あの3.11から一年半2012年09月11日 18時16分22秒

★あらためてこの世は詐欺といかさまだと嘆息する。

 故山本夏彦翁は生前「世はいかさま」だとことあるごとに説いていた。つまりどんな商売にせよ政治によ表向きは綺麗ごとを言うが実はイカサマ、インチキ、詐欺の類なのだと。翁はそれこそが人の世の習いでありいたしかたないという諦観もあったと思うが、それにしても今の世、政治の世界はひどすぎないか。

 先日、東京新聞などが報じたところによると、今夏の猛暑でも関電は大飯原発を再稼動させなくてもこの夏の電力は十分足りていたことが明らかになった。節電はむろん奨励されることだが、野田首相や経済団体が語ったように、この夏を乗り切るのに何も大飯一つ再稼動しなくても十分に事足りたのである。つまり要するに、このままなし崩し的に原発は稼動できなくなり廃炉へと向かうことを怖れた国と関電ぐるみのイカサマ芝居であった。

 政治家という人種は常に国民の危機感・不安感を煽り、「このままだと日本の将来はどうなる、この国は大変なことになる!」と騒ぎたて、愚直な国民はそれを聞いてそうか、それならば仕方ないと政治家の言うことを真に受ける。先の消費税増税もそうだったし今度はTPP交渉参加もだろう。それが世界の流れで、そうしないと日本は破綻する、世界から取り残されるとヒステリックに叫ぶ。※税と社会保障の一体改革をうたったはずなのに、肝心の社会保障のほうは何一つ決めずなおざりにして増税だけがまず確定したのだからこれも世紀の大ペテンであろう。

 先日のNHKの特番では、被災地支援のための税金が実は被災地とはまったく関係ない地区の公共事業に投入されていたと報じていた。何のことはない、またいつもの無駄な公共事業でゼネコンが儲かるよう仕組まれた出来レースであった。福島などの被災地復興に使われるならと増税に甘んじた国民こそ良い面の皮である。政府、政治家、官僚たちは常にこうして今ある危機に乗じてあれこれ言い訳を作っては巧みに国民を騙し欺いていく。

 今日であの3.11から一年半。だが、今も故郷を追われて避難生活をしている方々は34万人。その人たちに政府、東電はきちんとした損害賠償もしていない。さらに憤るのは、全国の国民から送られた多くの善意の義捐金、数千億円もの金額はいったいどへ消えたのか。確かまだ20%程度しか配布されていないと以前報じられていたがそれからどうなったのか。全部配分されたとはどこにも報じていない。いったい誰の懐に入ってしまったのか。
 これこそ本当にイカサマ、詐欺ペテンの極致だと思う。

 そして・・・これを書くとまた狂信的正義漢から糾弾されるかもしれないが、そうした政治家たちの最後のイカサマは、大阪発の維新政党であろう。今の政治はダメだと徹底的にこき下ろし蓄積した国民の不満を吸収し政権に近づいていく。またそれを無見識にも持ち上げて彼らを日本の救世主のように報じるマスコミのあり方も異常である。
 前に、小泉首相が郵政改革を目玉に選挙に打って出たときも、旧弊勢力と新しい改革勢力との戦いだとマスコミは報じて国民はそれを信じて小泉たちを大勝させた。そして彼らが進めた構造改革路線。その結果が今日の自殺といじめに象徴される格差貧困社会の到来であり、先の見えない不景気であろう。あげくが最小貧困社会を目指すなどと民主のバカは言った。そう政権交代も一つの詐欺であったではないか。

 大阪の市長たちの政治勢力は何のことはない、また同様の詐欺であり、耳には心地良い威勢良いことを公約するが、それは実は国民のためにも何の改革にもなりはしない。それはファシズムに道を開くものであり国民は自由が奪われ子供はさらに学力を競うことを強いられる。国民は政府の監視下におかれ批判したり従わぬ者は非国民として弾圧されやがては逮捕拘禁されかねない。

 繰り返す、今度こそ騙されてはならない。今度また騙されて彼らに政権を与えたときはもう取り返しつかない。それほど彼らは危険なのだ。

無頼庵フォークソングワークショップの日程2012年09月12日 09時08分33秒

★今月23日か30日のいずれかに。

 正直なところなかなか参加者は増えないが、ともかく公約どおり今月からフォークソングに関して「講座」を開いていく。合わせてフォークソング教室=ギター教室もやるけれど、こちらはオプションであり既にギターが弾ける人、その行為に関心のない方は参加されなくてもかまわない。
 逆に既にフォークシンガーとして活動されている方のご参加も歓迎したい。まったくの初心者でなくとも、あるいはフォークの「歴史」について既にご存知の方、音楽に関しての門外漢でもちっともかまわない。
 少しでもこうした企画に関心があり、うたと音楽について思うところあらば誰でも老若男女お越しいただきたい。ゆっくりと丁寧に、まず古いレコードを聴きながら語り合い、実践つつ「うた」を探り追い求めていく。

 自分もまたこの試みを通してもう一度音楽、そしてうたというものをみつめなおしたい。そして確信を得てまた新しいうたがここから生まれることを望んでいる。

 日程は23、30の日曜日いずれか。参加者のご都合で確定して近く発表いたします。どうかどなたでもお気軽に。

ようやく秋の兆しが少しだけ2012年09月13日 22時29分51秒

★またケガしておりました。

 先日の夕方、自宅の階段からバランスを崩してころげ落ちて、左足の太腿と右の肩をかなり強く打った。
 今回は骨など影響はないし、単なる打ち身だったので医者には行かずに済んだが、左足の付け根外側はまだかなり赤く内出血してじんわり痛い。
 そんで動けずこの数日汗かきながらベッドに入っていた。あれこれ考え思うところもあった。

 ようやくもう痛みも軽くなってきたので、少しづつまたがんばりたいと思う。照りつける強い陽射しもほんの少し弱まってきた感じがしている。もうすぐお彼岸である。

浅い人と深い人2012年09月14日 22時04分43秒

★この数日家にこもって考えたこと

 ちょっとまた怪我して家に篭っていたこともあるが、この数日ずっとあれこれ考え続けていた。先行きの見えない商売のこと、老親たちとのことも含めて自分の残りの人生、そしてこのブログも含めて無頼庵の今後のこと・・・。
 そういうときは不思議に商売もパタッと注文は途切れるし、誰からも電話もメールさえない。届くメールは相変わらずの愚にもつかない援助交際の勧誘とロトとか競馬の怪しい情報、それに何だかわからないが何でも見放題というカードの宣伝である。本当にバカバカしい。こいつらは地獄に落ちる。

 また鬱々としていたわけではないが、自分が世界でたった一人、取り残されてしまったかのような気持ちにもなった。そしてこんな人間だから結婚も出来なかったし誰からも相手にされなくなったのだと改めて思い至った。
 このブログももう終わりにしたほうが潔いという気持ちに襲われたが、これは時折起こる発作のようなものであり、全てが虚しく、無意味に、「いやいやえん」状態になることはごくたまにだが時々ある。おそらく人は誰にでもそんなとき、魔がさすときはあるかと思う。

 それでも考え続けたおかげで、多少の指針、今後についてどう生きていくか何をすべきか方向性は見えてきた。もとより常に迷い惑い試行錯誤を繰り返すのが自分の生きてきた道なのだからこれからだってその流れは変わらないのだ。ただ、その時々うまく道を外さないよう、また人生をネグレクトしないよう自らを律する自分がいなくてはならない。
 人は自分も含めて皆自分勝手だし、自分のことしか基本的に考えていない。だからこそ人のために何かすること、そのために生きることは尊いしそれこそが真に価値ある人としての務めだと信ずる。

 気持ちがネグレクトして、どうしてもブログさえ書けないときもある。そんなとき書くことは意味ないどころか愚痴にもなりゃしない。こんな浅い人間がどんな偉そうなことを書こうと説得力を持ちないしそこに読まれる価値もない。だからこそ常に書くときは前向きな健全な心持でどこかに救いや希望がなくては書く意味がない。

 そうして布団の中で、寝ながらもあれこれ考え、思い至ったことの一つに、人の浅い、深いがある。人間はその器が大きい小さいという喩はよくされる。が、そのことと関連して、実は深い人と浅い人がいるのではないかと気づく。大きい小さいよりはより抽象的だが。
 最近、ライブでそうした深い人の深いうたを聴く機会が続いたこともあるが、自分は何てその反対、浅い人間なのかと気づかされた。うまく説明できないが、「軽薄」とはそうした浅さを指している。人として深みもないし、全てが軽佻浮薄、その場しのぎでちゃらんぽらん、お調子者、約束は守らない、だらしなさの極み、それが自分であった。だから人は愛想つかすし、結果誰も相手にしなくなる。

 また怖いのはそうした人間には似たようなテキトーな仲間しか集まらないということだ。そしてそれは近親憎悪的にこじれる原因ともなる。そうしたことで人を傷つけ自らもまた傷つき無駄な時を過ごして来た。
 実は今月に入ってから思うところあって、この近年の溜まりに溜まった書類の整理をしていた。
 それは、自分がフォークソングの企画に関わるようになってからのもので、超多忙だった2010年、いやその少し前からのものだ。コンサートのチラシ、書いたもの、レジメ、領収書、企画書、そのメモ、連絡先など、きちんと整理することなくそのまま終わればもはや「過去」のこととしてとりあえず紙袋に詰めて溜まれば屋根裏部屋に放り投げていたのである。むろんそのうちきちんと整理するつもりではいた。が、日々の雑事だけが手一杯でずっと手付かず、そのままにされていたのだ。それが溜まりに溜まっていた。そしてそれを整理しながら気がついた・・・。

 自分はあまりにだらしなくそして誠実でなかった。それは他者に対してもであるが、それ以上に自分に対しても不誠実で自らをずっと欺いていた。全てが中途半端で投げ出していつかそのうちと言い訳して結局そのまま、放り放しにしていたのである。
 過ぎた日のそうしたことは「書類」がすべて物語っていた。これでは自分はともかく周囲の人はだらしないちゃらんぽらんなあてにならない男としか判断できないだろう。自分だってそう思う。口先だけで、いや指先だけで、毎度自分反省した、ここから変わる、変わっていくと宣言したってじっさいどれだけ真にそれを成し得たか。

 一朝一夕に人は変われない。しかし、もうここいらで今までみたいに軽薄に、浅いその日暮しの生きかたをするのは本当に愚かだ。いつかこれからとかきっとそのうちに、はありえない。過去は戻せない故に今とこれからしかない。いや、正しくは「これから」はない。「今」だけしかないのである。
 もっと深くなりたい。深い人にならねばならぬ。そのためには一日一日どれだけ誠実にきちんと生きられるか。そのことを自らに問う。人として恥ずかしい生きかたはしていないか。

 こんな人間でも今まで死なずに生きてこれた。そのことに感謝して生かされていることの意味を考えて深く生きたいと願う。あまりにも楽ばかりして生きてきた。実に不真面目であった。これからのためにももっともっと苦労せねばならぬ。その覚悟は出来たか。

 まあ、それでも人生は続く。続けていかねばならない。何でこんなことを書いたのか。そろそろギターの弦を張り替えるときが来たようだ。

古本稼業再考・消えていくのは本だけではない・12012年09月15日 08時41分30秒

★この商売も潮時か

 ネットで古本を商うようになって約10年が経つ。うんと儲かることはなかったし、そもそもが「家のことのかたわらに」家にいて収入が得られる、まあお小遣い稼ぎとして始めたものだから、一応古物商の鑑札もとったがそもそもこれだけをメインに本気本腰でやろうとは考えていなかった。いや、やがてはそういう方向に進むつもりだったと当初は考えていたはずだし古本屋という商売に憧れと尊敬の気持ちもあったはずだ。

 が、先の別ブログでその経緯は綴ったように、いつしか本のことよりも音楽、それも日本のフォークソングというものに強く魅かれるようになってしまい「商売」はましてなおざりとおざなりになってしまった。だから、自店舗での販売も新規出品は休止したままだし、月々本が売れて入って来る額は数万円程度しかなく、まさに「お小遣い稼ぎ」としか言えない状況となってしまっていた。

 ただ、振り返ると自分のやる気如何ではなく、以前は本自体の売値、単価も高く付けられたし出品数とは別に注文も多かった。だから昔はかなり儲かった。こんな楽な商売はないと思えたときもじっさいあった。
 が、近年、特に5~6年ほど前から、アマゾンマーケットプレイスで言えば出品されている本の最低値が1円という「1円本」が次々登場してきたあたりから本の相場自体が値崩れを起こしてもうほとんどの本が出して売れたとしても儲けが出ないので出品不可能となってしまった。

 そこに拍車をかけたのはAmazonから直接販売は送料無料というサービスで、中古の本を例えばウチから買えば、下がったとはいえ本代とは別に250円の送料が別途加算されるのが、Amazonから新品を買えば本代それだけで手に入る。だからもともと単価の安い、高い値は付けられなかった文庫など低価格の本は一切中古では売れなく(出品できなく)なってしまった。

 Amazon側としても、出品者からの売れたときの高い手数料で儲けてもいるわけで、1円本ばかしになってしまうとさすがに儲からない。そこで数年前から一般の現行に流通している本だけではなく、「古本・古書」もそこで扱うリストに載せ始めた。となると、そもそも新刊はない世界なのだから古本屋の出番となる。自店舗サイトでリストや目録を作り載せたとしてもまず誰も見ないし売れないが、アマゾンならば探している人は必ずそこにヒットする。そんなで、自分としてはホッと一息つくような気持ちで手元の「古本」それも専門書中心に点数は少なくとも高値で出して糊口を凌いでいた。

 だから気持ちとしては、今はまだ点数が少ないから小遣い程度しかの収入にならないが、もっと本腰を入れて、まさに文字通り「本に腰を入れて」沢山出品すればかなり安定した儲けとなると考えていた。
 しかし近年そうした古書自体も出しても反応が少なくよってすぐにも値も下げざるえなく、売れたとしても儲けは少なくなってきている。今さらだが、街の本屋がそうであるように、本自体、本そのものが売れない時代なのだと実感している。本が売れないということはとりもなおさず本が読まれない、読む人が減ったということだ。敷衍すれば、それは本だけに限らない。音楽、CDも売れないし、映画だって同じこと。世界はどうか知らないが、この国は文化全般が衰退に向かっているのだと考える。

 これからいったいどうすべきか。またその原因はどこにあるのか。簡単に答えも対策も出ないけれど、まず自分の稼業についてはそろそろ潮時かと考えている。膨大な在庫を抱えている身としてはそれを処分することもすぐにはかなわない。が、何らかの対策をとらねば身動きとれなくなるだけだ。自分の人生もそう先があるわけでなし。そろそろ不良在庫の処分、まずは棚卸しとしてタダ同然でも自店舗サイトに並べて求める人に持っていってもらおうと考えている。

 おかしな話だが、今時になって自分はようやく本にしかと向き合うときが来たようだ。
                    ※この稿何回か続く予定。

無頼庵フォークソングワークショップ初回は9月30日に!2012年09月16日 09時03分43秒

★無頼庵久々に開店します。どなたでもお気軽に!!

 今日16日は曇りがち。昨日も短時間だけれど夕立があった。厳しき残暑は相変わらずだけれど、日の暮れるのも早くなってきたし季節は確かに秋へと向かっている。

 昨晩は近場の敬愛する館野さんのライブに顔出すつもりで仕度していたのだが、本の発送に戸惑ったのと熱中症体質からの頭痛とふらつきが治まらず、迷いに迷ったが御身大事と考えて出かけるのは断念した。今お詫びの手紙を書いている。

 まあ、季節はこれからしばらくは秋雨のすっきりしない天気が続き、次いで秋晴れの快晴の候がしばらくあるともう晩秋となって冬を迎える。時期の差はあっても毎年その繰り返しであり、また秋には秋の冬には冬の準備やすべきことが迫ってくる。今年は薪ストーブも再開するので煙突掃除もしないとならない。

 何だかんだ家事、家のことに忙しいが、その中で平行して本の商売も撤収に向けて整理を進めなくてはならない。そして無頼庵のほうも手を加えて「稼動」できる日を増やしていく。「店」というものは常にいつ人が来ても良いよう備えておかねばならないもののはずだ。実は「家」というものも同じことで不意の来客にも拒むことのないよう常にきちんと受け入れる体制は整えておく、それが理想だろう。

 秋は、秋からは、♪浮浪者のままではいられない、ではなくて、そうしたフラッと来られる人も温かく迎えられるよう、気持ち新たにきちんと店として整えていこうと考えた。

 また前置きが長くなった。というわけで、ウチ無頼庵で始める秋からの新企画、その第一弾、「フォークソングワークショップ~あなたもフォークシンガーになれる!?」を今月末30日から始めます。音楽、ギター、うた、フォークソングに少しでも関心、興味がある方はどなたでもお越し下さい。合わせてギター教室も開きます。

◆期間は一応月一回、1年間を予定していますが、ふらっと冷やかしでの参加も拒みません。突然の来訪も歓迎しますが、できれば事前に連絡を。

◆9月30日(日) 【予定】午後1時~2時半※ギター教室
               午後3時~5時 フォークソングワークショップ
          ★その後に懇親を兼ねた食事会があります。 参加費¥1000 飲み放題食べ放題歌い放題です。
 
◆今回の会費は、ギター教室、ワークショップ共にそれぞれ¥500 ※資料コピー代、飲み物代など一切含みます。

◆問い合わせ・参加申し込み*無頼庵マスダまで 090-8175-8479

 フォーク初心者からベテランまでどなたでもお気軽にご参加下さい。心よりお待ちしております。

「敵」も「問題」も我が中にあり2012年09月17日 22時59分17秒

★歳をとって見えてきたこと

 今日17日は月曜だが敬老の日で祝日。おまけに今週は土曜日が秋分の日でまた祝日の連休。暦の上のこととはいえ昨今は人為的なことも絡んでいるわけで何かこうした連休は意味があるのかと訝しく思う。こうした短い休みを利用して旅行に行く人などいるのだろうか。
 お役所など公共機関、郵便局、銀行などは休みで不便でならない。これは連休が続くと有り難い仕事に就いたことがない者の僻みだろうか。

 それはともかく、今日は遠くの台風の影響なのか時折強い風が吹き、日に何度もザーとかなり激しい雨が繰り返し降った。晴れたかと思うと短時間だが窓から吹き込むほどの豪雨。明日も似たような天気だと報じられている。まあ、都心はともかくウチのほうはようやくこの雨で涼しくなってきたが。
 やや蒸し暑くても植木や畑の水遣りから開放されたのでホッと一息である。ただ今日も偏頭痛は続いてなかなかスッキリしない。
 
 さて、最近になって気づいた、というか思い至ったことを少しだけ。

 このところ世界各地で、米国や日本に対して抗議活動の名を借りた暴動のような騒ぎが発生している。その原因となる事態は全く別であるしその原因の是非、成否は今は問題とせずにこうした騒擾について考えてみたい。

 米国に対してのイスラム世界での騒動はともかくも、今お隣の中国で起きている反日暴動は、日系企業を襲って略奪したり現地の日本人の命と財産を脅かすほどの勢いで、常識的な抗議活動の域を越えてしまっている。ニュース解説などでも報じられているように、そこには中国大衆の現体制に対する不満やストレスが内在していて、その怒りの矛先として「敵国」日本は格好の標的であり、いわば当局もガス抜きのためこうした反日デモ、抗議活動を厳しく取り締まらないのだという。下手に厳しく規制したりすると今度は大衆の怒りは反日ならぬ反体制へと向かい始める。こうした見方はあながち穿ったものではないと思える。
 そう、人と言うものは、悩みはともかく、怒りや不満、ストレスは外に向けて発散したいと願う動物なのである。日本でも60年代の終わり頃、若者たちによる学園紛争、反米闘争などかなり過激な、今の視点で捉えれば「暴動」と捉えられる抗議活動が全国的に勃発していた。

 自分はその運動、活動に参加するには幼すぎたので迂闊なことは言えないが、あの騒動は若者特有の正義感と騒動の要因となった時代状況が噛み合った、抗議活動に名を借りたストレス発散のための集団ヒステリーのようなものではなかったのではないかとも考えている。その行動自体を無意味だとかバカバカしいと否定はしない。そこには解決すべき矛盾や問題が多く存在していた。が、今思うとその行動はあまりに人間的に幼く、頭でっかちで冷静さを欠いていたと言わざるえない。もっと誰もが内省的に深く考えて行動すべきだったと思えるが、全てがそうした「時代」だったんだと肯定するしかないという思いもある。

 それから40数年。今もまた抗議活動として脱原発を掲げて、今も週末金曜日ごとに首相官邸前に何万人もの人が集まり抗議の声を上げている。3.11を機に再び熱い季節が戻った。大規模な集会を呼びかければ十数万人もの人間が一同に集まる。しかし、昔ならそこからデモ隊が警官や機動隊と衝突したり暴徒化したりしただろうに、今は実に大人しく一定の時間が過ぎれば粛々と自然解散となる。昔を知る者としてはやや物足りなくも思うし、これもまた「時代」なんだと思うがそのぶんこの国の民意も成熟してきたのだと気づく。

 つまり、昔はその個々内側のストレス、怒りの矛先として、官憲、機動隊、大学当局、教授会など「敵」が安易に想定できた。抗議の声を上げる、シュプレヒコールだけでは物足りない、革命のためならもっとゲバルト、実力行使でという思想も受け入れやすかった。確かにそのほうがカッコいいしスカッとストレスは発散できる。たぶん、今の中国の反日デモ、暴動に与する人たちもその思いでいるのだと思う。怒りはまず行動で示せと。だからついエスカレートしていく。
 彼らからすれば官邸前で、ただ、再稼動反対!と叫ぶだけの抗議活動などは生ぬるいし意味のないことと思われよう。首相がそれに耳を傾けるはずもない。しかし、その行動は無意味ではないしその地道さこそが力を持つ。
 この国の民意もやっとそこまで成熟し大人になったのだと自分は考える。暴徒化することなく冷静に声を上げ続ける。これは素晴らしいことだと思える。何よりそこに集う人たちは昔のように学生、若い労働者だけではない。むしろ中高年の姿すら目立つ。子供連れの若い夫婦層やカップルも多い。60年代末の異常な熱気はそこにはないが自らの内面をみつめ問う真摯な思いが誰からも感じられる。それはストレス発散のためではない。もっともっと深いところから出てくる正しい怒りだ。それこそが真の抗議活動であり、政治と向き合うことだ。今この国の民もようやく大人になったのだと感心する。

 今も世界中で多くの人々が抗議の声を上げ集会を開きデモ行進をしている。ただそれが暴徒化し暴動となるのではその運動はやがて無意味なものになり失敗に終わる。目先のもの、目の前にあるものは実は敵ではない。テロや実力行使の時代は既に終わった。非礼を承知で書く。抗議活動がすぐに暴動へとなってしまう国は民度が低いのである。そう、この日本がかつてそうだったように。

古本稼業再考・消えていくのは本だけではない・22012年09月18日 09時32分07秒

★本を殺したのは誰?

 もう10年ぐらいも前になるが、 ひところ「誰が本を殺すのか」というテーマが書き手も含めた出版に携わる世界の人たちの間で喧しかった。
 が、昨今ではそんな話は誰もしない。それは状況が良くなったからではむろんなく、要するにその話題で盛り上がった頃はまだ本はかろうじて元気で命脈を保っていたのが、今ではもう既に殺された、つまり本は死んでしまったか、瀕死の際にあるからだと思える。

 出版不況が叫ばれて久しいが、モノが売れないのは、本や雑誌だけではなく、衣類も家電も食品も全てが売れない時代だ。そんな販売不振の時代に、消費税を近く倍に上げるなどと決めたのだから、愚の骨頂である。上げる直前には駆け込みで購買は伸びるだろうが、値上げ以降ますます消費は低迷し税収は伸びず個人の収入も減り国力は落ちるという負のスパイラルに日本は陥っていく。誰かの謂いではないが経済の再生には減税こそが筋であるはずだ。収入が増えて国民が金を使えばいやでも景気は良くなっていく。それはさておき・・・

 ある作家が書くところだと、本を殺したのは、ブックオフなどの新大型古書店の登場と、出版社側の文庫も含めた本やマンガのコンビニ向け低価格路線、そこに図書館での新刊本の貸し出しだと断じていたが、その影響も確かにあろうが問題はそんな単純なところに発していない。
 確かに今の文庫の出版、乱立とも思える書下ろし点数の増加は、本来の「古典」としての文庫の存在意義を無意味にしてしまった。出版社は本が売れないからより低価格へ、求めやすい値段へと本の価値を下げ続け結果、米国式ベイパーバックのような簡易製本の本ばかりとなってしまった。大衆向けにはそうした売れやすい文庫、簡易製本の本が増えた一方、人気作家のしっかりした単行本は法外な値段をつけるなどここでも二極化が進んでいる。

 今でも雑誌では本の特集をよく組んだりするし、読書人口はある程度は常に少なからず存在していると信ずるが、出版文化という「文化」であった本、雑誌が安売り競争に陥ること自体、本が売れなくなってきていることは間違いない。出版界では近年ずっと大手老舗出版社も近く倒産するだろうと囁かれている。誰が本を殺したのか、いや、危篤状況にある本や雑誌をとりまく状況を考えるとその末端、おこぼれに預かるこの身も暗澹たる気分となる。

 ただ、こうも考える。これもまた時代の流れなのではないかと。うたにもあるように、昔は「村の鍛冶屋」という職業が成立していた。だが、おそらく今日、個人でやっている鍛冶屋など日本には一軒もないかと思う。芸術の分野、例えば詩人などはそもそも商売ではないから自ら「詩人」と称すれば存在し得る。だが商売としての仕事、職業というのは客相手でありそのニーズがなければ成り立たない。それで金が入らなければやっていけない。昔は需要があった鍛冶という仕事も牛や馬がいなくなり、金具、農耕器具全てが大量生産され農協や量販店で求める時代には存在しえない。それは良し悪しではなく時代の流れだ。ならばインターネットの時代、本、雑誌などの紙モノはやがては消えていく定めにあるのかもしれないと思うときがよくある。
 
 むろんこの世から本や雑誌が消えてなくなってしまうことはありえない。しかし、過去に出たものはともかくも新規にはこれから新聞社も含めた出版業界はその発行部数、点数は大幅に減らしていくことは確実だと断言する。もうどれほど大手であろうと出版業界には未来がないと叫ばれている。もはや一部の人気作家のベストセラーはともかくマジメな固い本、あまり話題性のない作家の本などはそもそも出版されなくなっていく。ということはベストセラー作家に縁のない手堅い本を出す、マジメな中小の出版社は当然ながら経営が成り立たない。出版の世界は今どこも火の車であろう。
 ※この話もう少し続きます。お付き合い下さい。

古本稼業再考・消えていくのは本だけではない・32012年09月19日 14時51分53秒

★インターネットの時代の本と古本

 これはどこで聞いたかはっきり思いだせないが、たぶん神田古書会館での古本屋のセミナーのとき誰か古書店主が語った話だと思う。

 古本屋が一番儲かったのは、いつかという話で、それは戦後すぐの頃、街に復員や疎開の人たちが戻ってきて平和な暮らしが再開された頃だという。その店がどこだったかは忘れたが、朝、棚いっぱいに並べた本が夕方にはスカスカになるほど古本が飛ぶように売れたと言う。まさに右から左へ人々は活字さえ並んでいればどんな本でも先を争って買い求めたのだ。
 戦争がやっと終わりもう米軍の空襲に脅えずにすむ。戦時中は様々な統制もあり物資も不足して読書などゆっくりするヒマもかったのだ。人々は活字に飢えていた。
 これは当然であろう。何しろ当時の娯楽は、ラジオと映画、それに繁華街では芝居や落語など口演、興行はあったけれど、それは浅草など興行街に足を伸ばして金を使わないと観れない。いちばん手っ取り早い娯楽であり知の渇望を癒すのは本だけであり、まだ出版事情も悪く新刊の点数も少ないゆえ、嫌でも古本しか手に入らなかったのだ。
 古本屋にとって、いや貸本も含めて出版に携わる者全てにとって良い時代だった。何しろ本はどんな本でも出せばすぐ売れたのである。※レコードなどの「音楽」の趣味はその頃はまだ一般に普及していない。

 本というのは勉強のためのもの、知識を得るという目的もあるがまずは娯楽、つまり楽しみとしてあるものだ。中でも雑誌はよりその傾向が強い。庶民の娯楽の代表、映画がテレビの登場と普及に反比例するように衰退していったように、読書を楽しむ人口もじょじょに減っていく。それでも戦後何度も出版ブームが起こったことは記録すべきことだ。
 最初は若者たちは本を読まずにマンガばかり読むという読書離れが問題視された。だが、近年に至ってはマンガ自体読まれることが減ってしまった。マンガ雑誌は今整理統合、再編が進んでいる。つまり本だけでなく雑誌全般も売れない、読まれない時代なのである。

 つまるところ趣味、娯楽の多様化ということに尽きよう。昔は楽しみの種類自体がごく少なかった。それが今ではゲームやら音楽やらネット動画やら居ながらにしてできる楽しみは幾つもある。だのに人間の時間は増えていない。当然、本や雑誌を読む時間は削られる。テレビだって人はゆっくり腰据えて観ないのである。

 自分は電車に乗ると必ずその乗客の人たちが車内で何をしているか注意して見ている。今のような携帯モバイルが広く普及する前は、居眠りしている人以外は、新聞、雑誌、それに文庫や新書を広げていた。が、今では、皆いったい何を見ているのか。携帯ゲーム機に興じている人もいるし、小型ノートパソコンで何やら作業している人も時にいるが、大概はスマホだかの携帯端末をチェックするのに大忙しである。車内で紙のものを広げている人を探すほうが難しくなってしまった。これでは本や雑誌の出る幕はない。

 出版社は今電子書籍に活路を求めて、印刷・出版からの依存度を減らそうと躍起である。しかし電車内を見る限り、そうした電子本、タブレットに読みふけっている人はまず見かけないし、ああしたモニターは移動中は読みにくいのではないかと推察する。一頃話題になった「自炊」もその手間を思うと大方バカバカしくなってきたのではないか。良くも悪くもたかが本なのである。わざわざデータ化するほどのものではあるまい。

 出版と言う仕事はなくなりはしない。ただ、本、雑誌がそうしたウェブサイト、電子書籍で読むものとなってしまうと、いくらか金は動くだろうが、今までその出版の周囲で働き収入を得ていた人たち全員をとても養うだけの利益は出ない。まして文化のリサイクル業とでも呼ぶべき古本稼業はおこぼれどころかそこに立ち入ることすらできない。データやファイルは「古本」として流通しえない。

 思うに、大量生産、大量消費というこれまでのシステム自体が見直されてきている。もはやモノとしての実体ある本はモノであることの存在価値を問われていく。それは本、雑誌だけではない。今の時代は生産者と消費者の関係さえ見直されている。読み手と書き手の関係さえもあいまいとなってしまった。流通というシステム自体もモノがあることが前提なのである。

古本稼業再考・消えていくのは本だけではない・42012年09月20日 10時41分24秒

★本屋と古本屋の今後

 というわけで今の人は本を読まないから本は読まれない。

 潜在的な読書人口というものは決して今も少なくはないと信ずる。それは今だって芥川賞、直木賞の受賞者についてはマスコミも大きく取上げる人事であるし、いつの時代もそれなりの話題作、ベストセラーは次々と登場する。 人々はまだ「本」に関心がある。それなりに書き手、作家志望者の数は、ネット上を見ても星の数ほどいる。※インターネットと本は反目、競合するものではなく、今では本自体がネットに大きく依存している。ネット上からベストセラーも多々登場するし、ネットで話題にならない限り本は売れることはない。

 しかしそうした読書好きは中高年、自分も含めた主に50代以上の活字世代中心の話であり、今の20代、30代の携帯、ネット世代はまず本などはゲーム攻略本とコミックス以外読んだことはないのではないか。そして本好きは皆高齢化が急速に進んでいる。
 ならば本や雑誌は当然売れなくなり、必然的に市場は縮小し、やがてはほぼ新刊の類は電子書籍と化していく。それは時代の流れで致し方ない。音楽CDがファイル、データ化されてダウンロードされて売買されていくのと同じ流れである。つまり実体としてのモノはもはや不要で、読めれば聴ければそれで用を足すということだ。これはある意味地球にやさしい、環境に良いとも言える。
 文明というものは元に戻せない。また戦争や地球的天変地異で、電気も水道もない江戸の昔のような暮らしを強いられるときが来るかもしれないが、人類は一度覚えた技術と知識を繰ってすぐにまた復興、復旧することだろう。とにもかくにも本は消えていく。

 これからであるが、一度しか読むことのない、繰り返し読むに耐えない話題の文庫シリーズのようなベストセラーは、そもそも本などにする価値は少なく、電子書籍として流通していけば良いと考えるし本にすべき価値のある専門書や真に役立つ良書のみ本として出せば良いと思う。が、現実はその逆で、そうしたベストセラーとなる本こそ需要が見込まれ大量生産しても捌けて行くから本として存在し得る。
 逆に出すべき価値のある役立つ専門書のほうが、専門家、研究者などしかニーズがないから本としては出せなくなってくる。出すとしても採算を考えると一冊が5000円~ぐらいのラインとなってしまうだろう。今だってそうして二極化が進んでいる。私感だが、おそらくこれからも本としての価値のない本こそなくならずに新刊として出ることは間違いないが、出すべき価値のある良書は出したくても少数の読み手が求めてももう出なくなるかと思う。つまり採算が合わないのである。
 そうして本はなくなりはしないが、出版数も版元も少なくなり本屋はさらにどんどん消えていくだろう。

 以前、街の本屋の主人が語っていたことだが、本屋にとって雑誌はご飯、主食であり、今はその主食がコンビニで売られるようになってしまったから売り上げが激減してしまったと。さもありなんと思った。
 本というのは小規模の本屋ではさほど売れるものではない。話題作ならば多少動くだろうが、そもそも品数がそんなに置けない。探している本がある人は注文したりするし、実は主力は日々次々発行される雑誌、マンガ誌だったのである。儲けは当然少ないが薄利多売で本屋の主食であった。それが今では駅前のコンビニで人は弁当やペットボトル、スナック菓子と共に雑誌を買い求める。

 増坊の町にも昔は駅前を中心に各駅数件は本屋さんが存在していた。今では、市内全体で昔ながら続いている本屋はほんの2、3軒だけでほとんどの本屋はこの10年内で廃業してしまった。余談だがそれは酒屋も同じで、こうしたコンビにでも扱う商品の小売店はそちらに客層を奪われて経営が立ち行かなくなったのである。規制緩和の結果である。

 本屋が生き残るとしたら、郊外型のショッピングモールの中かそこに隣接した大型の書店、それも資金力のある書店チェーンの出店以外経営はまず難しい。そうした人が沢山来る場所にあって広く商品を揃えて何とか経営は成り立つ。昔ながらの街の小商いでは自宅でやっているならともかく店舗代だって払うだけの儲けは出ない。まあ今でもせいぜい動くのはゲームとアダルトとアニメ本、コミックスだけだからそうした店に特化していくしかない。じっさい立川に今もあるが、かつては民主的な左よりの本ばかし置いていた本屋が場外馬券売り場の前ということもあって、今ではアダルト専門書店になってしまった例などいくつもある。

 ならば古本屋はどうしていくか。あともう一回だけ書いてこの話終わりにしたい。書いていても気が滅入る。