ちょっと近況・日帰りでまた山梨へ2015年11月26日 22時23分45秒

★今日26日は、母連れてまたラジウム温泉へ日帰りで行ってきた。  アクセスランキング: 106位

 急に寒くなって来た。全国あちこちから初雪のたよりが報じられている。が、もう11月も終わりなのである。これが本来の気候であり、今年は暖冬だから当たり前の寒さが身に染みるのだ。

 昨日はかなり強い雨が夜通し降り続き、朝もまだ雨は残っていたが、天気予報では昼には晴れるとのことだったので、朝から母と犬たち乗せて山梨北杜市、増冨のラジウム泉に日帰り湯治に行ってきた。

 向うは標高千メートル、予報では高地では雪になると言っていたので、まだ冬用タイヤにも替えていなかっこともあり、もしかしたら雪や道路氷結でそこまでたどり着けないのではと案じつつ家を出た。今月二回目の山梨行である。
  幸い今日は午後から晴れて風もなく穏やかな晩秋の一日となった。心配していた高地増冨でも心配していた雪もなく、紅葉の残りを楽しめた。

 本当は向うの古民家に泊まって二日がかりでのんびりゆっくりしたいところだが、父の認知症も進み、親たちを介護する側の息子、我もまたいろいろ抱えて忙しいので、今は一泊でも家を空けられない事情がある。父は日中デイサービスに預けて、父を送り出してから慌てて出発し、夜も戻ってきている父の夕食に間に合うよう慌てて山梨から戻る。

 父も一緒に連れて行けば泊まってこれるのだが、彼は長く温泉に入っていられないので、すぐ出ると騒ぎ出し目も離せず連れて行くとこちらが気が休まらない。往復3時間の車の運転だってかなり疲れるところに父の面倒まで見ていたら温泉でのんびりするどころか、疲労を蓄積のために行くようなもので、後からのダメージが恐ろしい。

 そんなこんなで、行っても農協で野菜とか買い物して昼飯をどこかで食べて山里の古民家に着いて荷物だけ下ろすとすぐに増冨に向かい、温泉に約3時間浸かって、また慌てて直帰となる。
 今日など、向うの家の水道の栓も開けず、電気のブレーカーさえ上げなかった。つまり玄関だけ開けて中に積んでいった本だけ投げ込んで即大慌てで増冨温泉に向かっただけだ。何しに行っているのかなあと情けなく思う。まあ、それも母の癌治療に少しでも効果あることを求めてだが。

 このところ行ってもそんなことの繰り返しで、古民家のほうはもう未整理の本の山が散乱しスゴイ有様となっている。時間かけて落ち着いて分別と整理処分の作業をしたいのだが、その時間がまったくとれない。去年の秋は、仲間を募って、日帰りでも古民家&秘湯探訪ツアーも企画できた。楽しかったので今年もと考えていたが、国会情勢だけでなく、親たちのことなど我を取り巻く事態はさらに悪化して、ただただ慌ただしくて予定も立たず何一つ腰を据えてとりかかれないでいる。
 果たしてこれから先、少しは落ち着いて時間かけて成すべきモノゴトに取り組めるか今はまだ何とも言えない。

 毎度の自分の悪弊であるが、またも投げやり、投げ出し、ネグレクトの方向に古民家も向かいつつある。向うにもやっと知人が増えてきたのだから、自宅のほうと山梨の古民家生活をうまく振り分け使い分けてそれぞれそこで成すべき作業を進めて行けばと考えるが、親たちの病院通いも含めてともかく日々雑事に追われるばかりで、なかなか思い通りにしたいこと、すべきことに時間がとれない。
 そうこう焦り苛立つうちに今年も間もなく終わってしまう。しかしそれもまた遊び怠けていたわけでないのなら仕方ないことなのかもしれないとも思う。老親や犬猫を抱え、そこに自らの商売と音楽の諸企画や出向く集会などの「活動」も加えれば、それだけでいっぱいいっぱいとなってしまう。おまけに今年は頭の調子が悪く夏場はずっと体調も崩していた。

 とにもかくにも親たちと共に生きて生かして皆が無事で今年一年が終われば、それだけで良しとすべきではないか。それ以上のことをさらに望み、かなわぬことを嘆き怒るのは欲深ではないのか。

 嗤われるかもしれないが、それでも個人的にはずいぶん昔よりは良くはなった。できなかったことができるようになったことも多いし、わからなかったことがだいぶわかるようにもなってきた。少なくとも一年前の自分よりはずいぶん進歩し良い方向に変わったかと思える。
 罪深さは同じでもその罪を知り見つめることができるようになってきたのかもしれない。昔は何をすべきかそれすらもわかっていなかった。目先の欲望と快楽だけに囚われ振り回され続けていた。
 今は違う。何をすべきなのか、何ができるのかすらもうわかってきた。が、問題はまだその処理能力が低くてなかなかそれがカタチとして実現しないこと、他者や世に示せないことが辛く苦しい。

 そしてこうも思う。今年もかなわなかったが、来年こそはそんな我を理解し共に同じ目的に向かって手を携えて歩んでくれる人と出会えるはずだと。いい歳して甘い夢を見ていると笑ってくれ。だが、いくつになろうと人は常に、夢と希望をもって一日一日を生き抜いていくことだ。