水木しげる先生を悼む2015年11月30日 16時14分38秒

★焦らず急がず長生きこそが人生の勝者だと     アクセスランキング: 131位

 今日の午後、今は実家のある徳島で、郷土史と妖怪研究などで地元紙などで健筆をふるっている、大学時代の友人から携帯に電話かかってきた。ちなみにこの男は、子泣きじじいで町おこしを目論んで、じっさいに山中に石でできた子泣きしじい像を建てたほどの水木しげるファンでもある。

 彼曰く、新聞社から連絡があり、水木先生が亡くなられた。近く葬式に行くのでそちらに泊めてくれるかと。ややコーフン気味であった。詳しく確認すると、まだ亡くなられたのが今日のことで、告別式など式の詳細日程などは出ていない。よって、またはっきりわかったらメールするよう頼んで電話を切った。
 ちょうど昼食後、昨日の疲れが出てベッドで横になってうつらうつらし始めた矢先であった。水木先生の訃報に起こされ昼寝もできないというのは皮肉な気もしたが、あれこれ彼の遺した漫画の数々や一度だけだが、調布の水木プロを訪れお会いした時のことなど思い出した。

 その訃報にはやや驚かされたが、正直言えば、まだちっとも哀しくない。もう確かお歳は九十半ばであられたかと思う。早死にも多い漫画家の世界では実に稀に見る長寿であった。死因もわからないが、おそらく老衰か肺炎であろう。晩年になって彼の半生を描いたテレビドラマが大ヒットしたり、彼の漫画のキャラクターが人形となってあちこちの町おこしに活躍したりと、貸本屋やガロ時代の貧乏を売り物にしていた頃の事を知る世代にとっては実に幸福な人生となったと思えるがどうであろうか。

 水木先生のところの三兄弟は皆さん長生きで、まだ上のお兄さんも元気でおられるはずだし、マネージャーをされている弟さんも共に九十歳を越えられていたかと思う。だから、この兄弟、特に水木さんはもう酔生夢死のような状態でこのままずっと死なないのではないかと勝手に思っていた。鬼太郎のサブギャラ、ネズミ男のようにたぶん半分妖怪なのだろうと。
 だから死んだと聞かされやや驚いた。そしてやはり少し寂しい。我が師、鈴木翁二さんの師匠も水木しげるなのである。ということは我は孫弟子ということになるのか。
 その淋しさとは、やはり大好きな作家を失ってということに尽きよう。若き日にその漫画に出会い、何ども何ども読み返した。漫画の世界では、幼少期の大好きな巨星として、手塚治虫と横山光輝、そして水木しげるの三大巨匠には実に大きな影響を受けた。

 むろん手塚治虫には最も圧倒され、今でも心の奥底で地下水脈のように彼の作品の数々の記憶は変わらず流れているが、水木先生も別の意味で、深く大きく影響を受けた。
 陽と陰とに分ければ、表面的には、手塚=陽、水木=陰であろうが、じっさいは、手塚先生こそその本質は暗く哀しく悲観的であり、水木先生は常にユーモアを絶やさず楽観的な明るさがあった。

 この歳になると、昔のアトムとか子供向け手塚漫画は読み返すのが辛い。あまりに暗く哀しい話が多く、幼少期に愛と勇気と未来への夢をたくさん与えてくれたけれど、その本質はかなり歪んでいることに気づく。何でどの作品もみなあんなに哀しいのだろう。
 水木漫画は、比べれば実に明るく健全で、大人漫画作品には、ときに人生への諦念と無常感、虚無感が現れているが、その本質は常にユーモアに満たされ人生をひょうひょうと肯定している。ある意味、達観であり戦争で九死に一生を得て帰国した者の強さと明るさ、開き直りがある。

 彼については稿を改めもう少し書きたいけれど、もう我が人生こそ、若き日に水木漫画を読んだため、これまでずっと、慌てず焦らず、そんなに急ぎあくせく働いたって何になると、昼寝ばかりしてきてしまったため、今になってそのツケが出て大わらわになってしまった。
 なのでこれから本の発送、友人へのメール連絡、コンサートの下準備、さらに車の車検出しともう発狂寸前なのだ。自転車もパンクして直せていない。夏に壊れたパソコンも然り。

 水木先生のような悠々自適な生き方はまさに達人だからできたのであろう。素人が真似すればただの怠け者でしかない。しかし手塚治虫の真逆をとった、焦らず急がない生き方には、人生の参考になるような気がする。
 あれもこれもと精力的に沢山働く短く太く生きるやり方もあろう。だが、結果として真の勝者とはどのように生きたかはともかく長生きした者ではないか。妖怪たちと共に生きた水木しげるこそ、もっともあの世に近い男であった。「ねぼけ人生」もまた素晴らしい人生ではないか。合掌。