世界は、確実に終わりへ、破滅へと向かっている~続き2019年04月09日 23時20分52秒

★だからこそ、ヨナや洗者ヨハネのような人が求められるのだ、と。

 我も昔は、マルクス、というか科学的社会主義を少しかじったし、社会は段階的に進歩し発展していくと夢想した。そう、一時的にまた元へと、後退しているように見えても、間違いなく人類はより良い方向へ発展していくと。
 しかし今は、そうはとても思えない。古代ローマ帝国やヂンギスハーンの王国を見るまでもなく、どんな国家、文明でもどれほど栄華を誇ろうとも必ずいつかは衰退し終わりの時が来る。
 また、船井幸雄氏らのスピリチュアル本など、ニューエイジ本なども古本屋なのでずいぶん手にとって読んだが、彼らが楽観的に信じ思い描いているように、地球規模でアセンションとか、良いことや素晴らしい段階が来るなんて絶対に信じられない。

 この世のすべてのものには終わりが来るし、社会の発展も含め自然に世界が良いようになっていくなんて絶対にありえないと考える。もし法則があるとすれば、万物は流転しまた元に戻る、その繰り返し、ということだろうか。
 人は確かに様々なことを学び成長していく。しかし、その肉体が滅びれば、その人の学び得たものはそこで雲散霧消してしまうから、また1から新たな人が新たに学び直さないとならない。
 情けないことは、知識はともかく、感情、感覚的なことなど、人には体験、つまり「経験」でしか学び得ないことも多いから、戦争が何故悪いことなのか、絶対悪であり繰り返してはならないかは、その体験者が死ねば忘れ去られてしまう。よって古今東西戦争や紛争は何度でも繰り返される。

 歴史から学ぶという言葉はあるが、現実問題において、武力に対しては武力で対峙するしか手はないというのが、国際社会なのである。
 日本国憲法が、国連総会で全会一致で国連憲章として採択でもされない限り、世界中から核兵器も含めて「兵器」はなくなりはしない。
 ただ、そうした憲法が記す「理想」があり、その「理想」を「現実」に合わせようと目論む輩と、「現実」をその「理想」に近づけようと望み考える人がいて、それこそが「憲法改正」の論点なのである。

 モノゴトは何であれ必ずおわりを迎える。中でも権力など統治機構は、長く続けば長くなるほど最後は腐敗し内からも外からも崩壊していく。今の自民党政権を見るまでもなく。
 しかし、このままその腐敗した自民党政権を支持し延命させることを国民の多くが是認し結果として容認するならば、それは間違いなく日本という国家の終わり、破滅を意味していよう。

 「悪」とはじっさいの犯罪のような自覚的悪もあるけれど、社会的規模となると、それが「悪」だとは誰も気づかなくなっていく。かつての帝国日本が、アジアに侵略しさらにはアメリカまで攻撃してアジア太平洋全体を戦禍に巻き込んだように、そのときどきの時点では、日本人のほとんど誰もそれが「悪いこと」だとは考えもしなかった。気づいてなかった。

 その罪悪の結果が、原爆投下や全国各地の空襲であるかはともかくとして、なぜそんな破滅に至るような「悪いこと」を止める者、反対する者がいなかったのかと不審に今は思える。
 が、当時は、その戦争に突き進む国家に抗う者は「アカ」であり、国家反逆者としてたちどころに逮捕投獄されてしまっていたのだから、誰も声高に異論を叫ぶ者はいなかったのだ。

 そして今、歴史に学ばない人間は、再び、いつか来た道を進もうとしている。集団的自衛権の解釈変更によりアメリカが起こした戦争でも日本は協力しないとならないし、ひとたび戦争が起これば、戦争に反対する者は、国家転覆の企てとして「共謀罪」でその行動の事前に逮捕されてしまう。
 日本だけでなく、世界中に権力者の欲望と「悪」が満ちている。そしてこの社会、世界は確実に破滅に向かっている。

 だからこそ、我は聖書を読むとき、ヘロデ治世のとき、人々に悔い改よ、と説き、領主ヘロデの不義を糾弾し、よって捕らえられ首をはねられたヨハネという「荒野で叫ぶ者」と、貧しき弱く虐げられた人々を癒し愛されたナザレのイエスという二人に深く心を動かされる。
 旧約聖書には、様々な預言者が登場し、主の言葉、その意思を、王や民に伝えては悔い改めるよう迫った。が、ユダヤの民は、それでも悔い改めることはなく、ついにはイエスという男をも十字架にかけたと聖書は記してあるが、それはさておき。

 旧約にあるように、ある町、ある国家、その社会に破滅が迫ってきているとするとき、皆で浮かれて「悪」を容認し民自らも染まるような行いをしていたら、ソドムのような結末を迎えることは確実だろう。
 先に記した「ヨナ書」では、主を怒らせたため破滅を迎える悪の町ニネベで、ヨナがその危機を叫んだことにより、民は悪を悔い改め災いから逃れることができた。
 ならばこそである。すべてに終わりがあり、やがて必ず破滅に向かうとするとしても、ヨナのような、洗者ヨハネのような者こそが現れれば、そして民がその声に耳を傾ければそれは避けられるのである。

 それは一時的なものかもしれない。しかし民が、国家が、社会全体が悪へと傾斜しつつあるときこそ、そうした「悔い改めよ」と叫ぶ者、権力者の不義を糾弾する者の存在が価値を持つ。
 思えば、日本初の公害闘争を率い谷中村鉱毒事件を世に訴えた義人田中正造は、その風貌も生涯も「荒野で叫ぶ」ヨハネのようではないか。

 我はそうした人にはなれはしないが、そういう勇気ある者たちを支え常に否認しない者でありたいと願う。が、弱い我のこと、またすぐに転ぶかもしれないが。しかし愛の人、イエスは三度も彼を否認したペテロを赦してくれたのである。そう、ならばこそ、だ。
 どんなときでもまだできることがある。

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