そして、一緒に歩こうよ、国分寺の町をね2014年06月10日 23時26分41秒

★死んだ人と死んでいく人と アクセスランキング: 139位

 今日は梅雨の中休み。今年の梅雨は梅雨入りしたとたん、全国的に記録的豪雨となったから、空梅雨どころか異常に雨の多い年となるかと思う。幸い曇りがちではあるが、今日は晴れたので、午後から国分寺に住む女友達のところに別の女友達を誘って遊びに行った。渡すものものもあったし相談ごとがあった。

 その人Sさんとはもう学生の頃からだから30年以上の付き合いか。マス坊は男おばさんだから、女の友だちは多い。むろん皆さん結婚されているし、その旦那とも親しく家族ぐるみの付き合いしている関係だ。そうした一人で手作り味噌などの相方でもあるそのSさんの家に、中学校の先生で、先日の山梨行には行けなかった彼女を連れて行った。二人とも旧知であるし向こうで買ったものなどを手渡す用事もあったのだ。

 で、国分寺の彼女の家でお茶でも飲みながらあれこれ雑談してそれから夕方までその近所をぶらぶら三人で散策した。国分寺というのは昔ながらの農家もかなりまだ残っていて、田畑や竹藪や蛍が飛び交う湧き水の用水などもある、野趣ある田舎的風景と駅前の繁華と武蔵野の自然が共存したとても面白い町なのだ。
 そして思い出したのは、先日亡くなられたことがはっきりしたTさんもその家に連れてきたことがあったし、もう5年ほど前に病気で亡くなられた大学時代の後輩の女性ともそこではないが近くのSの実家に遊びに来て、やはり三人で国分寺の街道筋をぶらついたことを思い出した。そしてTさんも後輩のそのNちゃんも既にこの世にいないことに思い至り愕然とした。

 人生の黄昏とか夕暮れ時という言葉があるが、間もなく還暦を迎えていく自分にはこうして先に逝った友たちがこれからはさらに増えるのであろう。そのどちらもが、うんと年上ならまだしもともに年下であることが何とも哀しい。
 ならば自分もいつ死んでもおかしくないわけで、生きているといってもむしろこれから死んでいくと考えたほうが正しいと思った。死んだ人と死んでいく人。そこに何も差などありゃしない。ただ死んだ人はまだ生きている我々の心の中にありありと在りし日の姿、思い出は残っている。国分寺の町を歩きながら死んでしまった彼らのことを語り合った。

 が、彼や彼女たちを知る、親しくしていた我々も死ねば、やがて故人は忘れ去られ祖父や祖母、またそのまた上の曽祖父たちのように、子孫にだけはそうした人がいたから自分がいるという程度の関係、存在となっていく。まあ、それも「子孫」がいればの話であって、自分のようにやがては天涯孤独で子孫もなく死ぬ者は親しくしていた友たちがいなくなれば存在していたことすら雲散霧消するだろう。
 何ともやりきれない虚しい気もするが、死んだ後のことなどどうでも良いわけでこうして今、女友達たちと生きてお茶飲み話できる幸せを感謝するしかない。

 ♪僕を残してあの娘は行っちゃった、で始まる「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」は、故若林純夫さんの名訳詞で知られているが、その曲は今でも多くのシンガーがそれぞれの訳で唄っている。残念だが、ご当人が既になく、ほとんど録音も残っていないので今ではその訳ではあまり唄われない。だが、自分にとってはやはりこの曲は、うんと若いとき聞いたレコードで若林さんから教わったようなものであるし、その訳が今でもいちばんしっくりくる。
 彼は京都でのフォークキャンプで演った時は、最後は「そして一緒に歩こう、京都の町をね」と結んでいたし、武蔵野たんぽぽ団とか、こちらで唄っているときは「吉祥寺の町をね」と唄っている。※余談だが、彼が訳して唄ったバンドの「The Weight」の訳を誰かご存知か。先日シバと話したときもその訳は素晴らしいと語っていたし、京都のオクノ修さんも同様のことを話していた。一部分でも構わないのでご教示願いたい。

 そう、ならば、自分はこう唄おう。
♪僕を残してあの娘は行っちゃった。天国の向こうまで。とってもいかした娘だったが、さよならの一言、言わないで。《略》でも戻っておいでよ、機嫌を直し、そして一緒に歩こうよ、国分寺の町をね、と。

商売の心得とはやはり「顧客第一主義」2014年06月11日 18時03分14秒

★某ヤマトの受付のバカ女に憤る  アクセスランキング: 140位

 夕方である。外は雨が降り音立ててせっせっと降り続いている。憂鬱である。
 これからAmazonマーケットプレイスからの注文本を3冊発送しに行かねばならない。ウチのごく近くのヤマトの営業所受付は午後7時までなので、その時刻までに持ち込めば今日の便に間に合う。
 が、雨もあるがそこには行きたくない。というのは、今回の本3冊のうち2冊が厚さが1㎝ぎりぎりで、向うのメール便の規格で1㎝で受け付けてくれるか微妙だからだ。ウチの厚さ計測器だと一応すっきり1㎝幅の隙間は通る。普通なら何も問題ない。しかし、問題はその営業所に一人やたら細かく文句付けてくるチビの女がいて、そいつにぶつかるとはねつけられる可能性があるのだ。つまり1㎝で送れる本がそのバカ女だと2㎝扱いにされてしまうのである。

 値段は1㎝だと82円。2㎝だと164円。たかが80円の差ではないかと嗤うなかれ。元々の本の売値が安く、しかもアマゾン側に手数料をかなり取られてしまうので支払われる送料代の中から儲けを捻出しないとならない。それはウチだけではなく、皆どの出品者もやっている。でないと「1円本」なんてどうやったって儲けがでるわけがないではないか。慈善事業ではないのである。皆購入者が支払う一律の「送料」の中から、じっさいの送料を安く浮かしてそこで儲けているに過ぎない。

 なので1㎝の本ならば送料も含めて儲けも大きいのである。だからこちらは基本薄い本はメール便1㎝枠で送りたい。ヤマトのメール便にはそうしたわけで郵便局からのゆうメール、かつての冊子扱いで送るより断然安いので大いに助かっている。この会社には心から感謝している。
 が、そのウチの近くの営業所には、二人だけやたら厚さの企画に厳格なのがいて、一人は事務職専門の若い男、もう一人はその女で、男の方もかなり細かいが特にそのチビ女は1㎝と2㎝の計測幅が作ってある計測器で送る本を挟んで通すとき、ちょっとでも引っかかると何も言わずに即2㎝扱いにしてしまうのだ。
 こちらもちょっと待って、とその計測器を取り上げてぐいっと通せば何なく全部その封筒は1㎝幅を通り抜ける。だからこれは1㎝だと言うと、女はあくまでも開き直って、ちょっとでも引っかかったら2㎝だ、そう規則で決まっていると言い張る。そんなやりとりが何回もあって此方もキレてもうそこへ行くのは嫌になって来た。

 むろん他の受付担当が皆そうならばこちらも無理は言わない。ところが他の人はもっとユルイというか、そんな細かくはチェックしない。計測器に挟んでみてその幅に少しでも入れば1㎝は1㎝で、2㎝は2㎝でとすぐ応対してくれる。やたら細かく騒ぐのはそのチビ女だけで、そいつが受付にいるときはもうこちらも大声出したり口論するのは嫌だから下のヤマトの集配基地のほうに持ち込むことにした。そこなら受付の人たちは皆さん実に親切でそんな嫌な思いはすることは皆無なのである。

 言っておくが2㎝幅を超える本を2㎝枠のメール便で送れとか無理無体なことを言い立てているのではない。通常1㎝枠で通り、他の受付、ヤマトの従業員はほとんど1㎝で処理してくれる本がその女だと2㎝にされるのである。彼女は会社の方針には従順で真面目かつ厳格な性格なのであろう。しかし、愛社精神はあっても彼女のしていることは長い目でみれば顧客に不快感を与えてマイナスなのである。別に長く利用しているから特別に便宜を図れと望むわけではない。何でそいつだけが、いや、もう一人の若い男も含めてやたら細かく、雨の中持ち込んだお客様に規格だからと高圧的態度をとるのか理解に苦しむ。こちらは客ではないか。他の受付の人なら問題なく受け付けてくれるのに何故そう厳格に四角四面に応対するのか。この女は顧客対応を間違えている。実に慇懃無礼、サービス業だという認識が欠けている。いや、若いもう一人の男もそうだが、マニュアル世代というのか、上から教えられたことには機械的に従い規則通りに対応するばかりで融通がきかず現場をまったく理解できないのであろう。

 外は雨がせっせと降っている。しかし今日の便に間に合わせるためには、これから雨の中、車出して下の、バカ女のいないヤマトのベースまで持って行く。

不戦国家から戦争国家へ~想像力が欠如した時代に生きている2014年06月13日 07時41分48秒

★あまりにも短絡的な「自衛権限定行使」容認論

 曇天続きの梅雨のまっ最中であるが、今朝は珍しく久々に朝から強い陽射しでカラッと晴れた。暑くなりそうだが気持ちの良い朝だ。  
 降り続いた雨で、どこもかしこもしっとりジメジメしているが、これで少しはスッキリ乾くかと思う。が、大気はまた不安定、夕方からは所によって傘マークの予報である。

 さて、今一番の問題、「集団的自衛権」行使容認についてである。憲法じたいを変えるのには時間もかかり手続きも大変だからと、まずは不戦の誓いの部分、九条を骨抜きとすべく、一政権だけで勝手に解釈として集団的自衛権を行使できるように、つまり海外ででも日本国が攻撃されていなくてもどこでも「戦争ができる」ようにしようということになった。
 むろんこれには多くの良識ある国民、学者、メディア・マスコミ、左派文化人、一部の政治家たちも大いに反対している。が、暴走安倍政権はそんなことはどこ吹く風、与党間、公明党との協議を加速させ解釈改憲を果たそうとしている。まったく呆れを通り越して憤りと絶望的な気分にもなろう。
 けっきょく抵抗していた公明党も自民に引きずられ「限定的なら自衛権容認」に傾きつつあるとのことで、「平和の党」を標榜していたはずの党が、あろうことか「戦争の党」となっていく。後年、日本を再び戦火に陥れたとして自公は厳しく歴史家と未来の日本人たちに糾弾されることであろう。むろんそれを許した国民、今生きている我々をも。

 それにしても思うのだが、「限定的」ならば自衛権を行使しても良いのであろうか。また、それならば戦争自体が抑制され大規模な事態に至らぬとでも本気で公明党などは考えているのか。

 考えなくてもいいから想像してもらいたい。他国や、外地における武装勢力との戦争に至る武力衝突がいったん起きたらば、現実のはなし、これは日本ができる、できないなんて討議している時間も余裕もありゃしない。同盟国から要請されればこれまでのように憲法上の制約があるからという口実は使えないのだから、何でもやらなくてはならない。それこそが国際社会での国家の責任であろう。

 そしてひとたび戦闘行為が起きて日本もそれに参加してしまえば、事態は簡単には収まらなくなる。今イラクをはじめ世界中に治安悪化の紛争地域はいくつもある。その多くは「世界の警察官」米国が関係してその紛争の要因に深く関わっている。ひとたび米国がその他国や他国の武装勢力から、例えばイスラム過激派から攻撃され戦闘行為、つまり戦争となれば日本も参戦するのである。戦争に積極的に関わっていく。それが集団的自衛権を行使するということであり、限定的も何もありゃしない。
 要するに戦争とは、するかしないかでしかなく、ちょこっとだけ戦争してさっさっと終えられるものでは絶対ない。海賊退治ならば武力を用いて解決をはかることも可能かもしれない。相手も懲りて、慌てて逃げて無法行為は終わりとなるかもしれない。
 しかしこと国家間の戦闘となってしまえば、そこには互いの国家の正義と民族の誇り、面子も大きく関係していく。仮に日本と近隣諸国が領有権を主張している離島で戦闘行為が起きたとする。かつての英国とアルゼンチンがフォークランド諸島をめぐって戦争したような事態。そして双方の軍隊に死者がでたと想像してほしい。

 戦争の勝ち負け、最終的収束はともかくも、一たびそうした事態が起きてしまえば、この日本の国内はどうなるのか。国内にいるその外国人、在日外国籍の人たちには厳しい憎しみの目が向けられよう。かつて朝鮮学校の生徒たちに起きたような嫌がらせ、差別のような事態が彼ら外国人、外国籍の人たちに当然起きる。それは彼らと結婚し彼らの一方を両親に持つ日本人の子供たちにも向けられる。国中がヘイトスピーチ的風潮に包まれることも大いにあり得る。

 それは米国での、2001年9.11同時多発テロ直後の、在米イスラム、アラブ系人種に対するいわれのない差別偏見と同根であり、かつての真珠湾攻撃後の米国社会における日系人を収容所に集めた心理とも繋がる。
 つまりひとたび国家間、異人種間の戦闘行為が始まり死者が出てしまえば、その国にいる敵国人、ガイジンたちに憎しみの目が向けられ様々な嫌がらさせ排斥、弾圧が起きることはどこの国でも同じなのだ。
 日本と中国との間に戦争行為が起きてしまえば、日本にいる中国人が、中国に滞在している日本人がその国の人たちに排斥されていく。それはどこの国でも同じ事だ。敵国の外国人がその国にいれば憎しみと怒りは彼らに向けられるのは人間の心理なのだ。それは当然であろう。
 愛する人がその外国の兵士に殺されたとする。身近にその外国籍の人たちがいたら当然彼らをも憎む。決して赦しはしない。坊主憎ければの心理である。それは仕方ない。そしてその憎しみは長く続く。
 ならばそうした事態が起きないように努力するしかない。戦争はするかしないかしかないのである。ならば今の憲法に明記してあるように、国家間の紛争は武力によって解決をはかっては絶対にならないのである。
 ひとたび戦争が起きてしまえば、その後数代にわたって国家間の国民たちの間に禍根を残す。面倒な心理が生まれる。今だって東アジアの人たちはかつての日本が起こした侵略戦争を赦していない。
 戦争とはサッカーの試合のような終わっても爽やかなものではない。一たび戦争が起きて死者が出たらあとは残された人たちにとっても地獄が始まる。

若者よ、戦地に行く覚悟はあるか2014年06月14日 08時00分01秒

★殺し合いのリングに君は上がる覚悟はあるか   アクセスランキング: 153位  

 まさに風雲急を告げる状況である。世間はサッカーワールドカップとか、近づく東京オリンピックとか、スポーツの祭典に浮かれているが、今日本は、そして世界はまさに大変革のとき、第二次大戦後以来続いていた「戦後」体制が終わり、新たな「戦前」の時代へ移ろうとしている。
 ただ、多くの国民はそのことに気がついていないし、漠然と「集団的自衛権」の行使容認?よくわからないけど良いんじゃないの、という程度の認識しかない。
 だが、このことは、これまでは憲法で禁じられてできなかった他国との戦争という行為に、この日本も再び参加していくということであり、そんな大事な決断を一内閣が決めて国民はそれを許すのか、同意するのかということが問われている。ところがほとんど多くの国民はそれほどの大事件、大問題と思ってもいないしそもそもよくわかっていない。一部の左派マスコミが騒いでいるがメディアでもきちんと事態を知らされていない。
 そもそもこの国の国民はおとなしいというか、多くが常に政治には無関心だから、どんな悪法も粛々と国会で決められて、政治家たちが決めたことは、知らないうちにいつの間にかお上が決めたことだからと唯々諾々と従い、結果として常に痛い目にあう。

 戦争ができる、戦争をするということはどういうことか、考えなくてもいいからまず想像してみてほしい。
 例えばの話、君がスポーツ、それもボクシングとかプロレスが好きで、彼らボクサーやプロレスラーに憧れ観客席やテレビででいつも応援していたとする。
 しかしあるとき、突然、きみもリングに上がれと命じられたらどうするか。観るのは好きでもまさかリングに上がるなんて思いもしないしそんな覚悟も準備もしていないはずだ。まして相手は見ず知らずの外国人の選手だとする。それは怖いしおそらく誰だって拒絶するであろう。
 プロレスやボクシングならば、命のやりとりはしない。せいぜいあっという間に倒されてリングにダウンし、レフリーストップか、カウントを取られて控え室に抱きかかえられて運ばれる程度で済むかもしれない。

 だが、戦争ならばどうか。戦争とは命のやりとりなのである。そしてきみはテレビで、戦っている日本人兵士を、ふーん大変だなあとみているだけではすまなくなるだろう。というのは、戦争が始まれば今の自衛隊員がまず参戦することになるわけだが、一人でも戦死者が出てしまえば、すぐに兵士が足りなくなる。
 なぜなら、今の自衛隊員たちの多くは、まさか外地で戦争をする覚悟で応募したわけではなく、その多くは災害救助中心の活動だと考えているし様々な資格取得目的という軽い気持ちの方々が多いはずだからだ。日本国兵士として命を捨てるという意識と覚悟は彼らにはまだない。憲法解釈が変わって集団的自衛権が行使できる、戦地に行ってくれと言われたら困惑する自衛隊員も出てくるだろう。兵士は必ず不足する。

 そうして戦争が始まってしまえば、いや、戦争が始まらなくても戦争ができるとなれば国軍には常に一定の優秀な兵士が必要となる。訓練は怠ってはならないし有事に備えて兵器と兵士の確保は至上課題である。どうするか。けっきょく、かつて戦前の日本のように、徴兵制として一般国民を使う「徴兵」しかないのである。
 おそらく18才以上の健康な男女は、参政権と同時に徴兵検査を受けさせられ一定の期間兵役訓練に就かされる。そして米国がどこそかの国を攻撃する事態が起これば即日本軍は参戦しその国に行って戦闘行為を繰り広げる。
 若いきみもそのとき、兵士として徴用されてどこか外国の地で戦闘行為に参加させられるかもしれない。それはどんな気分か想像してみてほしい。楽しいか。モンスターハンティングみたいなものか。しかしそれは戦争ごっこではなく、本物の戦争であり、向こう側、敵軍も必死であるし人と人が命かけて殺し合いをするのである。勝っても負けても双方に犠牲者が出る。それは絶対に楽しくも愉快でもない。恐怖のあまり発狂するかもしれない。

 かつて韓国は、ベトナム戦争においても米軍と共に参戦し、多くの韓国人兵士の戦死者を生み出した。今でも成人男子は一定の期間兵役訓練が課せられているし、平時においても戦争は常に意識の傍らにある。それは38度線で敵国と境を接しているからでもあるが、では何故に日本は韓国のような事態が起きなかったかと言えば、まさに平和憲法があって九条により戦争はできなかったからだ。それは良いことであって悪いことではないだろう。それとも北ベトナムに日本も米韓と共に参戦すれば良かったのか。※韓国軍はベトナムに5万人の兵士を出し、そのうち約5000名の戦死者を出したとされている。

 集団的自衛権を行使する、とはとりもなおさず戦争をしていくことであり、もしそれが国際貢献、21世紀における「積極的平和主義」だから日本の進むべき正しいあり方だとしたとする。しかし、ならばこそ拙速に国民的討議もないまま安倍政権と与党だけで突き進んでよいものか。国民にその覚悟はあるのか。いや、そもそも「集団的自衛権の行使」、解釈改憲とはどういうことかわかっているのか。

 はっきりと、政府は国民に説明したらどうか。憲法を変えるためにまず解釈として自衛権を行使できるようにします。今までは憲法の制約があってできなかったのですが、これからは戦争をします。戦争が始まったら、兵士が不足するかもしれません。よって国民から兵士を募ります。徴兵制を復活させます。ぜひ皆さんも日本軍に入って国民の財産と愛する人を守るため、国のために命を捨ててくださいと。

 きみは殺し合いのリングに上がる勇気と覚悟はあるか。戦争が始まって戦地に行くのは、安倍や石破や高村氏ではない。彼らは勝手に決めるだけでその責任はとらない。戦争が始まれば行くのは若い健康なきみたちなのだ。
 また、青少年の子をもつ親たちは我が子を戦地に送り出す覚悟はあるか。生み育てた子を戦争でなくす覚悟はできているか。戦争ができる、戦争をするということはそういう事態なのである。今、そういう時代が来る瀬戸際。よく想像してほしい。

老夫婦、老息子、老犬の老老老一家2014年06月16日 21時51分52秒

★無理を通しながら生きていく         アクセスランキング: 157位

 ちょっと疲れが溜まってこのところ夜になると頭が鈍く痛い。気分も体調もさほど悪くはないが、ともかく日々忙しくまさに眩暈がしている。
 愚痴ではなく状況報告だけ記す。
 と、昨日は老母が体調を崩し、もしかしたら脳梗塞かっ!?と夜になって急患扱いで立川の病院に慌てて連れて行った。検査の結果大したことはなく、書くとご心配されるかもしれないがまあ何でも包み隠さず書くブログなので。

 朝から当人曰く、頭の後ろ首筋が痛い、足も重くふらふらして脱力感強いと訴えていた。顔色も悪いので様子見つつ寝かせておいたのだが、夕方お茶飲もうとしたら持ってたカップを手から落としたりして当人も左手がしびれると訴えたので、これはヤバいと大慌てで車出してかかりつけの立川の総合病院へ休日の夜だが母を連れていった。
 夜の7時過ぎ、幸い他の急患に来られた人たちはほとんどいなく空いていてすぐに宿直担当の若い女医が診てくれた。問診や簡単な手足の検査などのあと、点滴入れつつ頭のCT、MRI、さらには血液と尿の検査までやってくれた。
 点滴に2時間かかるとのことで、本当はそこに付いていなくてはならないと医師から言われたが、認知症の親父が家にいると断っていったん家まで車で戻り、途中で買った弁当屋の惣菜で老父に夕飯を出して、老犬バドにミルクと食事を少しだけ与えてまた慌てて立川へ戻った。
 検査の結果は幸いにして異常なしで、どうやら慢性疲労と脱水症状で頭痛、ふらつきなどの体調異常が起きたらしい。
 医師は頭痛薬出しましょうかと言われたが、もう10時だったのでともかく早く帰りたいと、母を連れて帰ってきた。ちょうど3時間。いろいろんな検査に点滴までしたが空いていたので待たされることなくスムーズに終わった。
 老父を寝かしつけ、バドににまた食餌と下の世話してから母と遅い晩飯を食べた。が、もう疲労のあまり起きていられず自分のほうが倒れこむように寝てしまった。
 
 母は今日も近くのかかりつけ医院で点滴してもらいまだ頭痛は残るもののもう大丈夫だとは当人の弁だ。まったく人騒がせな話だが、ほんとうに脳梗塞だったりその前触れならば即入院、手術となったはずだから大したことなくてほっとした。
 ただ、待合室で待っている間、悪い結果が出て入院ともなれば、今月末のライブは難しいなあとあれこれ考えざるえなかった。そもそも無理なことを無理を承知でやっているのかと自問した。今日も朝から家事でともかく忙しかった。

 先にも書いてきたが、老犬バドが長生きは有難いが、このところ人間でいえば要介護4~5という段階で、意識はあってもほぼ寝たきり状態なので、食餌から大小便までともかく手間がかかる。うっかり目を離すと、寝ている玄関で大小便まみれとなってしまう。そんなで今も夜11時頃、人間も寝る前に一回抱きかかえて外で小便をさせて朝も明け方早く起きて寝小便などしていないか確認後、また抱きかかえ外で用便させる。食餌と下の世話で一日が明け暮れる。
 三人家族と言っても認知症の老父はもう何も担当させられないから母と二人で手分けしてバドの世話している。父はマイペースで好きな時に寝て好きな時に起きたり無責任至極の自由気ままなボケ老人なのである。

 そんなで朝も早く、慢性的睡眠不足、疲労蓄積であったのだ。一昨日の夜はライブで老息子も出掛けたりして母の負担が増えた。そんなこともあってついに体調崩したのであろう。
 朝起きて、玄関の土間がやたら臭く、寝ている間にバドは寝糞と寝小便してしかも動き回って体中糞尿まみれになっているときなど、まさに辛酸佳境に入るというか暗澹たる気分にもなるが、それもこれもとことん老いた犬の世話なのだから仕方ないのである。動物を飼うとはこうしたことも想定しないとならなかったのだ。
 ただこれで人間のほうがバテて倒れてしまったら状況はさらに悪化してしまう。自分も今日は疲れがどっと出て、昼食後気がついたら起きてられず倒れこむように夕方まで気づいたら寝込んでしまっていた。
 きのう、そんなであまり世話できず、ほったらかし気味であったこともあって今日はバドもあまり食べず眠ってばかりで手を焼いた。

 無理を通しているとは思わないがすべて家族皆が老いてどんなことでも処理対応が遅れて時間ばかりかかって二進も三進も行かなくなってしまっている。
 バドが生きている間はもう何もできない、何もすべきでないかという気持ちにもなるけれど、死ぬのを待ち望むわけではないし、さらに佳境に入ろうととことん面倒は見るつもりでいる。ただ人間がかなり疲れてきている。介護とは介護する側が倒れることも多々あると聞くが、犬もその一因なので、まさか介護ヘルパー呼んでバドの世話は頼めない。
 
 生まれてくるときは皆大差ないと思うが、死ぬとき、死のカタチは実に千差万別だと思い至る。元気でも突発的に急病で死ぬ人もあれば、長患いで意識もないまましぶとく生きてやっと死ぬ人もいよう。
 ウチの場合、犬も人も幸いにして長寿の家系らしくとことんだらだらと長く生きている。そしてその分どんどん全てがダメになって自らで自らのことは何もできなくなっていく。その分介護の手がかかる。
 長生きとは良いこと、おめでたいこと、喜ばしいことではあるが、反面介護の辛酸ということも表裏一体となっている。

 こんな事態が起きるとは想像はできても予想はしていなかった。が、先に亡くなられた方々には申し訳ないが、長生きはやはり良いことであり、どこまで生かせられるかこちらの手腕が問われている。世話することは辛く大変で、時間とられて他のことは何もできないが、生きていることはとにもかくにも有難いわけで良いことなのである。
 かなり無理はしている。が、神はその者が背負える以上の荷は負わせないと聖書にある。ならば何とかなろう。

 生きていくのは大変だとよく言われる。まったく意味としては同様だが、このところ、死んでいくのも大変だとつくづく思う。

新国家成長戦略とは、大企業と金持ちだけが成長するためのイカサマ2014年06月17日 10時46分44秒

★安倍自民党政権の国家の私物化を糾弾する    アクセスランキング: 119 位   

 今もまだ安倍政権に対する国民の支持率は高いようだが、それは芸能人等が売れ続けるために常に新たな話題をふりまきさも「価値」あるように期待と幻想を駆り立てていると同じで、じっさいのところ景気も真に回復していないし一般国民の暮らしは苦しくなる一方で良いことなんか彼らは何一つしていない。
 せいぜい株価が持ち直したことと大企業中心にベースアップとボーナスが増えたていどのことで、景気回復の兆しという期待感だけでなおもずっと国民をだまし続けている。逆に、彼らが政権奪取後に成しえた無理やり成立させた悪法の数々、特定秘密保護法から今回の解釈改憲までその暴走の度合いはまさに「歴史的」かつ記録的異常事態である。

 これまでの歴代自民党政権、それに代わった民主党政権もダメであったが、それは要するに何においても決断できず事案の処理能力、政治の対応力が低かったからだけなのに対して、今の安倍政権は非常にその処理能力、行動力は高く素早い。
 が、それは国民が望む国民にとって良い政治をしてくれているのではなく、全てが甘言を弄し、さも国家国民のためだと言い張って自らの欲望のまま彼らが望む日本に変えようと、結果日本国民をどん底に陥れようとしている。東京オリンピック招聘のためにIOC総会のプレゼンで「「(福島第1原発の)状況はコントロールされている。東京にダメージが与えられることは決してない、汚染水は港湾内で完全にブロックされている」と福島原発事故は収束して安全だと世界中に大嘘を言い放ったレベルの嘘とごまかし、詐欺的詭弁とイカサマの政治を今も彼らは続けているのである。

 そして今回の「国家成長戦略」なる骨太の方針、まったく呆れ果てた。大企業の税金をさらに安くすること、そして社員に残業代を支払わなくても良くすること、基本的に固定給でなく能力給にしていくこと、さらには一方的に解雇もしやすくすること、労働者をパートやアルバイトのままずっと会社が使いつづけられることなど、その全て彼らが目論むことは、国家の成長とは何の関係ない。これは誰が考えてもわかるように大企業とその株主、金持ちたちのための「成長戦略」であって、要するに金持ちたちだけがもっとより儲けが出るよう、楽に経営がしやすくなるようにしていく「戦略」でしかない。

 むろん経済学で考えればそうして企業、大企業が強くなれば国家も結果として成長するという考える者もいよう。企業が栄えれば従業員も富むと。しかし、労働人口がさらに減る中、労働者の権利や賃金を高めるのではなく逆にこの戦略に沿って、給与を下げ使い捨てにしていけばこの国の繁栄があるとでも考えるのか。国家とは国民の集合体であり、人口の1%に満たない金持ち富裕層の所有物ではない。ましてこの国は安倍晋三一派の私物ではない。

 六本木や虎の門のように東京などの大都市の一部の地域は金が集まり繁栄し金持ちたちは毎晩我が世の春を謳歌しよう。一方、地方都市、さらにはろくに産業も観光もない地域に住む者たちはさらに雇用は失われ収入が何もなくなる。たとえ若い者が都会に出てきてもそうした雇用状況では物価高のさなか生活していけなくなる。結果犯罪が多発し治安は悪化の一途をたどっていく。そこにTPPが拍車をかける。

 政府は外国人労働者をもっと受け入れて、彼らに3K的仕事を与え一定の期間だけこき使おうと考えている。かつての黒人奴隷を用いてきた白人社会的発想のようにも思える。外国人労働者の是非はともかく、もっと長期的保障と生活の安定が確保されない限り何人であろうとも人は真剣にまじめに働かない。「国家成長戦略」で金持ち・大企業は儲かる仕組みはできたとしても結果としてすぐに消費は落ち込み日本はまた不況のどん底に落下していく。

 今自民党政権がやろうとしていることはまさに亡国の道を辿ることでしかないと断言する。このまま貧富と格差が進めばこの国は自衛権を使わなくとも内部から崩壊していく。

 日本人よ、いつまで騙され続けるのか。隣国の民度の低さを嗤う前に自らの足元をしっかり見るべきではないのか。
 このまま安倍晋三に政治を託して日本は大丈夫かと。

戦争を待ち望む者たちの心理の裏に2014年06月18日 09時39分29秒

★「戦争の親玉」復活す。        アクセスランキング: 105位

 今多くの国民が不安におののき、憂い、心痛めても安倍政権の悪法成立の暴走は止まるどころか加速の度を増すばかりだ。こんな無法なことが一個人、一内閣で拙速勝手に次々矢継ぎ早に決められることに憤りが止まらない。
 今日6月18日の朝刊には「医療・介護総合法案」可決、「改正地方教育行政法」可決、「児童ポルノ禁止法改定案」可決などの文字が並んでいた。そのどれもが「改正」とうたっているが、国民の権利を奪いさらなる負担を強い、官憲や公権力に過大な力をもたらす大改悪なのである。

 自らを過信し驕り高ぶり怖れを知らない傲岸不遜な安倍晋三は暴君ネロに並ぶ歴史上の人物となろう。偉業を成しえたからではない。日本を、そして世界を破滅に導いた張本人として後世に名を残すに違いない。彼は偉大な祖父をその悪名で超えていく。

 ただ彼の「暴走」にもわけがある。サンケイや読売などの右派マスメディアに洗脳された国民の支持率も未だ高いことと、その悪法をきちんと審議し撤回を求める反対勢力が国会にはほとんどいないからだ。残念ながら今の国会はごく少数の左派政党以外は全て自民党の補完勢力なのだから。民主も維新もみんなも結いの党も彼らは公明のように連立を組んでいないだけで、自民党に対決するどころか内心は政権に参加したくてしようがない。基本、自民党のやることに真っ向から反対する大義も理由ももともとないのである。また、巨大な与党に立ち向かったって蟷螂の斧という気持ちなのだろう。橋下氏がよく言うように、対決していくより法案成立に協力して成果をとっていくほうがクレバーと考えたか。しかしそれは真の政治家ではない。真の政治家は義人田中正造のようにたった一人でも民のために命さえも惜しまないはずだ。

 民意が正しく反映それない歪んだ選挙制度という弊害があったとしてもそんな国会を選んだのも我々国民なわけで、これからその代償、ツケを払わされる。いや、いきなり煮え湯は呑めと言われたって飲みはしない。カエルを茹でる実験のように、じょじょに鍋の水を熱していけばカエルは逃げ出すことなく気づかないまま茹で上げられ死んでしまう。
 まあ、このスピードで悪法が施行され、現実化していけばいくら鈍いカエルのような国民だって、おや、ちょっと変だぞ、これでは息苦しくて生きていけなくなる、と気づくかもしれないが、そのときは既に遅い。

 安倍晋三の最終目標は憲法改正、自主憲法制定、さらには一党独裁の自民党の半永久政権なのだろうが、それに向けて政権奪還後、わずか一年半でまず喫緊の課題、目標はすべて成し得た、ほぼ達成しつつあるという思いがあるだろう。
 彼らが目指す日本国は、戦前同様に天皇家を頂点として国民が一体一家となって強大な国家権力が民を監視統合する秩序ある社会であり、復活させた強国日本は、軍事大国、戦争国家として東アジアに盟主として君臨していく。
 それはネット社会で隣国人たちに差別的暴言を吐き続ける人たちの理想社会でもあろう。市民生活すべてが国家権力の監視下にあるという社会はどんなものか、もはや戦中、戦前を知る者などごくごく少数なのだからいたしかたないのもしれない。
 「戦争」というものがじっさいはどんなものであるのか。その実態と悲惨さを語り次ぐ行為を続けている方々も今もいるが、残念なことに人間とは現実として体験、体感しないことには聴いたり写真だけでは本当に理解したことにはならないのである。

 こういう自分も焼け跡などの廃墟の風景は戦後の写真集などで見てよく知ってはいた。が、大津波の被災地に行ってみて、その「廃墟」に立ってみて初めて家々が瓦礫と化した広大な廃墟という「現実」がはっきりと理解実感できた。ならばやはりじっさいにまた新たに人は体験してみないと何ごともわからないのかなあ、という思いもある。願わくば生涯戦争などの事態は体験しないにこしたことはないが、「平和」の価値は残念ながら「戦争体験」でしか真に実感できないのではとも思える。

 今フランス・パリ郊外で兵器の国際展示会、ユーロサトリ2014が開催中である。日本も安倍首相の禁輸政策を転換した、先に決まってしまった防衛装備移転三原則の下、テロや災害対策に活用できる装備品の輸出先開拓につなげたいと三菱重工業、川崎重工、日立ら軍需産業10数社が参加しているとのことだ。
 これまでは憲法の制約上、文言として憲法に明記し「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と、国際紛争は武力によって解決をはからないと誓ってきたこの国が今や武器輸出に積極的に関わっていく。何という180度の転換であろう。
 このことは今後は他国に軍備を売り込み戦争によって大企業、軍需産業が儲け栄えてこの国も豊かになるということに他ならない。ゆえに、安倍首相らは海外どこででもこの国も戦争ができる、参加できるようにしたいと切望するのである。彼ら自民党は戦争を待ち望む大企業から多額の献金をもらっているのだから。

 実は戦争こそ最大の産業であり、ひとたび戦争が起きれば民間上げて企業は大儲けができる(それも当事国でなければ、もしくは戦争がすぐに終わり勝った場合の話)。公共事業なんかとはケタが違う金が動く。良く知られていることだが、日本の敗戦後の復興は、朝鮮動乱が起き、その特需景気に沸いたからに他ならない。
 輸出産業が儲かるためにも、大企業、軍需産業からの戦争景気を待ち望む心理がこの国が戦争に加担していく集団的自衛権行使容認を強く押しているのだ。

 残念ながら人は、金のためなら人殺しでもする動物という一面を持つ。しかしだからこそ人が人を殺す戦争で金儲けを企んではならないのではないのか。戦争で儲かる死の商人もいようが、戦争によってまず家を、家族を、自らの命をも失い貧困のどん底に陥る人たちがほぼ全てであるのが「現実」なのだから、戦争という行為そのものをなくしていくことこそが人類の進むあり方だと信ずる。何より人の不幸で肥え太ることは絶対許されてはならないことではないのか。

 「死の商人」の手先、原発輸出の代行者としても安倍晋三の名は後世に残っていく。

戦争の親玉 日本語詞2014年06月18日 12時25分53秒

爆弾をつくるお前さんたち
壁のかげにかくれても机の下にかくれても
あんたの顔はまるみえだ

おいらの世界をおもちゃのように
ひねくりまわしただこわすだけ
いつもかくれてたまがとんでくりゃ
雲をかすみと逃げるだけ

若者たちに引き金ひかせて
死人の数をあんたは数えて
屋敷にかくれる若者の血は
ただ大地に赤くしみこむ

あんたはきっとおいらに言うだろう
世間知らずとまだ若すぎると
でも一つだけわかることは
人を殺すことはゆるさない

名もつけられずに死んでいく子供
かたわのままで生まれる子供
そんな恐怖をまきちらして
お前には血など流れちゃいない

おれたちはしっかり見届けよう
うすら寒い夕暮れに
あんたが墓場に入る時まで
おれはしっかり見とどけよう


※アルバム「関西フォークの歴史」第1集の解説によると
「高石友也とボブ・ディランの最初の出会いとなった曲。訳詞は、当時、大阪労音のフォークソング愛好会がガリ版刷りで出した歌集の中にあったものを高石が唄えるように直したもの」とある。

民族に上下・優劣など何もない。2014年06月19日 09時05分48秒

★在日の半島に出自を持つ方々への差別を憂いて アクセスランキング: 119位

 マス坊は米軍基地の町で物心ついてからずっと育ち暮らしてきた。だから一番最初にできた友は、近くの米軍ハウスに住んでいた白人の米国人だったし、妹の親友は目の青いハーフの女の子だったり、近くには父親が台湾人、あるいはアフリカ系ハーフの奴もいたりとNYほどではないが、まさに多人種社会の中にいた。
 大人になって外人に日本語を教える語学学校で講師もしたこともあり、中国人、韓国人、タイ人、ミャンマー人とも学校外でも親交を結んだ。一番個人的にも親しくなったのは、ニュージーランド人の大男だったが。
 日本で生まれた在日の人たちはともかく外国から来た人たちはやはり文化がかなり異なる。考え方や行動も日本人の常識からかなりかけ離れている。しかし、それは日本人が向こうに行けば同様であるわけで、やがて長くその地にいれば考え方も行動もその地ナイズされていく。
 また、85年の筑波で開かれた科学万博では、フランスのパビリオンで半年の期間中アルバイトもしていたので仏人気質もよくわかった。今もフランス人の友達もいてたまにウチに来たり泊まったりしていることはご存知の方もいよう。
 そうしていろんな外国人、外国籍の人たちと付き合ったりあるいは外国へ行き現地の人たちと触れ合ったりして思ったのは、何人であろうと良いやつと悪いやつがいて何ひとつ日本人と変わらないということだ。それは気の合う奴、気の合わない奴と言い換えても良い。

 むろんスリや泥棒、詐欺のような悪事を目論む悪い輩はあちこちにいる。が、それは日本人だって同様で、犯罪を犯すのはガイジン、外国籍の者だけでないことは常識だろう。日本人は健全善良でありガイジンは不良悪人だと決めつけることはとんでもない錯誤、思い違いである。日本人でも残虐非道な犯罪に手を染める者はいくらでもいる事は連日ニュースが報じている。

 ところが、ところがである。どうやらネットの世界ではそうではないらしく、日本人=善良、外人・特に大陸、朝鮮半島に出自を持つ者、在日も含めて=悪事をする者、というパターン化した「常識」がまかり通っているようだ。その場合の外人とは、欧米系=白人ではなく、東南アジアの近隣諸国、特に慎太郎が言うところの「三国人」を指している。あるいは有色人種か。
 先日、調べものしていてついネットでの質問サイトをうっかり覗いてしまった。質問者がよくわからない気になること、知りたいことを「質問・公表」してそれに知識ある人が「書き込み・返答」するというアレ、「知恵袋」である。
そしたちらそこのランキングのトップアクセスの質問がこうであった。

「○○〇ってもしかして在日ですか?韓国か朝鮮人の血がながれていませんか?」○○〇のところには昨今STAP細胞なるもので存在自体の有無も含めて世間を騒がしている女性研究者の実名である。

 唖然とした。この質問はいったいどういう意図であるのか真意を疑った。むろん「質問」は何だってそのサイトでは書き込めるわけだから質問者氏は単に好奇心?で気軽に投稿したのかもしれない。
 しかしそもそもこうした問題は個人のプライバシーに関することであるし、世間に向けてネット上で実名を挙げて問うべきことであろうか。また、仮にその女性Oさんの出自がそうであったとしても、なぜにそれを知りたいと願うのであろうか。それをネット上で広く世間に問うのであろうか。また、その「回答」は誰かがここに公表して許されるのか。真偽のほどは確かめられるのか。この質問者も常識外れというべきか異常だと思わざるえないところに「回答」もまた異常かつ悪質であった。いくつもあるのだが、いちばんひどいのとなると、
「少なくとも生粋の正当な身分の日本人血筋では無いでしょうo(`▽´)o在日白丁血筋ならこの詐欺盗人は死刑!仮に正当な身分の日本人だったら無罪放免かなo(`▽´)o」

 くだらない質問の答えもまたくだらないことをまんま実証しているわけだが、どこまで真面目に本心から書いているのかはともかくここには、明白な悪意が見えよう。怪しく胡散臭いこと、人を騙すようなことをするのは回答者の言を借りれれば「生粋の正当な身分の日本人血筋」ではないと断ずる狂気が存在している。たくさんの回答が寄せられていたが、ほぼどれも同様であきれ果てた。件の、クラシック界で耳が聴こえないことを売りに、「日本のベートーベン」として人気があり盗作が発覚した作曲家S氏の名前も出ていたので、要するに、何か悪いことをするのは「在日、もしくは韓国か朝鮮人の血がながれてい」る者という偏見、妄想が質問者、多くの回答者に通底しているのだと推察する。あるいは、悪いことをするのは実は日本人でない、日本人であってほしくないという願望があるのかと想像する。

 あまりにバカバカしいので、こうした輩は相手にする気もないがついうっかりサイトを覗いたことを深く後悔した。
 そのうえで少しだけ書いておきたいのは、この質問者も例に挙げた回答者もご自分は「生粋の正当な身分の日本人血筋」だと認じてのことだと思うが、その定義を知りたくも思う。そもそも「生粋の正当な日本人」とはどういう人のことを意味しているのか。

 江戸っ子は江戸で三代以上続いて江戸っ子と言えるのだそうだが、日本人もそうなのだろうか。冗談はさておき、日本人の血筋の中にはかなり半島出身者の血も入っているのではないか。というのも古代より、つながりの深かった半島からは多くの焼き物などの陶器、農耕武具などの技術者が日本に来ていることは古文書と遺跡が示している。
 奈良時代に全国につくられた国分寺の瓦なども手掛けたのは半島から招いた渡来人たちだったし、ウチの近くには高麗(こま)という地名の町がある。古代に高麗から来られた人たちの集落があった事に因んでいる。この武蔵野の地でさえもそうした渡来人がたくさん来ているのだから、おそらく近畿九州圏にはもっと多くの彼ら、今でいう「韓国か朝鮮人の血」が入ってきているはずであろう。交通事情の悪い大昔の話、まさか来た人たちがそのまま仕事が終わったら帰国していたと考えられない。朝鮮から来たことを示す名字の日本人もいるし、日本語には多く朝鮮語に語源、発音を持つ言葉も入っているとされている。

 自分は残念ながら日本人であるが、日本民族というものは、かなり後から確定したもので、もともと南方の島々から来た人たち、アイヌ系などの北方から来た人たち、それに半島から来た大陸系の人たちが入り交ざって出来たものではないかと考えている。
 日本はアジアの果てであり、人類は文明の発祥した地から時間をかけてどん詰まりの日本列島までたどり着いたのではないか。だから当然文化も遅れていたし、進んでいた半島人の英知に頼らざるえなかった。
 大陸中国では紀元前数千年から歴史ある確固たる大文明が栄えていたが、その頃の日本はどういう文化状況であったか、日本史を少しでも学べば納得頂けるかと信ずる。

 そうしたかつての文明の師匠にあたる人たちの血筋が今の韓国か朝鮮人であり、「在日」の人たちは当然その血は濃いわけだが、我々日本人の中にも多くその血は流れていると考えられる。ゆえに「生粋の正当な身分の日本人血筋」とは何を指すのか。せいぜい江戸時代からの家系図を擁する旧家名家ぐらいではないのか。
 さらに付け加えれば、ある民族は優秀で、ある民族は劣等などということはないと信ずる。そうした発想こそかつてナチスドイツが用いた誤った思想の根源、優生思想であり、行き着く先は異人種の絶滅まで及ぶ。言語や文化風俗が異なるように身体的特性も含めて民族=人は全て異なりそれはそれで良いことなのである。
 そしてそこに良い人と悪い人、さらには愚かな、常にときの権力者側に踊らされる人とまっとうに物事を見極められる人がいる。
 繰り返すが、どんな人種にも良い人と悪い人がいる。それは日本人だって同じことだろう。日本人はとても素晴らしいと自分も思うが日本人だけが善良だなんて口が裂けても言えやしない。

 こうしたまったく根拠のない差別と偏見が世界を狭くさせていく。それぞれの民族がヘイトスピーチを叫んで敵対反目しあっても物事は何一つ解決しない。単に世界が不安定に、息苦しくなるだけだ。お互いに得など一つもないではないか。
 聖書では貴方も「善きサマリア人」であれと説いている。愚かな自分もそうありたいと願う。

「あいときぼうのまち」を観て考えたこと2014年06月20日 00時46分40秒

★「原子力」という業を背負わされた日本人必見の映画   アクセスランキング: 92位 

 痛みを悼みに、そして希望につなげていく。
 19日、話題の映画、「あいときぼうのまち」を六本木シネマートで試写で観てきた。
 低予算のインディーズ映画ということもあって、正直、拙さというか気になる点もなくはなかったが、志のある良くできた深い余韻をもたらす佳作だと思う。実際の原発事故、大震災に材をとって東電の実名を挙げ難しい物語を紡ぎ上げた関係者諸氏に敬意を表する。

 ふと、故若松孝二の「実録・連合赤軍」を思い出した。あの映画は見終えた後しばらくの間は足が震えて席を立てなかった。それほどの衝撃はないが、時間が経つにつれてその痛みと悼みは、じわじわとボディブローのように効いてきた。苦い思いを反芻した。そして気がついた。四代にわたる福島の原発に翻弄されたある一家一族の物語であるが、それはそのままこの自分も含めた日本人そのものの「物語」なのだと。

 この映画の主人公というのは、原発事故後、現在東京に一家を上げて避難してきた16才の少女・怜なのだが、彼女は深く心を閉ざし見知らぬ男に体を売るなど自暴自棄に生きている。
 その彼女の祖母である愛子の震災前の日常とやはり孫と同じ16歳の頃―――それは、福島原発建設に地元が大きく揺れ動いている頃、少女時代の愛子の姿なのだ――が交互にカットバックして描かれ、そこにさらにまた愛子の父の若き日の姿も加わる。戦時中、学徒動員でウランを含むとされる鉱石を山の中で汗まみれで切り出している15歳の少年だ。
 だからかなり重層的かつ複雑な構成で最初は個々の登場人物の関係が良く見えてこないのでかなり混乱する。が、観ているうちにしだいにバラバラだった各人が全て一つに繋がってこれは福島に住んでいた原子力に翻弄され続けた一家四代にわたるカルマ(業)の物語なのだと見えてくる。

 まだ一般劇場公開されていないのでこれ以上書くべきではないと思う。が、初めて知ったことだが、この国でも鳥取県の人形峠以外でも原子力爆弾製造のため、僅かに含まれるウラン鉱石を求めて戦時中に採掘が行われていたこと、しかもそれに従事させられていたのは地元の中学生たちだったことには驚かされた。
 そしてそのときの少年が後年、大人になって地権者の一人として原発建設のための土地買収騒動に巻き込まれ、最後まで抵抗したものの無念の死を遂げる。彼の娘愛子は16歳の孫娘怜を持つ祖母になり、あの3.11のその日を迎えるのである。※実際の津波映像をも交えたそのシーンは圧巻で身震いさえした。そして被災後、一家で東京に避難してきた怜は自暴自棄となり非行に走っていく。

 だから当然のことこの映画は実に重苦しい。時に観ているのが辛くなるぼどかなり痛みを伴う。が、しだいにその痛みは悼みへ、さらにようやくラストではかすかだが確かな「希望」が見えてくる。
 それはこの一族の抱えていた原子力というカルマ、この一族を70年も翻弄し縛ってきた負の業は四代目の少女の強い決意によってやっと溶け空へと消えていくのである。亡き先祖たちの魂も救われていく。

 日本と日本人も広島と長崎に原子爆弾を落とされた。何十万人もの人々が命を暮らしを奪われた。そして今もまた原発事故という原子力によって直接の死者はいなくても関連死も含めれば多くの犠牲者を生み出した。ふるさとを失い、今も避難所生活を余儀なくされる人々がいる。
廃炉に向けて作業は進みつつも事故そのものの収束のメドは全く立っていない。
 なのに、政府と東電及び各電力会社は、原子力発電所をなくしていくどころか、国家の重要な電源ベースとして位置づけ、またもや原発を次々再稼働すべく安全審査申請中なのである。新たな建設をも否定していない。さらには海外にまで原発を輸出していく。

 これではこの国が背負っている原子力という負のカルマは永遠に消えやしない。このままでは原子爆弾で死んだ人たちも浮かばれない。
 原発と原子爆弾は違う、と映画の中でも原発誘致派は声を大にしていた。が、つまるところ、戦争も原発も国策であり、いつだってその国策=国家の意思によって翻弄され、被害を受け、苦しむのは国民である限り図式は全く同じなのだ。無謀な戦争さえ起こさねば広島、長崎への原爆投下もなかったわけだし福島の事故も原子力の平和利用という「国策」の結果、必然的にもたらされたのだ。

 原子力とは本来人間と共存できるものではなかった。それを絶対安全「明るい未来のエネルギー」と謳い上げ、広島長崎の教訓を無にしてしまった。日本が背負った「原子力」のカルマは今も続いている。今こそ、そのカルマから脱しないと末代までその業は続いていく。それでは死んだ者も生きている者もこれから生まれてくる者も救いがない。

 「あいときぼうのまち」。怜の吹くホルンの響きに耳を傾けよ。我々日本人はこの追悼の物語を観るべき義務がある。原発をなくしていく責務がある。
http://www.youtube.com/watch?v=Duw9Gw40fs8