泣きたいような、眠たいような~二か月半ぶりの山梨で・追記2019年04月05日 22時17分42秒

★人生はここからまだやり直せると信じ願って

 これまでも我マス坊自らの失態、失敗は繰り返し拙ブログで書き記して来た。これでも包み隠さずできるだけ正直にありのままに、だ。
 しかし改めることできずまた性懲りなく繰り返すのならば、いったいそこに何の意味があるのだろう。ただ愚か者の愚痴でしかないし、誰にとっても無意味で呆れ果てられよって誰も読みもしない。
 自分でもうんざりだ。

 が、これが最後の気持ちとして書き記しておく。たぶんもうこの先はないし、またも繰り返すならば、このブログも終わりにしていくつもりでいる。
 自分がとことんダメで、どうしようもないということは、能力の問題ではなく、人格の問題として、これはどうしたものかと、自分でもずっと頭痛めている。
 「能力」に限って言えば、我は決して劣等ではないと信じる。基本、バカではあるけれど、何かを表現する能力は、並以上のものがあると信じたい。それは企画力も含めての話として。
 だが、一番の問題は、この歪んだ性格で、とにもかくにもきちんとしたことがまずできないことに尽きる。つまり、整理整頓から、何かの維持管理、先行きの計画施行といった、人として当たり前のことが全くできない。
 つまり、まず「片付けられない症候群」であり、自らの人生を自ら維持管理できないのである。
 それでも還暦の歳まで何とか生きて来れたのは何とかなったからだろうという声もあろう。しかし、それは恥ずかしい話、我が母がいたからであって、家庭生活全般は、亡き母に一任し、母が我家を万事維持管理してくれていたから、父も息子も我らのこの家は何とか生活が人並みに成り立っていたのだった。
 その母が2016年に癌で逝き、男たち、つまり呆けて要介護の高齢の父と我は残され、この家の維持管理はすべて我一人で担当せざるえなくなった。
 そして当然のように全てが破綻した。家事は我だって母が生きていた頃から洗濯も炊事も一通りはできる。しかし、日々の掃除や税金、光熱費等の支払いなど対外的・基本的な生活の管理、生きていくためのきちんとしたことは、我はまったくできず、管理処理能力がない故、経済的にまず行き詰ってしまった。我が家はゴミ屋敷と化した。

 そして、それでも時は過ぎる。母の死後の一時期のPTSDも癒えて、今はようやく我が人生再建の緒についてきたということはこれまでも折々ここに書いて来た。これから何とか人生をきちんと管理して維持していく、残りの人生を頑張ろうという気持ちに嘘偽りはない。
 しかし、まだやはり根本のところは、相変わらずダメで、モノは溜まる一方で、まさにまだ収拾つかず、このところ父は、施設に預けられることが多くなったので、だいぶ手はかからなくなったものの、我が人生、生活の混乱度の改善の兆しは見えたとは正直言い難い。

 これまで本であれ、何であれモノが溜まると、山梨の倉庫に「とりあえず」車に積み込み運ぶということを繰り返してきた。当然向うも天井高くまで本や雑誌類でいっぱいになってきて、まさに汗牛充棟、足の踏み場もなくなってきてしまった。
 それらはゴミではなく、まずは「商品」として値が付き、「動く」ものか、まだきちんと処理、分別、確認もしていないのだ。商売柄、ウチには次々紙モノが常に入って来る。だが、我は父のことや音楽企画などでともかく時間がなく、それらをきちんと分別処理していく時間がなく、昔も今もモノは溜まる一方なのである。
 つまるところ根本解決せずに、ただ生きて時間だけが過ぎてモノは常に溜まり続けることを繰り返してきた。そう、使用済み燃料の処理先を考えずに原子力発電所を稼働し続けるように。

 ともあれ、今回も積み込んだ本や雑誌で車の中がいっぱいになってきて、ともかく山梨へ行き、向うに運び込まないと、という「状況」になってきていた。
 ようやく時間的、心理的にも一段落し、父も体調良くデイサービスに行ってくれたから、我はこの3日の水曜から二泊の予定でほぼ満杯の車を走らせた。が、内心何か気にかかるところもあった。
 それは向うの家の「鍵」である。いつもは常に車の中に置いてある。車でしか行くことはないし、山梨の古民家に着いたときそれで開けて、帰るとき、施錠したらまた車の中、運転席のキャビネットの辺りに入れておく。いつもそうしているから、いちいち存在を確認したりはしなかった。

 そして、今回は、4月2日の夜暗くなってから東京を発ち、高速は韮崎で下りて途中買物したりして、北杜市須玉の山里、その古民家に着いたのは九時半頃だった。
 標高の高い山里のその地は、当然ながら東京多摩地区よりも比べても気温が低い。半端じゃない寒さだ。犬を車から下ろして放して、久しぶりの家に早く入るべく車内で鍵を探した。が、みつからない。
 車内の灯りつけて、さらに懐中電灯であちこちくまなくシートの下、座席の下まで屈んで探しまくってもみつからないのである。じっさい車の中は、ゴミも含めてこの数か月の溜まりに溜まったものがいっぱいで、何がどこにあるかも定かでない。後ろの荷台は、後方が見えない程の高さまで雑誌類を積んできてしまった。

 ともかく前と後ろの座席の部分だけでも必死にライト照らして探したが、やはり見つからないので鍵は「ない」と判断して、どうしたものかと考えた。家に入れないのだからここまで来たもののまた東京に戻るべきか。荷物だけでも庭先に投げ出しすとして。
 しかしそれではあまりに無意味でガソリン代も高速料金もモッタイナイ。今は夜で真っ暗である。フツーの人ならインター近くのホテルにでも泊まって、明日明るくなってから再度来て対策を考えるかしただろう。

 仕方ない。古い民家なのだし、増築しアルミサッシの窓の部分もあるけれど、二階は、ガラスの木の引き戸のままである。そのガラスを一枚割ればすぐに中に入れると考えた。
 最後はその手もあるとして、まず一階の周囲をあちこち調べてみたら、物置として使ってる納戸の小窓が外れそうだとわかった。高さは我の胸ほどあるし、間口は人ひとり何とか入れるぐらいしかない。
 足場を置いて、その木の引き戸を外して、埃だらけの、堆く積まれた前に住んでいた人たちの廃材の中に飛び降りて、何とか家の中に入ることができた。そして明りをつけてアルミサッシのガラス戸を開けてそこから出入りすることにした。苦労したがともかく入れたわけでほっとした。着いてから既に一時間過ぎていた。
 灯油ストーブに火をつけて暖を取り、途中で買ってきた弁当類を食べて、その晩はともかく早く寝たものの寒さで眠りが浅く、昨年の12月に死んだ甲斐犬の鳴き声が聞こえた気がしてまだ暗いうちに一度目覚めてしまいあれこれ考えて悶々とした。
 でも夜が白み始めてからは熟睡して、鶯の泣く声で8時頃起床した。

 外は晴れていた。吐く息が白い。ともかく徹底的に車の中を片付け、掃除すれば鍵は出て来ると思えた。じっさい常に帰るとき施錠した後は、その鍵は車の中に常に入れっぱなしなのだから。
 まず椅子席の部分から全部車外に頬り出し、次いで、荷台の、今回積んできた本や雑誌の山も全て車から降ろした。もしかしたら、荷台の部分にその鍵を迂闊にも投げ入れたのかもしれない。
 しかし、やはりどこにもない。鍵はみつからない。午前中かかってとことん探したが車の中にはないと判断するしかなかった。
 ということは、前回、帰るときに、鍵を閉めたあと、その鍵をポケットに入れたかして車内に置かずにそのままウチのどこか、脱ぎ捨てたコートの中かどこかにあるとしか考えられない。

 東京に戻って探すとしても、では、今ここはどうやって閉めて帰るかである。玄関は鍵はかかったままだが、アルミのガラス戸は、我が中から開けて鍵はかからない。そのまま開けっ放しのままなら泥棒は入り放題となる。※以前も何度か、二階の木の窓をきちんと鍵かけずにうっかり帰ったら、そこから泥棒が入って物色し玄関から逃げたらしく、我が来たとき玄関の戸が施錠したはずなのに開いていたことがあった。現金など金目のもの、貴重品などは一切何もなかったので、泥棒氏も中の古本の山に呆れ辟易したらしく盗られた物はなにもなかった。

 ともかく鍵がみつからないとして、今度はどうやって外からアルミのガラス引き戸の鍵をかけるか、だ。あれこれ知恵をしぼっても案が出ない。
 腹も減って来たので、一度麓まで下りるとして、今回来た用事なども済ませねば、と我は北杜市から韮崎市内まで車を走らせた。食事とりいくつか買物済ませてから韮崎教会で、しばし、どうか愚かな我に道をお示しくださいと祈った。
 古民家に戻って、下ろした本や雑誌を室内に運び終えてやっとその家を外から眺めて考えが決まった。アルミの引き戸は中から施錠することにして、我は、その上についている換気用の小窓から外に出るしかないと。

 そう、幸い増築した部分は、大きなアルミサッシのガラス引き戸の上部、天井近くに、同様の高さ30㎝ほどのサイズで横に細長い引き戸が付いていた。何とか身体は通れることは確認した。
 そこから出れば、鍵かけずとも外からは、高さもありカンタンには入れない。むろん梯子かければ無施錠だから入れるわけだが、泥棒でもまずそこに気づき、その苦労してまで中に侵入しようと考えるかどうかだ。
 まず、鍵はかかってないと気づき室内を覗いた時点で、ここは本や雑誌の倉庫で、金目のものなどないと常識的に判断するのではないか。

 そう決めて帰り際の手筈については気持ちが楽になった。できるだけ早くまた来ることすればいい。しかし、今度は東京でウチの中を探しても果たして鍵はみつかるのであろうか。予備の鍵も付いていたと思うが、先の泥棒事件以後、玄関戸そのものの鍵以外に、我は新たにロック式の鍵を引き戸に取り付けた。そちらの鍵の予備はどこにあるか皆目見当もつかない。
 最悪の場合、東京でも鍵がみつからず予備のもないとしたら、業者を頼んで、玄関戸自体を交換しないとならない。数万で済むとは思えない。あれこれ考えてまた憂鬱になって来た。時刻は既に夕方である。 
 曇りがちの天気で、八ヶ岳からの寒風が吹き下ろし、寒さで鼻水もひっきりなしに垂れて足のつま先の感覚もない。ともかくどこか近くの温泉にでも浸かって暖まらないことには風邪ひいてしまう。この古民家には風呂は無いのである。

 と、改めてまじまじと鍵がかかったままの玄関を眺めた。いったい鍵はどうしてしまったのか。どこにあるのか。この引き戸はどうしたものかと。そのとき足元を見たら、我は何かを踏んでいる。目をやったら、鍵である。
 やや土に汚れているが、まぎれもないこの家の玄関の鍵の束であった。みつかった!ここにあった!

 まったく呆れた話だ。今回来たとき落としたのではない。そもそも車の中にはどこにもなかったのだから。つまり前回来て帰るときに玄関に施錠して、車に戻るまでの間に、我はポトンとその鍵を玄関先に落としてそのまま帰路東京に向かってしまったのだ。そもそも鍵を持ち帰ったか確認すれば良いだけの話だった。
 それも何もしないで、いつも通りに車内に在るはずだと漠然と思ってまた山梨へ来て、やっと鍵がないと気づき一騒動に陥ったのだった。そもそも鍵は、家の玄関のすぐ前に落っことしたままだったのだ。二か月もの間、ただそこにあったのである。
 いくら限界集落で、ほとんど訪れる人もいないとしても、水道の検針の人や、投函チラシ配布の人も来ているはずである。また悪意ある者ならば、そこに鍵が落ちているのに気づけば、すぐそれはこの家のものだと判断してそれを使い家の中に入る事だってできたはずだ。
 幸いにして、他の誰もそこにこの家の鍵が落ちていることに気づかなかったのか、そのまま我が落としたまま二か月が過ぎたようで、誰も侵入者はなかった。

 今これを記しながら自分でも情けなく呆れ果てる。幸いにして今回、鍵はそこで奇しくもみつかったから良かったわけで、さっそくその鍵で玄関を開けて中に入り、帰り際もきちんとそれで施錠して帰ってくることができた。鍵は今も車の中に、有るべき場所にしっかり置いてある。何か夢見ている気がした。
 しかし、本当に呆れ果てた話だとつくづく思う。みつかったから良かったでは済まされない。迂闊さ、愚かさにもほどがある。これこそ我の人生である。そう、こうしたことを繰り返して生きて来た。嗤ってください。
 非常識とかのレベルでない。頭がおかしいのである。「障害」だとかは、どうでもいいことで、こんな風にして、年中探し物や落とし物、失くしものに心奪われている。

 それが3日の日のことで、翌四日の朝、晴れてまた風は強かったものの、近くのケヤキの巨木で知られる神社にお参りに行き、深く感謝して頭を垂れ、11時過ぎその家を後にして岐路についた。

 今回の山梨行では、実にいろいろ多くのことを考えさせられた。季節は未だ早春の感であったが、あたかも晩秋の木枯らしを思わせる強い乾いた風に吹かれて、ときおり風花が飛ぶ中、澄んだ空気を深く吸い込みどこまでも高い青い空を見上げて、「頭のおかしい」我のこれからの人生について今さらながら考えさせられた。

 そもそもこうした失態、失敗をいくつになっても繰り返すのは、すべてにだらしないからなのだ。それは何事もきちんとできない、しないからで、自己卑下でなく、我のこのだらしのなさ、万事において片付けられないとは、もはや病的、犯罪的レベルのものだ。
 このマスダをじっさいに知る人、拙宅を訪れたことがある人は、誰もが呆れ果て恐れおののく。それほどどうしようもなくヒドイものだから、世の世知ある人は誰も我と関わらなくなる。よって我は神に縋るしかない。神だけはこんな我を見捨てず何度も危機を救ってくれたのだから。

 ならばこそ、今さらだが、ここから、この歳でも今からきちんとしていこう。すべてをきちんと確実に丁寧に。すぐに成果が出るとかやり直せるなんて思えないが、ともかくそうした当たり前のことを心がけて、人並みになりたいと願う。
 妖怪人間ベムたちは、早く人間になりたいと常々願い口にしていたが、彼らはまず自らの「異質」に気がついていた。その異質は彼らを何ら困らせるものでなかったのにも関わらず。
 我はその異質、欠落に常に悩み苦しみ、結果として他者をも困らせ迷惑かけてきた。しかし何がいけないのか根本は改まることできず、失敗、失態を繰り返しながら生きて来た。そしてそろそろ「その先」、人生の「終わり」も見えて来た。
 たぶん、きっと何も改められずにこうしたまま死ぬんだろうな、と思う。しかし、これで良し、仕方ないとはしない。少しでも良くなるよう、まともになるよう、日々最低限の努力は続けていこう。

 敬愛する、みほこんの歌ではないが、幸せのカタチはそれぞれ違う。今さら人間になりたいなんて願わないが、こんな我でも「幸せ」になりたいと心から願う。今さら結婚とか家庭とか「人並」の幸せは望むべくもないが、せめてこんな自ら仕出かすトラブルだけはなくしたいと切に願う。いや、じっさいは幸せなのである。ともかくこうして生きて無事に在るのだから。が、その実感がアベノミクスのように我は体感できないのである。
 何とかしなければ。我にまだできることとすべきことがあるのは救いであろう。

 そんなことを、山梨からの帰り道、ハンドルを握りながら、街道筋の満開の桜を見ながらつらつら考えた。泣きたいような、眠たい目をこすりながら。昨晩も、また夢の中で、死んだ犬の我を呼ぶ鳴き声が聞こえた気がしてまだ未明に一度目覚めたからだ。