古本稼業再考・消えていくのは本だけではない・32012年09月19日 14時51分53秒

★インターネットの時代の本と古本

 これはどこで聞いたかはっきり思いだせないが、たぶん神田古書会館での古本屋のセミナーのとき誰か古書店主が語った話だと思う。

 古本屋が一番儲かったのは、いつかという話で、それは戦後すぐの頃、街に復員や疎開の人たちが戻ってきて平和な暮らしが再開された頃だという。その店がどこだったかは忘れたが、朝、棚いっぱいに並べた本が夕方にはスカスカになるほど古本が飛ぶように売れたと言う。まさに右から左へ人々は活字さえ並んでいればどんな本でも先を争って買い求めたのだ。
 戦争がやっと終わりもう米軍の空襲に脅えずにすむ。戦時中は様々な統制もあり物資も不足して読書などゆっくりするヒマもかったのだ。人々は活字に飢えていた。
 これは当然であろう。何しろ当時の娯楽は、ラジオと映画、それに繁華街では芝居や落語など口演、興行はあったけれど、それは浅草など興行街に足を伸ばして金を使わないと観れない。いちばん手っ取り早い娯楽であり知の渇望を癒すのは本だけであり、まだ出版事情も悪く新刊の点数も少ないゆえ、嫌でも古本しか手に入らなかったのだ。
 古本屋にとって、いや貸本も含めて出版に携わる者全てにとって良い時代だった。何しろ本はどんな本でも出せばすぐ売れたのである。※レコードなどの「音楽」の趣味はその頃はまだ一般に普及していない。

 本というのは勉強のためのもの、知識を得るという目的もあるがまずは娯楽、つまり楽しみとしてあるものだ。中でも雑誌はよりその傾向が強い。庶民の娯楽の代表、映画がテレビの登場と普及に反比例するように衰退していったように、読書を楽しむ人口もじょじょに減っていく。それでも戦後何度も出版ブームが起こったことは記録すべきことだ。
 最初は若者たちは本を読まずにマンガばかり読むという読書離れが問題視された。だが、近年に至ってはマンガ自体読まれることが減ってしまった。マンガ雑誌は今整理統合、再編が進んでいる。つまり本だけでなく雑誌全般も売れない、読まれない時代なのである。

 つまるところ趣味、娯楽の多様化ということに尽きよう。昔は楽しみの種類自体がごく少なかった。それが今ではゲームやら音楽やらネット動画やら居ながらにしてできる楽しみは幾つもある。だのに人間の時間は増えていない。当然、本や雑誌を読む時間は削られる。テレビだって人はゆっくり腰据えて観ないのである。

 自分は電車に乗ると必ずその乗客の人たちが車内で何をしているか注意して見ている。今のような携帯モバイルが広く普及する前は、居眠りしている人以外は、新聞、雑誌、それに文庫や新書を広げていた。が、今では、皆いったい何を見ているのか。携帯ゲーム機に興じている人もいるし、小型ノートパソコンで何やら作業している人も時にいるが、大概はスマホだかの携帯端末をチェックするのに大忙しである。車内で紙のものを広げている人を探すほうが難しくなってしまった。これでは本や雑誌の出る幕はない。

 出版社は今電子書籍に活路を求めて、印刷・出版からの依存度を減らそうと躍起である。しかし電車内を見る限り、そうした電子本、タブレットに読みふけっている人はまず見かけないし、ああしたモニターは移動中は読みにくいのではないかと推察する。一頃話題になった「自炊」もその手間を思うと大方バカバカしくなってきたのではないか。良くも悪くもたかが本なのである。わざわざデータ化するほどのものではあるまい。

 出版と言う仕事はなくなりはしない。ただ、本、雑誌がそうしたウェブサイト、電子書籍で読むものとなってしまうと、いくらか金は動くだろうが、今までその出版の周囲で働き収入を得ていた人たち全員をとても養うだけの利益は出ない。まして文化のリサイクル業とでも呼ぶべき古本稼業はおこぼれどころかそこに立ち入ることすらできない。データやファイルは「古本」として流通しえない。

 思うに、大量生産、大量消費というこれまでのシステム自体が見直されてきている。もはやモノとしての実体ある本はモノであることの存在価値を問われていく。それは本、雑誌だけではない。今の時代は生産者と消費者の関係さえ見直されている。読み手と書き手の関係さえもあいまいとなってしまった。流通というシステム自体もモノがあることが前提なのである。