし、行ったことで得たことも少なくなったが、正直、今日は失望した。これではダメだなあ、共謀罪が通っても仕方ないとさえ思った。
参加者も主催者発表9千人とのことだったが、かつて戦争法成立間際の熱気を知る者には、もの淋しい人出であったし、何よりも全体的熱気があまり感じられなかった。
しかし、それはこうした集会や抗議活動に参加する人たちも連日の行動で疲れてきていることもあろうし、そもそも総体としての活動に参加する人たちの数が一頃より減ってきているので沈滞化も仕方ないと思う。
ただスピーチに臨んだ野党の国会議員たちの熱い訴えに比べて、大衆のほうが醒めているというか、反応がやや鈍い気がして、度重なる敗北に諦めムードが漂っている感じがした。
先日の日比谷野音のほうが、箱ものでの集会ということもあったせいか、一体感は強く登壇者も多様で、その人たちの顔もよく見れたこともあり、参加者全員、連帯感、闘う意思は共有できたと我は思えた。
が、今日は・・・
国会前の野外、それも車道沿いの並木道でという、スピーカーの声だけしか聞こえず、車道を挟んで細長い歩道に分断された集会は、いかに参加者の一体感を保てるかにつきるわけだが、今回は意外な事態に我は戸惑った。
あえて書く。どういう団体なのか確認していないが、主催団体がプログラムに沿って今日の集会を開始し進行させている最中も、一切それを無視して、国会正面に向かって右側の中ほどで、ある一群の人たちが、鳴り物入りで、自分たちのマイクの音量をかなり大きくして、独自に「抗議集会」を催していた。
ドラムを打ち鳴らすは、トランペットなど楽器なども吹いて、ともかく騒がしい。そのメンツを見る限り、先の戦争法成立阻止運動のときにも参加していたリズム隊を中心にした若い世代だとわかる。シールズ風のシュプレヒコールもやっている。
しかし、それが主催者の進めるプログラムの最中なのである。とうぜん、彼らのやってる音声が流れてくるので、スピーカーからの主催者側の登壇者たちの発言がよく聞こえなくなる。
かつての何十万人も集まって、あの広い車道を占拠した頃なら、そうした独自にその仲間内での「活動」もかまわないし奨励されよう。何しろ、あまりに人が多すぎて騒がしく、集会を束ねる大元のスピーカーからの音声は何も聞こえなかったのだからあの頃は。
しかし、今日は違う。その数十分の一程度しか参加者はなく、皆、スピーカーから流れる発言に耳をすませている、のにだ。それに与せず自分たちだけ独自の「集会」をその一角でずっと続けているのである。
ウルサイから、やめろ、主催者側のプログラムが終わってからやれ、と行って彼らに抗議しようかとも考えたが、共謀罪反対とか沖縄連帯という同じ思いをもって参加している人たちなのだ。ここから出ていけとは言えない。
しかし、これは明らかな分断行為であろう。その集会に参加しているのなら、鳴り物で騒ぐのも主催者側の進行に沿って共にすべきだと我は思う。それを一切無視して独自に集会をやるのならば、同じ国会正門前の車道で同時にやるべきではないと考える。
最初は右翼団体か何かの嫌がらせかと思った。しかし、聞こえてくる彼らの発言や呼びかけは当然のことを言っているようで、ならば何故、この集会主催側の進行を一切無視して彼らだけの集会をやっているのか理解に苦しむ。我の周囲の人たちも皆、顔をしかめたり首をひねっていた。
このところ我は昨年春頃から、家庭の事情で忙しくて時間なく身動き取れず、ここ国会前での19日行動にはずっと参加していなかった。来たくても来れなかった。彼らがいつからこうして独自の集会をやっているのかそれは知らない。もしかしたら戦争法成立以後も毎月ずっと19日にはあの熱いスタンスで「集会」を続けていたのかもしれない。それは素晴らしいことだ。
しかし、今日の19日は、衆院法務委員会で、自公に加えて維新も同調して強行採決した日の集会であり、多くの人たちが抗議に集まった。主催者側とはまったく別個の集会を同時にやり続けるのは理解に苦しむ。
多くの参加者は彼らの音声がうるさくて主催者側が招いた人たちの呼びかけや発言が聞き取れなかったばかりでなく気が削がれ、集中できなかったはずだ。
かといって、彼らを追い出したり締め出せば良いとは我は言わないしそうは考えない。どんな運動でも多様な価値観とセンスを持つ万人に開かれたものでないと大きなうねりとなっていかない。シールズがなくなった今、若い世代のロック感覚ある、センスある抗議活動は貴重だと思う。
しかし、結果として集会自体を分断し、その意思を共有、共感しないのであらば、逆に、共謀罪への抗議活動、廃止を求める運動に水をさすことになるのではないか。
今日、我は、久々に国会前に行けて良かった。改めてまたいろんなことを考えさせられた。しかし、これではダメだと今日ほど強く感じたことはなかった。
つまるところ「運動」とは参加者の数なのである。そこに来て、同じ思いを持つ者たちと出会い確認して、刺激を受けて思いを新たに、新たな決意と気概を持つことができないのならば集まる意味がない。
自公ではないが、まさに数は力なのだ。こちら側の数を増やさねばならない。
共謀罪も参院に審議が移りいよいよ正念場である。今も多くの国民はこの稀代の悪法のほんとうの恐ろしさを知らない。金田法相の言うように、法律が成立してから、細かい所は詰めていけば良いという次元のしろものではない。
国家権力、警察、公安にこれ以上の力を与えてしまえば、戦前のオイコラ警察のように、庶民は警官の顔色をうかがって、すぐに逮捕されないようびくびく怯えて暮らさねばならない。
いきおいこうした反政府集会も参加できなくなる。犯罪容疑者として、まず監視されときに盗聴までされるからだ。
そんな時代が近く来る。ならばこそ、我々は連帯し思いを共有し、手を結び合い助け合って権力の横暴に抵抗するしかないではないか。
運動は、もっと広く大きく緩やかに、誰でも参加しやすいよう「連帯」と「共感」の意思をもたねばと、帰り道考えさせられた5月19日であった。
これから国会前に行ってきます。戻ったら書き足します。
と、書いて、5時ごろ家を出て久々に国会前に行ってきた。ギターを抱えて。
で、家に帰って今感じていることをあえて書く。
★運動は、もっと広く大きく緩やかに、誰でも「連帯」と「共感」の意思をもたねばと。
行けたことは良かったし、行ったことで得たことも少なくなったが、正直、今日は失望した。これではダメだなあ、共謀罪が通っても仕方ないとさえ思った。
参加者も主催者発表9千人とのことだったが、かつて戦争法成立間際の熱気を知る者には、もの淋しい人出であったし、何よりも全体的熱気があまり感じられなかった。
しかし、それはこうした集会や抗議活動に参加する人たちも連日の行動で疲れてきていることもあろうし、そもそも総体としての活動に参加する人たちの数が一頃より減ってきているので沈滞化も仕方ないと思う。
ただスピーチに臨んだ野党の国会議員たちの熱い訴えに比べて、大衆のほうが醒めているというか、反応がやや鈍い気がして、度重なる敗北に諦めムードが漂っている感じがした。
先日の日比谷野音のほうが、箱ものでの集会ということもあったせいか、一体感は強く登壇者も多様で、その人たちの顔もよく見れたこともあり、参加者全員、連帯感、闘う意思は共有できたと我は思えた。
が、今日は・・・
国会前の野外、それも車道沿いの並木道でという、スピーカーの声だけしか聞こえず、車道を挟んで細長い歩道に分断された集会は、いかに参加者の一体感を保てるかにつきるわけだが、今回は意外な事態に我は戸惑った。
あえて書く。どういう団体なのか確認していないが、主催団体がプログラムに沿って今日の集会を開始し進行させている最中も、一切それを無視して、国会正面に向かって右側の中ほどで、ある一群の人たちが、鳴り物入りで、自分たちのマイクの音量をかなり大きくして、独自に「抗議集会」を催していた。
ドラムを打ち鳴らすは、トランペットなど楽器なども吹いて、ともかく騒がしい。そのメンツを見る限り、先の戦争法成立阻止運動のときにも参加していたリズム隊を中心にした若い世代だとわかる。シールズ風のシュプレヒコールもやっている。
しかし、それが主催者の進めるプログラムの最中なのである。とうぜん、彼らのやってる音声が流れてくるので、スピーカーからの主催者側の登壇者たちの発言がよく聞こえなくなる。
かつての何十万人も集まって、あの広い車道を占拠した頃なら、そうした独自にその仲間内での「活動」もかまわないし奨励されよう。何しろ、あまりに人が多すぎて騒がしく、集会を束ねる大元のスピーカーからの音声は何も聞こえなかったのだからあの頃は。
しかし、今日は違う。その数十分の一程度しか参加者はなく、皆、スピーカーから流れる発言に耳をすませている、のにだ。それに与せず自分たちだけ独自の「集会」をその一角でずっと続けているのである。
ウルサイから、やめろ、主催者側のプログラムが終わってからやれ、と行って彼らに抗議しようかとも考えたが、共謀罪反対とか沖縄連帯という同じ思いをもって参加している人たちなのだ。ここから出ていけとは言えない。
しかし、これは明らかな分断行為であろう。その集会に参加しているのなら、鳴り物で騒ぐのも主催者側の進行に沿って共にすべきだと我は思う。それを一切無視して独自に集会をやるのならば、同じ国会正門前の車道で同時にやるべきではないと考える。
最初は右翼団体か何かの嫌がらせかと思った。しかし、聞こえてくる彼らの発言や呼びかけは当然のことを言っているようで、ならば何故、この集会主催側の進行を一切無視して彼らだけの集会をやっているのか理解に苦しむ。我の周囲の人たちも皆、顔をしかめたり首をひねっていた。
このところ我は昨年春頃から、家庭の事情で忙しくて時間なく身動き取れず、ここ国会前での19日行動にはずっと参加していなかった。来たくても来れなかった。彼らがいつからこうして独自の集会をやっているのかそれは知らない。もしかしたら戦争法成立以後も毎月ずっと19日にはあの熱いスタンスで「集会」を続けていたのかもしれない。それは素晴らしいことだ。
しかし、今日の19日は、衆院法務委員会で、自公に加えて維新も同調して強行採決した日の集会であり、多くの人たちが抗議に集まった。主催者側とはまったく別個の集会を同時にやり続けるのは理解に苦しむ。
多くの参加者は彼らの音声がうるさくて主催者側が招いた人たちの呼びかけや発言が聞き取れなかったばかりでなく気が削がれ、集中できなかったはずだ。
かといって、彼らを追い出したり締め出せば良いとは我は言わないしそうは考えない。どんな運動でも多様な価値観とセンスを持つ万人に開かれたものでないと大きなうねりとなっていかない。シールズがなくなった今、若い世代のロック感覚ある、センスある抗議活動は貴重だと思う。
しかし、結果として集会自体を分断し、その意思を共有、共感しないのであらば、逆に、共謀罪への抗議活動、廃止を求める運動に水をさすことになるのではないか。
今日、我は、久々に国会前に行けて良かった。改めてまたいろんなことを考えさせられた。しかし、これではダメだと今日ほど強く感じたことはなかった。
つまるところ「運動」とは参加者の数なのである。そこに来て、同じ思いを持つ者たちと出会い確認して、刺激を受けて思いを新たに、新たな決意と気概を持つことができないのならば集まる意味がない。
自公ではないが、まさに数は力なのだ。こちら側の数を増やさねばならない。
共謀罪も参院に審議が移りいよいよ正念場である。今も多くの国民はこの稀代の悪法のほんとうの恐ろしさを知らない。金田法相の言うように、法律が成立してから、細かい所は詰めていけば良いという次元のしろものではない。
国家権力、警察、公安にこれ以上の力を与えてしまえば、戦前のオイコラ警察のように、庶民は警官の顔色をうかがって、すぐに逮捕されないようびくびく怯えて暮らさねばならない。
いきおいこうした反政府集会も参加できなくなる。犯罪容疑者として、まず監視されときに盗聴までされるからだ。
そんな時代が近く来る。ならばこそ、我々は連帯し思いを共有し、手を結び合い助け合って権力の横暴に抵抗するしかないではないか。
運動は、もっと広く大きく緩やかに、誰でも参加しやすいよう「連帯」と「共感」の意思をもたねばと、帰り道考えさせられた5月19日であった。
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